Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

賢者の勲章、それは希望・友情――  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  敬愛するアイトマートフ大兄
 眩いばかりの陽光が燦々と降り注ぐ、ここロサンゼルスの天地で、あなたの真心こもる親書をひもといております。おそらく「十月革命」に勝るとも劣らぬ意義をもつであろう「八月革命」の勝利のあとも、あなたの文面には、華やいだトーンは少しも見られません。むしろ憂愁、沈痛の趣さえ感じられます。ソビエト連邦──今は、その存続さえ危ぶまれている祖国の直面する難問の数々を思えば、当然のことでしょう。
 『世界を揺るがした十日間』のあとに何が起こったかを知悉しているあなたは、今回の「世界を揺るがした三日間」のあとに何がつづくのか、固唾を飲んで見守り、案じ、当事者として苦悩を深めておられることと思います。それだけに、お互いに言葉の真の意味での楽観主義でいきたいものです。同じ条件下におかれていれば、楽観主義は悲観主義よりも、はるかに生産的であり、また“闇が深ければ深いほど暁は近い”と言われるように、昨今のソ連の社会を覆う混沌は、偉大なるコスモス誕生の前兆とは言えないでしょうか。ぜひ、そうしていただきたいものです。
2  さて、今回のクーデターの直前、長年にわたり行方のわからなかったご尊父の遺体が確認された。しかも、衣服や身につけるものがすべて朽ち果ててしまったなか、死刑判決を告げる一枚の紙が残っていたことによるとの報告を知り、まことに痛ましくも運命的なつながりのようなものを感じます。
 かつて、あなたの著書の献辞に“いずこの地に葬られているかしれぬ、わが父トレクル・アイトマートフに捧ぐ”とあるのを見いだした時の胸を突かれるような思い、また、あなたが九歳の時、ご尊父が妻子に別れを告げるモスクワのカザン駅での──そうです。おそらく終の別れになるのではないかと予感され、プラットホームの端まで列車を追いかけてこられた時の様子をうかがった時の言いようのない衝撃が、走馬灯のように脳裏を駆けめぐりました。とても、おめでとう、などという言葉は口にできませんが、愛する妻子のもとに帰れたということは、亡きご尊父の霊にとって、せめてものなぐさめであり、喜びであろうと、陰ながら推察するものであります。そして、三十歳から三十五歳という有為の青壮年の命をあたら奪っていった凶暴なイデオロギーに、あらためて怒りを新たにせざるをえません。ご尊父の御霊に、深く哀悼の祈りを捧げさせていただきます。
3  私は、今回初めてボストンの地を訪れ――ハーバード大学での講演のため――、ボストン大学の教授であるエリー・ヴィーゼル氏と、短時間ではありますが、きわめて有意義な語らいのひとときをもつことができました。周知のようにヴィーゼル氏は、アメリカ国籍をもつユダヤ人の作家で、平和・人権のための活動が認められて、五年前にノーベル平和賞を受賞されております。氏は、じつに凄惨かつ数奇な運命をたどられており、トランシルヴァニア地方の小都市シゲトに住んでいた少年のころ、父母、妹との一家四人で、ナチの手によってアウシュヴィッツ収容所に送られ、母と妹はその日のうちに焼き殺され、父もまもなく餓死してしまう。自分だけはかろうじて九死に一生をえて連合軍によって救出されるという、十五歳の少年には耐えられないような悲劇を経験しておられます。
 会談では、当然、そうした体験も語られましたが、もう一つ大きな話題になったのが、ゴルバチョフ大統領のことです。ご存じでしょうか。ヴィーゼル氏は、クーデター後、クリミア半島での軟禁から解放され、モスクワに帰った直後のゴルバチョフ大統領と会っているのです。クーデター中はパリにおられたのですが、クーデター挫折後すぐ、ミッテラン大統領からノーベル平和賞の受賞者として、同じ受賞者のゴルバチョフ大統領を激励してほしいと依頼されてモスクワヘ飛んでおり、会見が八月二十二日ですから、クーデター後、ゴルバチョフ大統領が最初に会った対外要人ではなかったでしょうか。ヴィーゼル氏は、その時の模様を、日本の雑誌にこう記されております。
 「私の前に、ひとりの孤独な男の姿がありました。あれほど孤独な人間に、めったに会ったことはありません。私は作家ですから、彼の内でいったい何が起こったのか、推測してみました。なぜ、これほど孤独なのか……。
 まず明らかなのは、彼が、友人たち、そして友情への信頼を失ったということです。これは、計り知れない喪失です。最悪の場合、愛がなくても人間は何とかやってゆけるかもしれませんが、友情なしで生きることはできません。それを彼は失ったのです」「ゴルバチョフの姿に、私は心を打たれました。彼は、大勢の警護の人々に囲まれていました。あれほど大掛かりな警護態勢は、アメリカでも見たことがありません。しかし、そのまん中で、恐ろしいほどの孤独でした」(『朝日ジャーナル』一九九一年九月十三日号)

1
1