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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 世界不戦を目指して  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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1  核時代と人類
 池田 一九四五年(昭和二十年)八月、広島と長崎に原爆が投下されて″核時代″が始まりました。核兵器の誕生は、これまでの戦争に対する見方を一変させたといってよいと思います。
 核戦争が文明を根こそぎ破壊し、人類を滅亡の危機に追い込むことがはっきりした以上、もはや戦争をクラウゼヴィッツ流に政治や外交の延長線上に位置づけることはできなくなりました。
 博士は広島、長崎への原爆投下と、その悲惨な状況を知ったとき、どんな思いをもたれましたか。
 ポーリング 広島、長崎上空で、核兵器が炸裂し、おびただしい人命が失われ、恐るべき苦しみがひきおこされたのを知ったとき、私は、核兵器が存在するゆえに、国家間の紛争解決の手段としての戦争は放棄されなければならないという見解を、かなり短期間のうちにもつにいたりました。それ以前は、戦争の廃絶という目標が実現できるという希望はいだいていませんでした。
 池田 戦後、長く核軍拡競争がつづきましたが、米ソ両首脳とも、核戦争に勝利はありえないとの認識から″核不戦の誓い″をするにいたりました。
 一九八九年十二月のマルタ沖における米ソ首脳会談で冷戦に終止符が打たれ、新たな世界秩序が模索されております。二十一世紀を視野にいれた場合、新たな世界秩序は「不戦共同体制」でなければなりません。
 ポーリング 一九四五年までは、私は、世界から戦争をなくすことはできないのではないかと、考えていました。
 私の考えは、第二次世界大戦のあとに、ソ連とアメリカ、共産主義者と資本主義者のあいだで、第三次世界大戦が起こるだろうということでした。
 四五年に、アインシュタイン博士と同様、私は、核兵器が存在するために、ついに大国間の紛争解決の手段としての戦争は放棄せざるをえない、核兵器がある以上、共存と協調の思想を受け入れざるをえないと考えたのです。
 これは、私にはまったく論理的に思われました。
 池田 最近やっと、対立から対話と協調の時代への流れが見え始めました。″人々が重大な難問に立ち向かう決意を固めると、最大の歴史形成力が始動する″とはトインビー博士の指摘ですが、まさに今、歴史をつくりだす民衆の力が問われていると思えてなりません。
 ところで、第二次世界大戦の最中、原爆開発にたくさんの科学者が動員されていきましたが、当時、博士はどのようなことをされていましたか。
 ポーリング 第二次世界大戦の当時、私はカリフォルニア州のパサデナに住んでおり、カリフォルニア工科大学で教授としての仕事をつづけておりました。
 三九年から四五年まで、国防研究委員会で研究をおこないました。同委員会の第八部(爆発物の部門)のメンバーとして、爆発物の分野の種々の研究者との契約を承認する仕事をしていたのです。
 また私は、国防研究委員会の医学研究部会西部委員会のメンバーでもありました。国防研究委員会で十四の部会に関し責任をもつ主任研究者として、おもに軍隊の要請に応じて諸問題に取り組みました。
 終戦のとき、トルーマン大統領から、この期間の私の尽力に対して、功労章を授与されました。
 池田 当時、原爆開発のマンハッタン計画をどの程度、ご存じでしたか。
 ポーリング 私はマンハッタン計画について、ある程度は知っておりました。ロバート・オッベンハイマー博士がパサデナに来て、私にロスアラモスに行き、化学部門の責任者になるよう要請しました。
 そのとき、彼が私に与えた情報は限られたものでした。私は、彼の要請に応じませんでした。それからも折にふれてマンハッタン計画について断片的な情報を得ましたが、十分な情報は与えられませんでした。
 終戦時に、ヒトラーとその仲間による世界を支配しようとする闘争が、みごとに阻止されたことに満足をおぼえました。
 池田 一九四五年というと、私は十七歳でした。戦争は私の家をめちゃめちゃにしました。私自身、戦時中、軍需工場で働いたむりな労働がたたり、体をこわしていました。
 私に残ったのは無残な原体験でした。戦後、私が戦争を徹底して憎み、平和のために一身をささげようと決意したのは、この原体験が大きな根っこになっております。
2  権力に抗して
 ポーリング 戦争が終わって間もなく、私たちは二度とこうした戦争を繰り返してはならない、と声を高くして叫び始めました。私は、一九四五年八月の原爆投下後、一、二カ月もたたないうちに、核兵器の問題について講演を始めたのです。
 その理由は、私が核兵器の何たるかを理解していたからです。私は原爆開発計画に関与していなかったので、整理しなければならない問題は何もありませんでした。私は自由に発言できると考えましたし、私が科学の問題を素人にわかりやすく説明するのに適した能力をもっていることも、みんなに知られていました。
 ですから、原爆投下の直後から、ロータリー・クラブなどのグループに、核兵器に関する話をしてほしいと、たびたび頼まれたのです。最初は物理学、つまり核分裂の性質についてしか話しませんでした。しかしその後、数ヵ月のうちに、核兵器の破壊力が巨大すぎるので、核戦争を起こしてはならない、核戦争の考えを放棄しなければならない、という論点もいれるようにしました。
 池田 当時にすれば、すぐれて先駆的な論点であり、ポイントをおさえた重要な講演をなさっていたと思います。
 ポーリング それから、アインシュタイン博士が議長をつとめている委員会のメンバーになるように要請されました。妻も私も、世界平和を最終目標とする多くの団体を支援していました。
 やがて他にも、多くの科学者が同じ活動をするようになりました。しかし″マッカーシー旋風″がやってきて、ソ連との協力の必要性を訴えてきた科学者は、ソ連のシンパであると批判されました。科学者の多くはおおやけの場に出ることをやめましたが、私はおそらく頑固だったからでしょうが、マッカーシーやアメリカの反共主義者にやりこめられて沈黙することを拒絶しました。
 池田 一九五〇年、トルーマン政権内に共産主義者がいると攻撃し、思想・言論・政治活動を抑圧した″マッカーシー旋風″は暴風のように吹き荒れました。そうした″時代の空気″に押し流されて沈黙した人も数多いなかで、博士の不屈の信念はまことに尊いものです。私自身、立場は違いますが、理不尽な弾圧、圧迫を体験してきた者として、博士の心情がよく理解できます。
 そばにいて奥さまも、ずいぶん心配されたのではないでしょうか。
 ポーリング 妻は、私のことをとてもよくわかっておりましたので、私の行動については何であれ、その背景にどんな理由があるか、つねに知っておりました。私は核兵器反対の立場をとりましたが、その決断を促す決め手となったのは、妻から変わらぬ尊敬を受けたいという私の願いでした。
 むろん、私自身にも自尊心がありました。マッカーシー上院議員におどかされ、沈黙させられることはいやでした。
 当局から旅券を没収された事件以外に、数回にわたって取り調べを受けました。カリフォルニア工科大学も私に圧力をくわえようとしました。
 この大学の理事会は、理事の大半が実業家ですから、当然保守的になりがちです。理事たちは総長に、なぜ私を解雇させられないのかと迫りました。彼らは、私が世界平和と、ソ連との協調を説くスポークスマンであること、私が『ノー・モア・ウォー』に書いたこと、私の世界平和に関する論文――これはおそらく百を超えているでしょう――など、すべて気にいらなかったのです。
 ついに総長は、その圧力に屈し、私を化学・化学工学科の長から解任することはできると言いました。私はすでに二十二年もその職をつとめており、この学科を世界的に有名にしました。ここは、現在でも最もすぐれた化学研究組織の一つであることが認められています。
 そこで、私は「けっこうです。この管理職を十分長期にわたって務めましたので、辞職しましょう」と申しました。しかし総長も、私の教授の任を解くことはできませんでした。教授職というのは在職期間が決まっていて、正当な理由なくして解雇することはできないのです。しかも世界平和のために働いているというだけでは、正当な理由になりえません。
 それでも、私に圧力をかける方法はありました。他の教授が昇給しても、私は昇給しませんでした。実際、学科の長をやめたときには減俸になりました。また、他の人が必要としているからということで、研究室のスペースを明けわたすように言われました。
 その後、一九六三年にノーベル平和賞を受賞した折に、総長は、一人の人間が二つのノーベル賞を受賞することは驚くべきことであるが、あなたのおこなっている仕事の価値については大きく意見が分かれるところだ、と言いました。そこで、私は退職しようと決心し、カリフォルニアエ科大学を去りました。
 私は合計四十二年間、この大学におりました。まだ大学が小さく、さほど評価されなかった時代から、世界でも有数の理工科系大学になったときまでです。私はカリフォルニアエ科大学に恩義を感じていましたが、同時に去るべき時が来たとの思いもありました。
 池田 博士の先駆的な戦いに、励まされる人も多いでしょう。狂気のような″マッカーシー旋風″の犠牲になった人に、カナダの外交官であり歴史学者でもあったハーバート・ノーマンがいますね。
 彼は欧米における日本研究の第一人者であり、日本研究の著書も何冊かあります。戦後の民主日本の再建への貢献も大きかったのですが、″マッカーシ―旋風″のあおりを受け、心に大きな傷を負い、ついに、駐エジプト大使として赴任中、カイロで自殺してしまいました。彼が優れた教養人であり、生活面でも陽気で活発な社交家で、およそ″死の影″などとは無縁のタイプと伝えられているだけに、当時の狂気の風圧は、部外者の想像を超えていたのでしょう。
 博士の正義の論陣、右顧左眄しない不屈の信念、いずれも私たち仏法者の生き方とあい通ずるものがあります。たとえ他人がどう見ようとも、どう批判しようとも、ひとたび決めた道をまっすぐに進もうとするいさぎよさがさわやかです。
3  反核の運動
 ポーリング これまで私ども夫婦は、世界平和をめざして活動している種々の団体に対して、どんどん前進しなさいと励ますことにつとめてきました。
 実行したさまざまなことが、かなりの成功をおさめてきたのは事実です。私はバリー・コモナー、エドワード・コンドンと共同で、核実験停止の請願を書き、回覧して署名を集めました。そして一九五八年一月十五日、ハマーショルド国連事務総長に世界各国の科学者が署名した請願を手渡しました。この請願書は「核実験の即時停止を要請する国連への請願書」と題したものです。
 核実験反対の請願書に署名した科学者の数は、最終的に一万三千人に達しました。これは、一つの声明文に署名した科学者の数としてはおそらく最大のものでしょう。
 池田 そうした、良心の発露としての声を集める労作業に強い共感をおぼえます。創価学会の青年たちが中心になって集めた一千万人の戦争絶滅・核廃絶を訴える署名を、一九七五年(昭和五十年)一月に私自身の手でワルトハイム国連事務総長に手渡しました。草の根の民衆の声を全世界に届けたいという私どもの願いからです。
 さらに世界の反核の世論を結集したいとの思いは、やがて国連と協力しつつ「核兵器――現代世界の脅威」展の開催へと結実しました。この展示は創価学会インタナショナル(SGI)の手で世界十六ヵ国二十五都市で開催され、多大の反響を呼びました。現在は、さらに「戦争と平和」展を、ニューヨーク、ボストン、ジュネーブなどでおこなっております。
 ポーリング それは、すばらしいことですね。六一年に、私ども夫婦は核兵器拡散反対の請願書をおおやけにしましたが、これには科学者もそうでない人も署名しました。そのうち科学者が何人いたかということはわかりませんが、全部で約二十万人が署名してくれました。
 池田 科学者の良心の訴えとしては、五七年四月に、ノーベル賞受賞者のハイゼンベルクやオットー・ハーンらドイツの科学者が、「ゲッティングン宣言」を発表したことが想起されます。これに署名した十八人の科学者たちは、「純粋科学とその応用を業とし、そしてわれわれの領域において多くの若い人々を指導するというわれわれの職務は、この職務から起こりうる帰結に対する責任をもわれわれに負わせている。そのゆえにわれわれはすべての政治的問題に対して黙っているわけにはゆかない」(『オットー・ハーン自伝』山崎和夫訳、みすず書房)と訴えております。宣言の署名者は、いかなるかたちにおいても核兵器の製造・実験・使用に絶対に参加しないと表明しております。
 科学者の発言は、核兵器の脅威を細部にわたって知悉しているだけに重みがあり、政治家にとっても
 耳が痛いものであったにちがいありません。
 ポーリング ですから、政治家の反応もたいへん厳しいものがありました。私の平和活動に対する当局のすばやい反応は、米国上院国家安全保障小委員会に出頭せよ、という召喚状でした。しかし聴聞会は数年間、延期されました。米国上院侮辱罪で禁固と罰金を科すとおどかされましたが、これらのおどかしは実行されませんでした。
 ジョン・F・ケネディ大統領が部分的核実験禁止条約締結を決断したときから、当局の私に対する態度に変化があらわれました。私に対する大統領の話から判断すると、私の活動が大統領の決断にある程度の影響を与えたと思います。
 池田 ケネディ大統領といえば、私にも一つの思い出があります。当時、ケネディ大統領から招待状をいただいてお会いする予定でした。折悪しく私のほうの都合でお会いすることができず、今もって残念な思いが残っております。その後、弟さんのエドワード・ケネディ上院議員には親しくお会いし、懇談する機会をもちました。
 ケネディ大統領とはどのような交流があったのですか。
 ポーリング 私は大気圏核実験再開について、ケネディ大統領に手紙を書き、そのなかで次のように述べました。「あなたが核実験を再開したのは邪悪なことです。なぜなら、核実験は奇形児――つまり遺伝子の損傷による欠陥をもった子ども――が生まれる原因となるからです。また人々がガンにおかされる原因となるからです」
 大統領からは返信がありませんでした。私が彼と唯一の会話をかわしたのは、ホワイトハウスに行ったときのことです。レセプションがあり、私はその晩餐に招かれていました。
 大統領夫人が、私を大統領に紹介してくださいました。大統領は私に会えてうれしいと話した後、「ポーリング博士、これから先もあなたの信念を堂々と発表してください」と言いました。それが、大統領と私がかわした唯一の会話でした。私はうれしく思いました。当時、政府は当然のことながら私を攻撃しておりました。しかし、ケネディ大統領が、アメリカは部分的核実験禁止条約を締結すべきであるとの見解を表明したとき、私の立場が正当化されたのです。それはレセプション直後ではなく、二年ほどたってからのことでした。ホワイトハウスで晩餐会があったのは、一九六一年のことでした。

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