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日蓮大聖人・池田大作

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大地への愛、平和への希求  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 ソ連の大地は、近代以降、ナポレオン、ヒトラーと、二度にわたって蹂躙されています。ことに第二次世界大戦では、二千万から二千五百万にもおよぶ国民が戦火の犠牲となり、親族の中に戦死者のいない家はない、とまで言われるほどです。
 大陸国であり、ヨーロッパ諸国や中国、モンゴルと長大な国境線を接しているという、戦争の危惧が絶えない地政学的な位置にあることが関係するとも言われますが、私は数次にわたる訪ソを通じて、歴史的に培われてきた平和を求める民衆の願いは、他に例を見ないほど真摯であると感じています。
 二十数年前になりますが、私どもが七万人を収容する国立競技場で、「東京文化祭」(=一九六七年十月十五日)を行ったことがあります。そのさい、観客席に、各国語で“世界平和”の人文字を描き出したのですが、中に“МИРУ―МИР”のロシア語が浮かび上がっていたのも、懐かしい思い出です。
 ところで、聞くところによりますと、平和を意味するロシア語のミールは、同時に農村共同体をさすとのことです。私はこの語義をたいへん興味深く感じました。
 ロシアの人々にとって、大地を愛することと平和を愛することとは、切っても切れない関係にあるのではないでしょうか。『アンナ・カレーニナ』(トルストイ著)のレーヴィンに象徴されるように、ロシア文学は善良で純朴で本然的な平和主義者としか言いようがない、魅力ある農民像を数多く残していますが、民衆感情という土壌、ロシアの大地には平和への本然的な希求が息づいていると推察しているのですが……。
2  アイトマートフ ロシア人についての好意あるお言葉、ありがとうございます。ほかの民族についても同じことが言えるのではないかと思います。とは言っても、戦争は民衆の参加なしには起こりもしませんし、行われもしません。ところが、大小あわせて、どれほどの数の戦争があったのか、とても数えきれません……。
 残念ながら、民衆は戦争に引き入れられ、戦争に参加しますが、戦争を始めるのは、権力をもつ者たち――王、独裁者、政府、民族主義的政党です。戦争の擁護者はつねに戦争を合理化する説得力ある理屈を見つけだしますが、戦場で戦うのは庶民であり、民衆です。
 このテーマは本当にいくら語っても語り尽くされることはなく、それに、本当に悲劇的です。人類の歴史に戦争は起こるべくして起こるものであり、不可避である、ということを証明するさまざまな理論があります。それらの理論は、地政学的な数量や問題を論拠としていて、そこでは、人間はたった一度だけこの世に生を享け、しかも非常に短期間しか生きられない、かけがえのない「個」の存在としてではなく、せいぜい両替用の小銭ぐらいにしか扱われません。人間の死や苦しみは、たかだか、抽象的な同情の対象でしかありません。いつの時代もそうでした。現代の二十世紀も例外ではありません。
 戦争は普通、理性の論拠をわきへ押しのけてしまいます。理性は戦争の論理に対しては無力です。
 つねにそうでした。そこに人間の魂の普遍的な悲劇があります。
 しかし、人道主義の理念をしだいに時代の潮流としつつある今世紀、二十世紀は、後世の人類に新しい歴史と時代の到来を可能にするかもしれないと、私は期待しているのです。その新しい時代とは、いたる所で行われている平和擁護の戦いが人間の思考様式になり生活手段となる時代であり、さらに言えば、まだ自覚されてはいないものの、おそらく、魂の、新しい、普遍的な宗教になる時代だと思いますが、どうでしょうか。
3  池田 まさに、そのとおりです。そうしたグローバルな意識変革を志向する宗教を、私はつねづね「人間のための宗教」と呼んでいます。
 「人間のための宗教」ということを、もっと具体的に言えば、宗教は、「平和」を初めとする人間社会の「善」の価値に奉仕し、それらを磨き上げ、鍛え上げていく働きをしなければならないということです。すなわち、「友情」や「正義」「希望」「自制」「努力」「勇気」「信頼」「愛」……いずれも「善」の価値ですが、いうなれば、それらの“培養基”となってこそ「人間の宗教」であり、戦争か平和かということが、人類の歴史に決定的な役割を果たすようになった今日、宗教に未来があるとすれば、そこに徹する以外にないというのが、私の信念です。
 逆に、「人間のための宗教」と対極に位置しているのが「宗教のための人間」という、一種のパラダイム(範型)です。そこでは「宗教」が「人間」よりも上位に位置しており、宗教的権威――それは「偶像」であったり「聖職者」そのものであったり「教条(ドグマ)」であったりします――のために、人間が手段となり犠牲に供されてしまいます。
 いうまでもなく、人類史を彩ってきた宗教の多くは、このようなパラダイムに入ります。大小の宗教戦争一つ取り上げてみても、太古より現代にいたるまで、いっこうに後を絶たないということがその証左です。それでは、宗教は「平和」ではなく「戦争」に奉仕してしまう反人間的な存在に堕してしまうでしょう。「善」の価値どころか「反目」や「不信」「不正」「憎悪」「臆病」「卑怯」など「悪」の価値をはびこらせ、増長させる“培養基”となり、「悪」への加担を、宗教的な装いで美化し、正当化してしまう始末です。
 私は、世界の多くの優れた識者と対談を重ねてきましたが、A・ペッチェイ博士にしても、L・ポーリング博士にしても、宗教の過去に果たしてきたそのような側面については、非常に鋭く、厳しく、また批判的に見ておられました。「神々」の声に血なまぐささ、そこに巻き込まれた人間の悲惨さを見れば、当然のことでしょう。だからこそ、私は「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への、ある種の宗教革命を、時代の転換へのキーポイントとして叫びつづけているのです。

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