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日蓮大聖人・池田大作

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文学者の社会的責任  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 ソ連邦最高会議員でもあるあなたは、一九八六年の秋、アルビン・トフラー氏やアーサー・ミラー氏らを招いて故郷のイシククリ湖畔で開かれた国際フォーラム、いわゆる「イシククリ・フォーラム」を主宰し、翌一九八七年にモスクワで開催されたフォーラム「核のない世界のために、人類が生きのびるために」を提唱されるなど、そのご活躍はたんに文学のみにとどまりません。「行動する文学者」として、今後ますます活動の範囲を広げられることが期待されております。
 そのあなたにうかがいたいのですが、文学者の社会的責任について、どのように考えておられますか。ゴーリキーは、「文化人たちよ、あなたがたはだれの味方か」と題して「あなたがたは自分に人類文化に奉仕する力があり、その文化を野蛮への転落から守る義務がある、と考えている。それは大変よいことだ。しかし、この文化を守るため、あなたがたが今日、そして明日、何をすることができるのかという簡単な問題を自分自身に提起してみてください」と訴えています。
 私は、文学者にかぎらず、すべての知識人はその社会的責任に敏感でなければならず、またその立脚点は、党派性に偏らず、「人間愛」「正義」「平和」などの普遍的な価値をめざすべきだと考えています。
2  アイトマートフ 知識人にとって文化に対する責任は、あらゆる問題の中での最高の問題です。もっとも、そのことは、つまるところ、あらゆることに対して責任があるということ、つまり、社会が存在し発展するその拠り所になるあらゆることに対して責任があるということです。
 大衆文化、科学技術革命の時代――それが我々の宿命であり、不幸です。大衆文化の状況の中で、どのようにして生きぬき、本当の価値の優先性をどのように維持したらいいのでしょうか。
 現代の人類は何よりも精神的荒廃、憎しみ、シニシズム(冷笑癖)に脅かされています。芸術においては野蛮さ、ポルノグラフィー、暴力賛美がはびこっています。人類が時に生命を賭して戦いとってきた多くの崇高な理念が捨て去られ、幾世代にわたって育まれてきた献身が踏みつけられているのです。
 その中で、青年は、みずからの精神にぽっかりあいてしまった空洞を何で埋めればよいのかわからず、自身の内なるエネルギーを費やすべき何物をももっていないのです。
 インテリゲンチアを失い、農村を不毛にし、記念碑を破壊し、神を否定し、法を犯した時代――そのような時代がまいた遠因が現代という結末をもたらしました。政治、経済、文化における破廉恥きわまりない暗愚は、現代人が受けている報復とも言えましょう。
 知識人、自分を知識人と認めるならばの話ですが、その知識人の主要な責任は、作家もそこに含まれますが、まず第一に、私たちに起こり今も起こりつづけていることの原因と、その袋小路から抜け出る道をみずからに明らかにすると同時に、人々にも知らせることです。つまり本質に迫ることです。
 したがって、作家の責任は、人々の苦悩、痛み、信頼、希望が込められた、苦しみぬいてつかんだ言葉を創造することです。作家は人々を代表して発言することをゆだねられた人間だからです。
 この世界に起こっていることはすべて自分自身に起こっていることであり、それはすべていやおうなしに自分の創造活動に反映されます。その創造活動はたんに文学なり絵画なり音楽なりに「従事」しているということではなくて、自分の運命であり、万人に必要な真理を理解し表現するための手段なのです。真理は自分自身より上です。したがって、「狭い党派的利益」など問題になりません。
3  池田 悪や不正に対して、心の底から怒らなくなった、というよりも怒ることができなくなったのは、けだし、世界的なとくに先進国においていちじるしい傾向です。この感性の鈍麻は、とくに作家や芸術家には、身にしみて感じられていることでしょう。
 記憶しておられると思いますが、「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」の一室に、ユゴーが八十歳になった時、国の内外から寄せられたお祝いの手紙が集めてありました。そこに、フランスの作家エミール・ゾラの名を見いだしたことは、ちょっとした喜びでした。
 ユゴーとゾラの交友関係についてはつまびらかにしませんが、両者の作風は、かたやロマン派、かたや自然主義と、およそ異なっていたにもかかわらず、折節のメッセージの交換があったということはうれしい事実です。
 フランス伝統のモラリストという概念を広く解すれば、ユゴーもゾラも、モラリスト群像なみいるなかの輝かしい星として挙げることができます。彼らは、権力者による悪や不正、それによる民衆の苦しみを、決して傍観視してはいませんでした。
 ナポレオン三世の専制と対抗して一歩も退かず、言論の戦いの矛をおさめなかったユゴーはいうにおよばず、冤罪事件として名高いドレフュス事件が起こったさい、大統領フォールあてに「予は弾劾す」と突きつけて立ち上がったゾラも、屹立する言葉の戦士でした。
 彼らは、作家である前に人間として、同じ人間の苦悩を黙視していることができず、怒りと抗議の叫びを上げたのです。ツァーや教会の権威にまっこうから抗ったレフ・トルストイの一生なども、あらためて指摘するまでもないことです。
 現代では、作家や知識人の叫びが、ユゴーやゾラやトルストイの場合のように、国境を超えて人々の魂を揺さぶり、津波のような反響を呼び起こすようなことは、本当にまれになりました。
 とくに先進国にあっては――こうした一律的なくくり方には無理がありますが――人々の心はおしなべて、魂の連帯を恐れて自閉的になり、そうした風潮に気圧されてか、作家や知識人も、悪や不正を告発する正義の叫びを上げなくなりました。それらを声高に叫ぶこと自体空しく、どこか気恥ずかしく、自信なげなのです。そればかりか、そうした自分の上に開き直り、世の中を斜めに見るシニシズムが支配的です。
 私は最近、アフリカの黒人解放の闘士ネルソン・マンデラ氏や、同じく詩人のムチャーリー氏と語りましたが、悪や不正への瑞々しい怒りの声は、むしろ第三世界にこそ生きていると痛感します。

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