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文学への初志  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 アイトマートフさんには、優れた「作家」の顔とともに、何より「人間」としての強さと大きさを感じます。偉大な文学は感傷でも自己満足でも観念のみでもない。人間と社会の生きた現実に根差し、現実の格闘から生まれてくるものです。
 その意味でも、あなたの作品には鋭き「知性」があり、温かい「感情」があり、不屈の「意志」がある。また、信ずる正義を堅持して、まっすぐに戦っていこうという人間性の息吹があります。
 人生にあって、本物の人物と会う喜びは何ものにもかえがたい。なかでも文学者との出会いは、文学を愛する一人として、深い喜びです。
 まず、感受性の鋭い青少年時代に優れた文物に親しむことは、のちのちの人格形成に欠かすことのできないことだと思います。
 私も来し方をさかのぼってみると、もちろん諸般の情勢もありますが、集中的に名作を読み込んだのは、何といっても青少年期であり、その読書経験は、年とってからの読書では絶対不可能な――壮年、老年の読書も、それなりの意義をもつのは当然ですが――ある種の感受性を培ってくれました。読書をするということは、たんに知識が増えることではなく、新しい自分になることだといった、一種の瑞々しい感触です。
 あなたは学生時代、農業大学で畜産を学びながら、文学を志したとうかがっています。若きあなたを文学へと向かわせたものは、はたして何であったのか、まずお聞きしたい。また、その当時から現在にいたるまで、あなたがとりわけ影響を受けた作家、そして作品についてうかがいたいと思います。
2  アイトマートフ 私たちの対談を始めるにあたって、手始めにそのような話題を出してくださって、非常にうれしく思います。というのは、現代人で子ども時代に本を手にしなかったような人はおそらくいないでしょうし、青少年期に書物にふれて、非常な感動を受けたことのないような人もいない、と思えるからです。
 それは生涯の輝かしい時期です。『ロビンソン・クルーソー』一つをとっても、たいへんなものです。日本の少年少女にとっても『ロビンソン・クルーソー』や『ジャングル・ブック』のような本はつねに胸をわくわくさせる発見だと思います。
 私はそこに人間の成長の法則を見ますが、それは人間がもともと善に向かう素質をもっていることを証明するものです。だからこそ、魂が清らかで純真な間は、ロマンや冒険や教訓が大きな影響力をもつのです。
 過去を振り返って、そのような素晴らしい本を読んだときに何を考え、何を夢見たか、そしてその後それらが現実とどのようにかかわっていったかを思い出してみると、それは長い長い物語であることがわかります。
 気高い行為や自己犠牲的な行為にひたすらに自分を捧げようとする気持ちが、本の世界を離れて現実の生活に入ったとき、どれほどの悲哀や恐怖や欺瞞や敵意と衝突したことでしょう。
 しかしその場合でも最初の本がもたらした光明は消えずに、生涯の理想として残ります。私の中編『早春の鶴』『海辺を走るまだらの犬』にもそれに似た事柄が描かれていると思います。そして大人の世界と大衆文化のジャングルの中でしだいに本格的な文学に接し、弁証法、芸術的分析、哲学にふれること、それは世界の文学や芸術によって蓄積された美的経験、社会的経験を認識する上で私たち全員がたどる共通の道だと思います。
3  私たちはだれしも、自分の過去を振り返って、本当に、初めに言葉ありき、と言うことができると思います。あらゆる物の初めに、そしてこの世に生まれいずるすべての人の初めに、です。そして、言葉は、その多義性において、多面性において、またあらゆる状況のもとにおいて、すなわち、喜びの中でも、悲しみの中でも、物事の本質を冷静に理解するときにおいても、つねに神です。そこから、神は言葉の中に、万物を包括する言葉の中に求めなければならない、という信念に到達します。
 なぜならば、私たちの全生活が、善と悪のすべての次元が、神の周りを回っているからです。言葉なしには人間は文字どおり一歩も進むことができません。永遠にそうです。
 私がそのようなことを言うのは、青少年時代特有の絶え間のない衝動は、あらゆる手段を尽くして、書物や言葉で、育て上げねばならないからです。まず第一に、人間が若いころの光をできるだけ長く保ちつづけるように援助しなければなりません。言葉は、人生の最大の目標としての善の理念に全面的に奉仕しなければなりません。善を確立するためには力が、それも絶えず増大する力が必要です。なぜならば、悪はそもそもの初めからこの世で優位を占めているからです。
 悪は善と違ってつねに強い生命力をもち、つねに自己再生産と増殖の大きな潜在力をもっています。悪の本性はいたるところで大小にかかわりなく善を破壊し、踏みにじることにあります。そして言葉のみが、神である言葉のみが日々永遠に悪に抵抗することができます。
 そのために“バベルの塔”の悪魔的呪いがまず第一に言葉におよび、その結果、人々はお互いに理解する能力をすっかり失い、そのようにして神は引き裂かれ、引き離されてしまい、その状態はあまりに長く私たちを支配しつづけているのです。長くつづきすぎました。しかし永遠につづくことはありえません。
 引き裂かれてばらばらになったこの神たる言葉が、何とかして一つに結合しようという苦悩に満ちた欲求を感じないわけはありません。もしかしたら、その抑えがたい、しかも避けることのできない欲求が人間の遺伝子の中に組み込まれていて、それが、今日人々が、最終的には人類そのものの消滅を招くような、迫りつつある大破局に直面して、とくに鋭く病的に感じている言いようのない苦悩と、不可思議な恐怖の本質になっているのかもしれません。

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