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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 「生命の世紀」への選択  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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1  人口問題と不戦への道
 池田 最近の発表によれば、今世紀末には地球の人口が六十億になるといわれています。人口問題ほどさまざまに論議され、そして結論の出しにくい問題はありませんが、博士は、地球の人口はどれくらいが理想と思われますか。また、どのようなことを基準にして人口問題を考えられますか。
 ポーリング 拙著のなかで、世界の人口増加の問題について詳述した本が一冊あります。
 私の考えでは、すべての人間が人並みの衣食住を得て人並みの生活をし、さらに世の中に貢献する機会をもつことを可能にするような規模の人ロ──これが私たちのめざすべき目標です。またすべての人間が、必要と能力に応じた教育を受けることができなければなりません。さらに、人々が旅行をして、世界のめずらしい事物を楽しむための余暇と機会をもつことができなければなりません。
 前述の本を書いた当時、インドの人口は五億に達していました。私は、その人口の目標を一億において努力するよう勧告しました。インド国内の資源をもって国民全部に人並みの生活を保障するためには、それだけ人口を減らすことが必要だと思ったからです。また私は、アメリカがその人口を一億五千万まで減らすこと、その他の諸国も同様に理想的な人口をめざして努力することを勧告しました。
 池田 ある国の人口問題を考えるにあたって、すべての人間が、人間としての理性ある平均的な生活水準をたもつようにという考え方に、私も同感です。
 そのためには、食糧、住宅、教育、福祉、健康、安全等の項目が、地球的規模と同時に、国家や民族の単位でも慎重に検討されるべきでしょう。
 また今後、国際化がますます進み、食糧をはじめとする必需物資の交流、人的交流がいちだんと盛んになっていくことを考えれば、人口問題の解決には、地域的自立とともに地球的連帯の必要性が高まっていくと思われます。地球上の各民族、各国家がたがいにいちだんと緊密にかかわりあい、あらゆる面で相互に助けあいながら、この地球全体の人々が、博士の言われたような生活水準、人生を享受できる水準に達することをめざすことが大事だと思われます。
 さらに、人間生活の基盤としての大自然との共存の姿勢も大切になっていますね。とくに高度文明社会のなかで生活する人たちほど自然を忘れ、自然のなかで憩う心のゆとりをなくしてきております。自然を拒否した人間の心は、すさび、荒れはて、潤いをなくしていくものです。一方では、自然の脅威と闘い、これを改良するとともに、他方では自然と共存していくことが必要だと思います。
 このことを地球的規模で考えれば、問題はきわめて深刻です。地球的規模での生態系の破壊が進んでおり、貴重な森林が失われ、砂漠化が進み、また大気中には炭酸ガスが大量に放出され、気候にさえ影響をおよぼしています。ここにはエネルギー、資源の問題もからんできますが、地球的規模で、どのように生態系と共存していくのか、また、どれくらいの人口が地球生態系と共存できる限界なのか、つまり、生態系のもつ復元力のなかで生きられる基本的な人口はどれくらいかを、生態学的側面からもつねに検討することが必要でしょう。
 ポーリング 私の見解では、二十一世紀に解決しなければならない深刻な問題が二つあります。一つは、私が今、指摘したように世界の人口を制限するという問題で、もう一つは、世界から戦争をなくすという問題です。核兵器の存在が、核を保有する大国同士を交戦できなくさせています。しかし、主として小国の内部あるいは小国同士のあいだでは、いまだに多くの戦争がつづいております。現在、さまざまな問題があり、それが原因となって戦争が起こり、人々が塗炭の苦しみをなめているのです。今こそ大国はその力を用いて、そうした問題が解決されるよう助力すべきだと思います。
 池田 精力的な平和行動家であるポーリング博士らしい、グローバルな観点からの指摘であると思います。
 十数年前になりますが、英国の「オブザーバー」紙に「第七の敵」という興味深い論文がのっていたのを記憶しております。そこでは、人類は今、六つの大きな脅威に直面しているといいます。第一に人口爆発、第二に食糧不足、第三に資源枯渇、第四に環境破壊、第五に核の誤用、第六に野放しにされた技術――の六つです。いずれもグローバルな問題であり、国家の枠を超えた人類的視野からの取り組みが要請されているにもかかわらず、なかなか解決もおぼつきません。
 その原因として「第七の敵」が立ちふさがっている、とするのです。それには二つの側面があって、一つは人類の道徳的迷妄であり、もう一つは国内的政治機構の通弊があげられておりました。
 私は、仏法者として、なかでも人類の道徳的迷妄を注視せざるをえないのです。東洋の諺に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」とありますが、じつは、この「心中の賊」という見えざる存在こそ、目に見えないがゆえに、最も手強い敵といえるかもしれません。戦争や環境破壊や人口爆発などの″外″なる脅威と同時に、こうした″内″なる脅威に対しても、果敢な戦いをつづけていきたいと思っております。
2  二十一世紀のイメージ
 池田 いよいよ二十一世紀まであと十一年。私はつねづね二十一世紀は「生命の世紀」と位置づけてまいりました。博士は科学者として、二十一世紀についてどんなイメージをいだいておられますか。
 ポーリング 二十一世紀を「生命の世紀」に、との池田会長のご発言について申し上げれば、その意味されるものは、人間生命そのものに今まで以上に焦点が合わされ、人間の幸福と健康が大事にされる時代だと思います。
 私の思う二十一世紀とは、分子生物学の興隆する時代で、現在における以上に、生命の実体に関する詳細な理解が得られる時代です。二十一世紀を「生命の世紀」に、ということはすばらしい考えです。
 池田 博士が言われるように、私は「生命の世紀」という言葉に、人間生命の尊厳性がますます重視され、幸福な人生と生活を享受できる世紀の到来を託してまいりました。そのためには「生命とは何か」という根本命題がいちだんと探求され、そこに開示されゆく生命の実相に即しての新しい世界観の創出が不可欠であると思うのです。
 生命の実相を解明するには、多様な側面があり、また種々の方法が用いられるべきでしょうが、生命体の物質的側面からの解明にとって、分子生物学の貢献ほど驚異的なものはありません。二十一世紀にかけて、分子生物学によって生命体はさらに詳細に解明され、その成果が、遺伝子工学や医学等の分野に大きな影響を与えることは、想像に難くありません。
 同時に、私は仏法者として、人間生命の精神的側面からの解明に大いなる期待を寄せたいと考えております。
 近年、西洋においても、フロイト、アドラー等から発した深層心理学が発達し、今日では、心の奥深い内面の様相が浮かびあがってきております。
 仏教では、四~五世紀ごろに出現した世親らによって唯識派という大乗仏教の一派が成立し、この唯識哲学において、人間精神の内奥が体系化されてきました。心の内面に無意識という広大な領域を発見したのは、西洋ではフロイトですが、世親らは、心の内面に広がる、いわば「心理的宇宙」の内実を理論化しております。トインビー博士も、この広大な無意識世界を「心理的宇宙」と表現しました。
 世親らは、人間精神の基底に広がる無意識領域を意識の表面から探究していくことによって、意識的自我の基底には、無意識的自我(仏教的には末那識)が働いていることを発見しました。
 さらに、これらをつくりだす源泉として阿頼耶識という根源的な生命の流れを見いだしております。ここには、心身のあらゆる働きを生みだす潜在的エネルギーが″種子″としてはらまれているというのです。
 そして、唯識仏教では、阿頼耶識という生命根源流から、末那識や意識の働きがいかにして顕在化するかといった問題を″阿頼耶識縁起″という法理として解明いたしました。
 このような一端をみても私は、仏教の悠遠なる歴史のなかで明示されつづけてきた心の内面の世界を、現代人が再発見し、この知見に謙虚に学びながら、現代の知性の光をあてることによって、生命の実相の解明に偉大な貢献をなしうると考えています。
 一方では、分子生物学などによる物質的側面からの探究、他方には、人間精神に光をあてた深い内面の探究が、ともどもに協調しあい、相互の知見に学びあうとき、「生命の世紀」を開きゆくための″生命学″が輝ける雄姿を見せるのではないでしょうか。
3  分子矯正医学のこと
 池田 博士が分子矯正医学に取り組まれる動機になったのは、どんなことであったのか。また、この医学の特長をどのようにお考えかはたいへん興味深いところです。
 ポーリング 私は今でもそうですが、身の周りの世界そのものを、よりよく理解したいと思ってきました。ある時、あることについて、わからないことがあり、なおかつ、そのことをわかりたいと思ったのが分子矯正医学の道に入るきっかけとなりました。
 それは、カナダのアブラム・ホッファー博士とハンフリー・オズモンド博士のビタミンに関する研究報告で、精神分裂症の患者にビタミンを投与しているという研究報告でした。これにはびっくりしました。普通、痛みを抑制するアスピリンのような薬品は、量が多ければそれだけ効果も高いのですが、かといって、大量に飲むとなると問題です。一日に十五錠や二十錠ぐらいなら安全ですが、その三、四倍も飲めば、死ぬ危険があります。医師が患者に処方する薬品は、その毒性を考えて、安全な範囲内での最大量を与えるものです。
 ビタミンCはとても強力な物質です。ほんのひとつまみの量で壊血病にかからなくなり、壊血病による死から人間を守ってくれるのです。壊血病で死にたくなければ、毎日これを少しずつとらなければいけません。ただし、ひとつまみという分量が最大許容量というわけではありません。
 ホッファーとオズモンドの論文を読んで知りましたが、ビタミンCは、ひとつまみの一千倍、五千倍、さらには一万倍という量をとっても、人間を危険にさらすことはありません。これは驚きでした。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう、と思いました。
 普通の薬なら致死量になる分量をとって、もしそれが病気を治すことになれば、幸運としか言いようがありません。しかしビタミンの場合、そのいくつかの種類にはまったく毒性がないことが知られています。ビタミンCが致死量になるには、どのくらいの量が必要なのか知っている人はだれもいません。
 私は毎日、百二十五グラムのビタミンCを十三年間とりつづけた人を知っています。彼はそうやってガンをおさえこんでいたのです。そんなことがあって、私はビタミンCやその他のビタミンをどの程度とることが人間を病気から守るか、というより最高の健康状態にいたらせることになるのかということについて、非常に興味をもちました。
 そこで、医学や栄養学の文献を読みあさりましたが、どこにも答えを見つけることはできませんでした。そのようにして私はこの新しい問題に情熱をかたむけ、二十年間以上もやってきたわけです。ですが、この問題にはまだ答えが出ていないのです。人間を最高の健康状態にたもつためには、どれだけの量のビタミンが必要なのか。私はこの研究の過程で、正常な人体にあるビタミンその他の、きわめて毒性の低い物質を説明する「分子矯正」という言葉さえつくりだしました。
 最高の健康状態をもたらすのに、どれだけこのような物質が必要なのかを研究することが、私にとっての世界に対する戦いなのです。人類全体のためになることができるということはとてもうれしいことです。世界平和のために運動するということとちょうど同じように、地球上のすべての人の健康改善に私の研究が貢献できるかもしれないのです。
 池田「医師の祖」といわれる古代ギリシャのヒポクラテスは有名な「誓い」を書き残しています。そのなかに「患者の福祉のため」(『古い医術についこ小川政恭訳、岩波文庫)との一節があります。患者への思いやりと慈しみが、彼の医師としての誓いの原点となっております。ポーリング博士が分子矯正医学を志された動機は、すぐれて「慈しみ」の精神にのっとっておられるものと感銘を深くしました。
 それはまた、大乗仏教の実践精神である菩薩道の精髄たる慈悲にも通じております。慈悲とは「抜苦与楽」――人々から苦しみを取り除き、楽しみを与えることを意味します。このような人間本来の思いやりや慈しみの心は、今後ますます要請されるようになると思います。
 ポーリング 私は現代においても、いまだ戦争がいかに人々を苦しめているか知っています。人間の苦しみのうえに世界中で戦争がおこなわれています。アメリカ政府がこうした戦争を助長しているのは残念なことです。ニカラグア政府と戦わせるためにコントラを支援してきましたし、アフガニスタンでは政府軍や駐留するソビエト軍に対する戦争を継続させるために、反政府ゲリラに膨大なお金を与えました。
 アメリカのみならずその他の大国も、戦争に加担しています。アメリカやソ連だけでなく、これらの大国は発展途上国に武器を売ったり、さらには供与したりしています。このような世界ですから、私は自分の研究をとおして、人間の苦痛を減らすための何か、世界平和のための何かをずっとやっていきたいと思うのです。しかし、私にとってそうした活動はやはり科学の分野においてであり、また、問題に対して答えを見つけようとする旺盛な好奇心と表裏一体となっているともいえるかもしれません。
 池田 それは「真理」と「価値」の融合ともいえますね。先に科学者の社会的責任の問題にふれましたが、じつは「真理」と「価値」とのいわゆるアンチノミー(二律背反)の問題は、とくに今世紀に入って、核兵器に象徴されるような巨大技術の弊害があらわになってくるにつれて、良心的な科学者を、つねに悩ましつづけています。
 前述のハイゼンベルクの回想録に、一九四五年八月六日の午後、抑留中のドイツの科学者たちが、広島への原爆投下を知ったときのショックが、なまなましく記されています。
 「最もひどいショックを受けたのは、当然のことながらオットー・ハーンであつた。ウランの核分裂は彼の最も重大な発見であったし、それは原子技術への決定的で、かつ誰にも予想さえつかなかった第一歩であった。そしてこの一歩が、今や一つの大都市とその市民に、しかもその大部分の者は戦争について責任はないはずの武器を持たない人々に、恐るべき結末をひき起こしたのであった。ハーンのショックはひどく、取り乱して彼の部屋にもどって行った。われわれは彼が自殺するのではないかと真剣に心配した」(前掲『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房)
 まさに、カタストロフィー(破局)ともいうべき「真理」と「価値」との背反です。
 それとは逆に、ポーリング博士の選択は、「真理」の追究がそのまま「価値」の増進につながっていくわけですから、正しく、また幸せな道であったと思われます。

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