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日蓮大聖人・池田大作

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正義の「ありか」とは  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 あなたは少年時代を振り返って、「飢餓、物資不足、病気、どの家も死者の喪に服するといった過酷な出来事のなかで、私は苦しみ、その経験にもとづいて人生を深く考える機会を得たのだと思います」「もう何も食べるものがない人から最後の羊を取り上げるようなことには胸がかきむしられる思いがしました。過酷な時代でした」と述懐しておられます。
 現実社会の矛盾を目の当たりにし、あなたにはおそらく、燃えるがごとき正義への希求が生まれたのではなかったでしょうか。鋭敏な感受性に富む少年時代にあっては、それはとくにいちじるしかったように思われます。
 私はスポンジが水を吸い込むようにすべてを吸収していく十代の後半、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読んださいに、主人公ジャン・ヴァルジャンの、良心の目覚めから貧しき人々への博愛へといたる軌跡に胸を打たれました。不当な圧迫のもとにおかれた民衆への愛情、社会変革の理想と強き意志――私はそれらをとおし、本当の意味での「正しさ」は、「厳しさ」や「優しさ」に裏打ちされていなければならない、すなわち社会矛盾の分厚い層に覆われた正義の「ありか」について、私に大きな示唆を与えてくれたと思うのです。
 あなたの場合は、そうした社会矛盾に対する義憤について、何に正義の「ありか」を見いだされているのでしょうか。また、何が正邪の判断基準であり、それは何を源泉とされているのでしょうか。
2  アイトマートフ おっしゃるとおりです。もう少し深く掘り下げれば、まさに正義に対する憧れから、つまり、人間は出生の秘密やどの階層に所属するかにかかわりなく、自己実現の権利をもち、自分の人生を人間にふさわしく生きる権利をもっているはずだという考えから、たとえば、社会主義等の理念も生まれました。
 正義を標榜する用語が登場したのはかなり現代に近づいてからです。しかし、正義への憧れとなると、それは、疑いもなく、太古から存在していました。それは人間の遺伝コードの中に組み込まれているのかもしれません。
 古代の人々は――少なくともある種の歴史資料に名をとどめている人々は――「黄金時代」への憧れをもっていました。のちにそれを貧しき人々の宗教であるキリスト教が受け継ぎました。その信者たちを信仰のための恐ろしい苦しみに向かわせたものは何だったのでしょうか。憧れです。彼らは地上の苦しみや難儀を代償にして「天国」が用意されていることを確信していました。その天国へは、ラクダが針の穴をくぐれないように、金持ちは道を閉ざされていました。
 私たちはキリスト教の理想によって創造された素晴らしい文学や芸術をもっています。
 ドストエフスキーはあなたの好きな作家の一人であることを私は知っています。そのドストエフスキーは『貧しき人びと』から創作を始めました。一方、トルストイはすべての文学をキリスト教的なものと非キリスト教的なものとに分けました。つまり、人道的なものと非人道的なものとにです。
 素晴らしいことです。しかし、残念ながら――私たちの社会主義の経験は何を示しているのでしょうか――私たちは「金持ち」を滅ぼしましたが、「貧しい者」を裕福にはしませんでした。貧困はそのまま残っています。
3  私が言いたいのは次のことです。おそらく、正義は「金持ち」と「貧乏人」とを厳しく区分けすることによって達成できるのではないのです。私たちは、そのために、皆が平等にならねばならない、皆が豊かにならねばならない、との目標のもとに、盲目的本能のおもむくままに激しい闘いを展開していますが、私に言わせれば、「金持ち」であることは恥ずかしいが「貧乏人」であることも同じように恥ずかしい、というように問題を立てるべきです。パンのことを言っているのではありません。どんな名称をもつ社会であろうと、物乞いのいる社会は不名誉です。そういう社会は自分の正しさを主張する権利はありません。
 しかし、繰り返しますが、私が言いたいのはそのことだけではありません。私の考えはセネカの「貧しい者は少ししかもっていない者ではなくて、より多くをもちたいと欲している者である」という言葉が説明しています。
 どのようにしたら「より多くをもつ」ことができるのでしょうか? 考えるまでもなく、おのずと知れています。「より少なくもつ」人を犠牲にしてに決まっています。
 そこでまた、何を「より多く」か、何を「より少なく」か、という問題が生じます。
 残念ながら、現在の不安定な、分裂した、厳しい世界にあっては「日々の糧」のことしか問題になりません。その問題からは逃れられません。地球上には数百万の飢えた人、困窮者がいます。彼らの存在は、同じような状態の人間を生みかねないあらゆる社会機構に向けての非難であり、呪いです。許すべからざる不正の、鮮明きわまりない、悲しむべき表現です。
 どのような不正かを落ち着いて論じようとすれば、舌が口の中で凍ってしまいます。しかし、だからといって、黙っていることはできません。
 旧約聖書以前の時代の、天地創造のそもそもの初めまでさかのぼる悪、その悪の根源はどこにあるのでしょうか?

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