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青年期の読書
「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)
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池田
社会の進展に歩を合わせて、物質的な条件が満たされてくればくるほど、青年層の哲学離れ、その意味からの読書離れが甚だしいように思われます。日本においても、何か奇を衒った、つねに「人気」が先行する軽薄な文化が横溢しているというのが実情です。また、一方で、何世紀にもわたって普遍の価値と名声を保ちつづけてきた古典、歴史的評価の濾過を経てきた名著への関心のなさ、軽視という問題があります。
現在の文学状況一般を見ると、作家の文体や、登場する「小道具」に大きな関心が払われ、作家の経験や心象、作品の核となるべき思想にはあまり重きがおかれない。こうした作品は、読者の末梢神経を刺激することはできても、中枢神経にはとうていおよばず、そこからは「人間いかに生くべきか」といった骨格の太いテーマは、決して浮かび上がってこないでしょう。
したがって、書物に驚嘆し、作家の世界に圧倒され、時には自身の存在そのものに震えるような転回を引き起こす、といった体験を期待することはできないのではないでしょうか。
ソ連においては、『ドストエフスキー全集』の予約受け付けのさいには、寒天にもかかわらず、モスクワの各書店に十日も前から長蛇の列ができたとのこと。日本では終戦後に、著名な哲学者である西田幾多郎の『善の研究』が売り出されるというので、長い行列ができたことがあります。
読書人口に対して本が少ない時代もあったと聞きましたが、精神的なものへの欲求、知的な好奇心は、現在、ソ連のほうがはるかに強いこともあり、こうした点についてぜひうかがってみたいと思うのです。
エンターテインメント(娯楽)としての読書も当然あるでしょうが、とくに若いころにおいては、深い問題意識をいだいて、名著やそれを著した著者と激しく格闘するくらいのひたむきさがほしいものですね。
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アイトマートフ
青少年の読書の範囲は社会や家庭がおそらく最も頭を痛めていることがらです。幼いうちから本は人間を精神的に日一日と、いってみれば、一文字ずつ形づくります。重要なことは、家庭教育と本とが一致すること、相互に作用し合うことです。
しかし、その調和はしばしば破られています。ここでは「青年たちが何を読んでいるかがわかれば、その国の未来がわかる」というよく知られた警句がぴったりです。非常に幼稚な考えの持ち主だと言われるのを覚悟の上で、私はこの問題について、保守的かもしれない自分の考えをあえて主張しようと思います。
青少年の読書は、何よりもまず悪を排除するような若い魂を育てるものでなければなりません。未来はつねに悪との戦いです。そしてそれが主要なことです。そのことを一日たりとも忘れてはなりません。青少年を育てるということは、彼らを悪との戦いに備えさせるということです。あらゆる時代においてそうでしたし、今後もそのことは変わりありません。
しかも悪はつねに前途にひそんでいます。悪は昔からつねに青少年一人一人をねらっています。一方、善は創造を、魂の不断の努力を要求します。
しかし、本は、たとえどんなに良い意図をもって書かれたものであっても、面白くも楽しくもないもの、簡単に言って、つまらないものがあります。人は、本の中で「何が良くて何が悪いか」を見分けることを学び取るために、長い時間を、ときには長い年月を費やさなければなりません。
最初の一節の単語の構成、語句の構造を見て、さらに重要なことはその語句に盛られている思想から、その先に何が書かれているか、そもそも、その本は読むに値するか否かを判断することは、簡単なことのように見えて、そのじつは、多くの努力と時間を要することです。
たくさんのつまらない、月並みな、紋切り型の出版物のジャングルの中をどれだけ長くさまよい歩かねばならないでしょう。若い人たちにはその密林の中でいつまでも道に迷ってほしくないし、空虚な教訓や、美辞麗句や、剥き出しの宣伝文句の泥沼に足を取られないようにしてほしいと思います。
しかし、そのためにはどうしたらいいのでしょう? 私のおめでたい牧歌調の考えがいささか現実離れしたものであることはよくわかっています。私が、気になっているのは、青少年を良い読者にするにはどうしたらいいか、ということです。
道は一つしかないように思います。それは、意識的にそのことをめざすということです。ゲーテの言葉を思い出します。彼は生涯ずっと読むことを学んでいる、と、すでに高齢になっているにもかかわらず、恐れずに告白したのです。かのゲーテにしていまだに学んでいる、と!
そこで私は考えます――読むことを学ぶということはどういうことか、と。
一般的に、読書は、情緒的、道徳的生活の特殊な形態であり、その人のもつ追体験の能力が大きく深ければ深いほど、それは輝かしいものになります。
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池田
あなたのおっしゃる「追体験の能力」を「想像力」と置き換えてみれば、ゲーテの「読むことを学ぶ」ということは、生涯、想像力を鍛え上げていくことに通ずるでしょう。
これは、考える以上にむずかしいことであって、むしろ、若いころの活発な想像力が、年とともに衰え、摩滅していく例のほうが多いのです。P・ヴァレリーは「ゲーテにあって何よりも先ず私の一驚することは、あの非常な長命であります」(「ゲエテ頌」佐藤正彰訳、『ヴァレリー全集8』所収、筑摩書房)と述べていますが、その長命とは、馬齢を加えることでは決してなく、年齢を積むほどに成熟し、円熟しゆく想像力の鍛えを意味しています。
それには、生涯にわたり、若々しい青春のエネルギーを持続していかなければなりません。その点においては、作者であろうと読者であろうと同じことであり、良き読者であることは、良き作者であることと同じく、その人の人間的成長の異名でもあります。
私は、青年時代、恩師の戸田先生から「書を読め、書に読まれるな」と繰り返し繰り返し教えられましたが、志向していたところは、良き読者としての人間的成長でした。
とはいえ、その「想像力」「追体験の能力」は、かならずしも生まれながらにして人間に備わっている能力ではなく、努力して発掘され、鍛えられなければならないと思います。
たしかに、それが多い人もあれば、少ない人もあり、また三番目には……、私が心配しているのはまさにこの三番目の人たちです。彼らが本に求めているのは精神的な喜びではありません。本当の喜びをもたらすのは精神的な喜びだけなのですが、その人たちが選ぶのは、あからさまな性描写か、でなければ暴力や残酷を売り物にする娯楽読み物であり、彼らが模倣の手本にしているのは、目的――それは高尚な装いをしていますが、本質的には低級なものです──達成のために、あらゆる障害を粉砕する「強い」英雄、つまりスーパーマンなのです。
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