Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三章 人間にとって科学とは  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
1  人類に貢献する科学
 池田 引きつづき、博士の講義を受講しているつもりで対談を進めさせていただきます(笑い)。はじめに、化学を専門に選ばれた動機についてお話しいただけますか。
 ポーリング 十一歳の時、本を読んで昆虫学に興味をもちました。一年間、昆虫を採集し、小さいコレクションをつくりました。その後、十二歳の時に私の興味は鉱物学に移ったのです。瑪瑙はウィラメット渓谷に豊富にありましたが、ほかには鉱物を採集する機会はありませんでした。それでも本を読み、鉱物の特性をまとめた表を書き写したりしました。
 それから十三歳になった時に化学に興味をいだきましたが、その興味が大きかったので、生涯、それを追究することになったのです。
 池田 十代から出発して今日にいたるまで、化学の分野で博士はめざましい成果を次々とあげられてきました。なかでも、化学に量子力学を導入し、化学の理論をまったく新しいものに書き換え、独自の化学結合論を築き上げられました。
 そこで、化学というものの精髄は何か、化学とはいったい何か。また、化学の人類への貢献ということについてですが‥‥。
 ポーリング 化学と物理学を区別することは容易ではありません。というのは、この百年間に電子・原子核・原子・分子等に関する知識が発達したことによって、化学と物理学が結合するようになったからです。化学と物理学の目標は、世界というものをできるかぎり徹底的に理解することです。
 私がとくに関心をもってきたのは、物質の組成・構造とその性質との関係です。約一千万の異なった物質が、化学者やその他の科学者によって発見されたりつくられたりしました。そうした物質の性質は、ほとんど解明されています。今日では、そうした物質の多くのものの構造や性質に関する理解がかなり進んでおります。ですから化学者や物理学者は、ある種の望ましい性質を得るためにはどのような物質をつくればよいかということを、ときとして予言できるのです。
 現代世界は、過去百年ないし三百年間に物理学者や化学者が発見したものによって形づくられています。政治家やその他の権力者がじゃまをしなければ(笑い)、物理学や化学は引きつづき全人類の福利に貢献できるでしょう。
 池田 実際、そうあってほしいですね。そこで量子力学ですが、この分野は一面、哲学に近い科学ともいわれます。量子力学の進歩は今後、何をもたらすとお考えですか。
2  ポーリング 私の考えでは、量子力学は本質的に実用的な研究科目です。ニュートンの運動の法則によって、天体の軌道ばかりでなく、宇宙船の航路をも計算できるようになりました。それと同様に、量子力学のおかげで電子や原子に関して信頼しうる計算ができるようになったのです。量子力学はまだ相対性理論やその他の物理学理論に組み入れられていませんが、やがて統合化されていくものと私は考えています。
 池田 遠大な予見です。私も、注目していきたいと思います。ドイツの量子力学界の泰斗たいとといわれたウェルナー・ハイゼンベルクの回想録『部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話』(山崎和夫訳、みすず書房)を読んだときの鮮烈な印象を、私は忘れられません。この回想録は「量子力学とカント哲学」「素粒子とプラトン哲学」などの章節をふくんでいる点に明らかなように、たいへん哲学的な内容があることは、ノーベル賞学者の湯川秀樹博士が、この日本語版訳書に寄せた「序文」で指摘されているとおりです。
 一例をあげますと、ハイゼンベルクは「部分と全体」という表題と関連するくだりで、次のように述べております。少し長くなりますが‥‥。
 「客観化し得る領域は、われわれの真実の単なる小さな一部分に過ぎない。しかし主観的な領域が問題にされる場合でも、中心的秩序は作用しており、それは、この領域の姿を偶然のいたずらとか、あるいは勝手なものとみなすわれわれの権利を拒否するものだ。もちろん主観的な領域では、個人として、また民族として、多くの混乱が存在するかもしれない。そこでは、いわば悪魔が支配していて、それが乱暴狼藉を働くかもしれない。あるいはもっと自然科学的に表現すれば、中心的な秩序と適合しないような、それから分離した部分的な秩序が作用しているかもしれない。しかし結局は常に中心的な秩序、すなわち宗教の言葉にかかわりのある古くからある言葉″一者″が、そこを貫いている。だから価値を問題にするときには、分離した部分的秩序によって生ずるような混乱をさけるために、われわれはこの中心的秩序の意を体して行動することを要求されるように思われる」(同前)
 主観と客観、人間と自然と宇宙とが、一つの秩序感覚のなかで融けあってハーモニーをかもしだす、味わいある文章といえましょう。ハイゼンベルクは「この全体の関連は、量子力学を理解して以来ずっと考えやすくなった」(同前)と述懐しています。
 このわれわれの世界の事象を把握する科学の発達はめざましいものがあります。たとえば素粒子論の世界においても、かつては原子中に存在する陽子、中性子、電子を素粒子と呼び、物質世界の最終要素であると考えられたことがありました。しかし、その後、これら以外の素粒子が次々と発見され、それらを探究するところからクォーク理論が提出されました。
 そして、クォークとレプトンからなる「物質の究極像」が形成されてきましたが、今日では、サブクォークの段階のこともよく聞かれます。このように考えると、物質の究極を求める科学の進歩には限りがないのか、つまり、どこかで、これが「究極」であるといえる次元にいたることができるのか、それともこのような「階層」概念そのものが、他の新しい概念に変わっていくのか、といった問題につきあたります。
 ポーリング 過去一世紀、一世紀半のあいだに、科学者は物質界および生物界を支配するさまざまな自然法則について、驚くほど多くのことを発見してきました。今でも毎年、私たちの身のまわりの世界について何か新しい発見がなされます。こうした際限のない発見が、いつまでつづくのかと論議する科学者もいます。
 もし人類が千年、また一万年と生き延びたとして、文明人は科学を発達させつづけることができるでしょうか。そのとき、自然界のすべての法則は完全に解明されているのでしょうか。私にはその答えはわかりません。素粒子の発見には終着点がないと言っている物理学者たちもいます。電子と原子核の時代から、電子と陽子、さらに中性子の時代へと進み、今やメソン(中間子など)およびさまざまな素粒子が知られている時代になりました。こうした科学の発達の終着点については、現状ではなんとも申し上げられません。
3  宇宙と生命の起源
 池田 天文学者として著名なコーネル大学教授のカール・セーガン博士とお会いしたさい(一九八三年五月)、「地球外知性探査」が話題になりました。この大宇宙に″知性″の存在する可能性については、天文学の立場から、地球のような文明をもった惑星、あるいはもっと高度な文明に達した惑星が銀河系だけでも一千万個に達するのではないかと推定する学者もいるようです。世界的ベストセラーとなったセーガン博士の『コスモス』(木村繁訳、朝日新聞社)のなかでも、同じコーネル大学にいた天文学者のフランク・ドレイク博士の考案した方程式を用いて、知的生物ならびに文明の可能性を推測しております。
 また、過日、イギリスの天文学者として知られるチヤンドラ・ウィックラマシンゲ博士とも対談しました。
 そのさい、博士は、広大な宇宙には人間型の知的生物が存在することは十分考えられる、地球が原始生物のみの天体であった時代にも、他の天体にはすでに人類と同様の知的生物が発生していた可能性がある、と語っておられました。
 私は宇宙科学については門外漢ですが、仏教者の一人として宇宙観、生命観については日ごろからたいへん関心をもっております。多くの仏典には、仏教の宇宙観が説かれていて、この大宇宙には、知的能力をもった生命的存在が活動しており、多くの文明の華が咲きほこっている様相が示されております。とくに、仏典のなかでも最高峰に位置づけられる法華経では、冒頭の「序品」において、すでに、仏教の壮大な宇宙観を開示し、他の星雲における惑星上に、知的生物が多彩な文明を創出している様相が照らしだされております。
 仏教の宇宙観が、現代天文学が解明していく宇宙の様相と、その軌を一にしていることはきわめて興味深いことです。
 博士は、他の惑星にも人間と同じような知的生物が存在するとお考えですか。
 ポーリング 既知の宇宙には膨大な数の恒星が存在します。ですから、そのなかでかなり多くのものが太陽に類似しており、その周囲を地球に似た惑星が運行していることはたしかです。私の推測では、そうした惑星の多くに生物が発生しております。それらの生物はその多数が、もしかしたらそのすべてが、地球上の生物と同様に炭素を基本としているように思われます。
 しかし、「人間」と呼べるほど私たち人間に酷似した生物が現出しているということは、考えられないと思います。知的生物の発生はありうることだと思います。ただ、私たち人間が現出し、進化したのと同じ歴史的時間帯で、人間と同じような知的生物が現出し、存在しつづけた惑星は、おそらく少ないだろうと思います。

1
1