Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二章 わが人生の譜  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
1  教育と探究心
 池田 じつは青年たちに紹介し、また大事な点であると、みずから胸に刻んでいるトインビー博士の思い出があります。私が生活信条をお聞きしたさい、博士はラテン語で「ラボレムス」と言われたのです。
 この意味は「さあ、仕事をつづけよう」ということです。ローマ皇帝セウェルスの臨終の言葉だそうです。トインビー博士が、この言葉をモットーに、あの歴史に残る膨大な研究をつづけてこられたことを知り、私は強い感銘を受けました。
 ポーリング 私が青年時代に主に興味をもったのは、世界についてできるかぎり学ぶことでした。学校へ行くのも好きでしたし、読書も好きでした。この若き日の興味が宇宙の性質についての旺盛な好奇心へと発展し、これが現在も私の推進力となっているのです。
 池田 プラトンは、哲学の駆動力を「驚き」に求めましたが、旺盛な好奇心、探究心こそすべての学問の出発点といえましょう。
 トインビー博士もそうでしたが、ポーリング博士も若々しい心で人類のために働いておられます。お二人にあい通じる真理への謙虚さを私は感じます。
 二十一世紀の世界を考えるうえで教育問題が一つの焦点になっております。日本の場合をいえば、知識を与えることに比重がおかれすぎて、人間性を育むことがおろそかにされているとか、受験中心の制度になっている等々の問題があります。
 ポーリング 私はアメリカにおける教育に、もはやそれほど通じておりません。人口が少ない小さな州であるオレゴン州の小学校で、私が七十五年ほど前に受けた教育は、本当にすばらしいものだったと思います。現在の小学校教育は、本来のあるべき教育ほど望ましいものではないかもしれません。
 今日のように技術が進歩しオートメーション化した世界においては、五十年もしくは六十年間も、生涯にわたってなんら満足を得られない仕事に従事する必要性はなくなってくるでしょう。人々が教育を受けたいと願うならば、その機会はすべてに与えられるべきなのです。
 池田 そういう時代です。民衆が主役の社会に大きく変化している。その速さに教育がついていけなくなっています。
 ポーリング 日本では、大学に行きたいと望む若者すべてが入学できるだけの大学の数がありません。アメリカでは、大学教育にたいへんな費用がかかるために、多くの若者は、大学へ行く余裕がありません。大学教育を受ければ大いに役立ち、得をするであろう学生たちでさえ例外ではありません。
 そこで私が思うには、大学教育を受けたいと願うならば、だれでも受けられるようにするべき時が来ていることを、私たちは認識する必要があると思います。
 池田 新しい大学を創立した体験をもつ者として、まったく同感です。今のご意見のなかに、未来に対する責任感と青年たちへの深い愛情を感じます。博士の場合、世界平和の実践にも、人々の健康を守り維持させようとする戦いにも、それが通底している気がしてなりません。人々の苦しみ、痛みをわが苦しみ、痛みと感じて、その苦しみを除こうと努力するのが仏法者の生き方です。その点で、私は、博士のヒューマニスティックな生き方に強い共感をいだいてきました。
 博士ご自身、小学校、中学校、高校をとおして、深く心に残っている教師はおられますか。
 ポーリング 小学校、中学校、高校時代には、私が非常に感銘を受けた教師が大勢おりました。主に数学、物理学、化学の先生方でした。
 なかでも私はウィリアム・グリーン先生をあざやかに覚えています。オレゴン州ポートランドのワシントン・ハイスクールの化学の教諭でした。ある日、授業が終わるころ、先生から私は放課後一時間、学校に残って手伝ってもらいたいことがあると頼まれました。それは、市の教育委員会が購入した石炭と石油の熱量測定を手伝うことでした。
 また、グリーン先生の高校化学の課程を修了したあと一年間、私が一人で化学実験室で研究することを許可してくれました。そのうえ、高校化学のもう一年分の履修単位をくださり私を驚かせました。
 私は先生に、世界で最も偉大な化学者はだれかと質問したことを覚えています。先生は、ヴィルヘルム・オストヴァルトだと思うと答えられました。
 彼は近代物理化学の創始者として認められています。一九二六年に妻と私がドイツに行ったとき、オストヴァルト氏はまだ生きておられたと思いますが、お会いしてみようということは思いつきませんでした。
 オストヴァルト
 (一八五三年〜一九三二年)ドイツの化学者、哲学者。ライプチヒ大学の初の物理化学教授を歴任。ノーベル化学賞受賞。溶液化学、色彩科学の分野で優れた研究を残す。
2  池田 やはり、いい先生がいらしたんですね。
 ポーリング 池田会長はいかがですか。
 池田 そうですね、私がとくに忘れられないのは、小学校五年、六年の時の担任の先生です。授業は名講義でしたし、一人一人の生徒の特質をよくつかんで成長させようという情熱が伝わってきました。
 育ちざかりの少年の、活発で純粋な心を大切にしてくださり、自然のうちに生徒が納得するように教えていかれる姿が、印象深く残っています。その先生とは、今でもお手紙をいただいたりしております。また他にも数人、忘れえぬ先生がいます。
 私は戦後、恩師の戸田先生の会社で「冒険少年」「少年日本」という少年雑誌の編集長をしました。敗戦でたいへんな時でした。
 戦争中の自分の体験からも、少年たちには伸び伸びと大きな夢をもってもらいたい、という願いが強くありました。現代の教育にあたたかいぬくもりが失われがちなことを、私はたいへん残念に思っています。
3  家庭を語る
 池田 ところで、お母さまが亡くなられたのは、二十代の時だったとうかがいましたが‥‥。
 ポーリング 私の妹から母が死去したことを知らせる手紙が届いたとき、妻と私はドイツのミュンヘンにおりました。私たちの部屋には客が何人かいました。手紙を開封し、文面を読むと、いきなり涙があふれ出てきました。母の死の意味をよく知っていたからです。その何年も前に父が亡くなったときには、私はまだ幼すぎて、その意味を理解できませんでしたが‥‥。
 私が悲しかったのは、母が私に失望していたことを知っていたからです。つまり、私は十分な生計を立てることはせず、学校にかよい奨学金をもらっていたのです。私の願いは、私が世の中でなしとげようとしていたものを母に理解し感謝してもらえる日が来ることでした。
 でも、母が亡くなってしまっては、その願いがかなえられるはずがありません。
 それから五年後、三十歳の時に、私はアメリカで最も有望な青年化学者ということで、多くの化学者のなかから選ばれて、ラングミューア賞を受賞しました。
 そのとき、私は母の生きていなかったことが残念でしかたがなかったことを今でも覚えています。
 池田 初めてうかがいました。あと五年、母上がご長寿でその晴れ姿をごらんになったら、どんなにか喜ばれたことでしょう。とともに博士はある意味で、ご両親のぶんも長生きされておられるのではないでしょうか。
 二十世紀を生きぬき、すばらしい人類への貢献をなされた人生には、亡くなられたお母さまもきっと最大の称賛を贈られていると思います。
 ポーリング ありがとうございます。
 池田 それからお子さん方は皆、優秀な方ばかりですね。
 お子さんが小さかったころには、できるだけ時間をさいていっしょにゲーム等、遊びの相手をされたと聞きました。
 家庭教育について、博士のモットーのようなものがあったら、お聞かせください。この面では母としての奥さまの献身的な努力が大きかったと思いますが。
 ポーリング 私ができるかぎり時間をさいて子どもたちとゲームをしようとした日もあったとのお話ですが、私の記憶は定かではありません(笑い)。育児の仕事は大部分、妻にまかせていたと思います。たまに子どもたちと野球か何かをすることはあったと思いますが‥‥。この点でとくに良い父親ではありませんでした。
 池田 その点は私もまったく同じです(大笑い)。他に何か心がけられた点は‥‥。
 ポーリング
 私は一時、長男に初歩の代数を教えてもっと早く進級させようと考えましたが、これは成功しませんでした。息子は小学校の先生から教わるほかに、私から習うことに興味を示しませんでした。私はすぐにあきらめました(笑い)。私は、自分が子どもに学業を教えることは良い考えでないと結論したのです。
 もちろん、一方では妻や子どもたちと、世界の出来事や行儀などについて話しあいました。たぶん子どもたちは良き道徳原理を身につけて成長してくれたと思います。
 池田 これは家庭の健康論ですね。(笑い)
 子どもは親の背を見て育つといいますが、やかましいしつけはしなくとも、親が真剣に自分の仕事に取り組み、懸命に人生を生きている姿は、自然のうちに子どもに影響を与えるものではないでしょうか。
 私の恩師はある時、ロシアの作家ゴーゴリの小説『隊長ブーリバ』を例に引いて「母親は、ガミガミ、年中叱ってよい。父親は黙っていてもこわいのであるから、友だちのようになってやることだ。決して叱ってはいけない。そして、国家・社会に貢献させることを目標において、わが子を愛していきなさい」(『続 若き日の読書』、本全集第23巻所収)と語っていました。
 恩師の現実に即した教育、人生の機微をとらえた会話は天才的でした。恩師は類まれな教育者でした。

1
1