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文学と政治のかかわり  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 夏目漱石は、その著『草枕』の冒頭で次のように述べています。
 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である」(新潮文庫)
 この言葉は、日本の近代文学の在り方を象徴しているように思われます。それは、明治の開国以来の近代化の過程にあって、文学というものが、現実との闘いに挫折し、闘いを放棄した中に、その位置を見いだしてきた、そうした文学が主潮をなしてきたという事実です。先に挙げた芥川龍之介の自殺などもその一つの現れでしょう。
 たしかに文学や芸術は、人間の欲望が渦巻き、醜いかけひきや葛藤が繰り返される現実世界から距離をおき、転変常ならぬものを超えて“永遠なるもの”を追求するという性格をもっています。とくに日本の文学や芸術は、幽玄の世界を追求し、花鳥風月を主たるテーマとしてきた超俗の伝統があり、それが今日の文学者や芸術家にも影響しているのかもしれません。たしかに、それも文学の一つの効用でしょう。
 また、過度に政治や社会を意識した結果、党派性にとらわれるなど、文学そのものの衰退を招くこともあります。しかし、どのような形――たとえ現実との闘いの放棄という形であれ、文学者は“時代の子”であるという運命から逃れることはできません。
 二十世紀について「政治が運命となった時代」(脇圭平『知識人と政治』岩波新書)と言われているように、だれびとも政治のもつ巨大な力と無関係でいることはできないことも、また事実です。そこで、文学と政治の関係もあらためて問われなければならないでしょう。
 そこで想起されるのが“アンガージュマン(社会参加)”を自己の文学理論としたフランスのサルトルです。彼は、人間が時代の外に出て時代を観察することができない以上、現にみずからが生きている生に責任を負わなければならないとし、作家は“永遠なるもの”に目を向けつつも、自分の同時代人、同国人、同胞に語りかけるという“参加”を決断しなければならないと主張しました。
 その意味では、アンガージュマンはもう一面ではアンガージュマン(自己拘束)でもあるのですが、サルトル自身、しばしば政治問題に自己の見解を発表し、抗議行動を行ったことはよく知られています。
 あなたは、現在、ソ連において、ペレストロイカの旗手として、文学の上で大きな役割を果たしています。その立場と経験から、文学と政治とのかかわりについて、どのようなお考えをお持ちか、お聞かせいただきたいと思います。
2  アイトマートフ 驚くべきことに、作家と科学者には相通ずるものがあります。アインシュタインの『自叙伝』の一節を引用しましょう。
 「ショーペンハウエルと同じように、私は、まず第一に、芸術や科学へと導くもっとも強い動機の一つは、日常生活の耐えがたい残酷さやどうしようもない空虚さから逃れたいという願望であり、つねに変化してやまない自分自身の気まぐれの枷から逃れたいという願望であると思う。その原因が繊細な心の琴線をもつ人々を、個人の生活から、外の、客観的なイメージや理解の世界へと押しやるのである。この原因は、都会人を騒々しい濁った環境から、静かな山岳地帯の、目が不動の澄んだ空気を通して永遠のものと思えるおだやかな輪郭を楽しむことができる風景へと抗しがたく引きつけるノスタルジア(郷愁)になぞらえることができる。
 しかし、このネガティブ(消極的)な原因に積極的な原因が加わる。人間はなんらかの適切な方法で自分の中に世界の単純かつ明瞭なイメージを創ろうとするものである。そして、それはたんに、みずからが創り出したイメージによってこの世界を乗り越えようとするためばかりではない。それに従事しているのは芸術家、詩人、理論にふける哲学者、それに自然科学者である。それぞれがそれぞれにそれを行っている。人間はそのイメージとその仕上げに自分の精神生活の重心を移す。そのイメージの中で心の安らぎと確信を得るためである。それらはあまりに窮屈で目まぐるしく移り変わるみずからの生活の中では見いだすことができないものである」
 学者であるアインシュタインの無神論は有名で、ことに客観世界を重視する傾向はいなめません。この文章を読む上でそのことを考慮しないわけにはいかないにしても、内的本質において、両者の観点は一致すると思います。それのみか、お互いに補い合っています。
 ここでアインシュタインが芸術家を非芸術家、つまり「都会人」と比較し、両者ともに「日常以外の」世界への抑えがたいノスタルジアを感じていると見ている点に、私はとくに注目しています。なぜなら、もし私の理解が間違っていなければ、アインシュタインは、芸術家と非芸術家を共通項で結ぶことで、それとは知らずに仏教教学の本質に迫っていると思われるからです。つまり、前者と後者に優劣を認めないという意味でですが。
 池田 そのとおりです。あらゆる面における人間の本質的平等の主張は、「才能のある人」と「才能のない人」の上下関係を認めないということも含めて、私たちの哲学の基本点の一つです。ここから私たちにとっては「詩人」の使命はまったく別のものになります。詩人は、いってみれば、政治に雇われているものでもなければ、政治に奉仕するものでもありません。
3  アイトマートフ ところで、ブロークの次のような考えはどう思いますか?
 「私が思うに、この詩(『アッチス』のこと)のテーマは、普通言われているように、カトゥルスの個人的な情熱だけではない。むしろその反対のことを言わねばならない。カトゥルスの個人的運命は、すべての詩人の情熱がそうであるように、時代の精神によって満たされていた。その運命、リズム、韻律は、詩人の詩のリズムや韻律と同じように、時代によって吹き込まれたものである。なぜならば、現実の詩的把握には個人的なものと一般的なものとの間の断絶はない。詩人の感覚が鋭ければ鋭いほど、彼は『自分のもの』と『自分のものでないもの』とをますます不可分のものとして感じ取る。それゆえ、嵐と不安の時代には、詩人の魂のデリケートでごく私的な希求は、嵐と不安に満たされているのである」
 カトゥルスの発想は、本人は意識していないと思いますが、私にはとても仏教に近いように思われます。それは、天才的な『メタモルポーセス(変身譜)』の作者オウィディウスも同様です。
 そして皇帝により、オウィディウスは政治的理由によってスキタイ人のもとに追放されました。一つの原因となったのは『愛の技術』でした。それによって若い世代を堕落させたというのです。
 池田 芸術と政治の交差を証明する非常に説得力のある例です。

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