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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 二十世紀とともに  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
1  初めての出会いから
 池田 偉大な科学的業績をあげられ、世界でもたいへん著名な博士に、ロサンゼルスでお会いできて光栄です。これ以上の喜びはありません。サンフランシスコからわざわざお越しくださり、恐縮しております。私どもに対するご理解とご足労に、かさねて感謝申し上げます。
 ポーリング とんでもありません。じつをいうと池田創価学会インタナショナル(SGI)会長とお近づきになれるのは、私にとっても大きな喜びなのです。
 とくに世界平和を達成するために、たいへんな努力をされている方とお会いできたのを喜んでおります。
 その努力が実るように、私にできることはなんでも喜んで協力させていただきます。
 池田 そのように言っていただいて感謝の言葉もありません。ご懇切なお言葉に心から感動しました。
 博士が全人類のために、深い心をもたれていることを実感します。また、世界平和のために、強い確信と深き哲学をもって行動されてきたことを感じました。私の今後の活動に大きな励ましになることはまちがいありません。
 ポーリング どうもありがとうございます。それと、あなたの息子さんにお会いできたのもうれしい。
 池田 息子のことをおっしゃってくださり恐縮です。
 息子たちは二人とも、私と同様に博士のことをたいへん尊敬しておりまして、少しでもごあいさつできれば、と言うものですから。
 ポーリング そうですか。
 池田 博士は″現代化学の父″と呼ばれている方ですし、全人類のために平和を推進してこられた実践家としても、息子たちが博士にお目にかかれるのは、大きな教育にもなると思いまして。息子たちにとって生涯の思い出になったはずです。
 ポーリング それから、この大学(創価大学ロサンゼルス分校)の学長にもお会いできてうれしく思いました。大学が成功されることを心から希望いたします。なにかお手伝いすることがあれば、どうぞおっしゃってください。
 池田 なにからなにまであたたかいお言葉をいただき、なんとお礼を言っていいかわかりません。博士の励ましは、わが子を慈しむ父親のようでもあります。
 私も世界のさまざまな方々とお会いし懇談する機会がありますが、博士のあふれるような人間性にふれて心から感銘しました。それはすべて、人類に対する深い愛情から発するものだと感じたしだいです。
 ポーリング いや、池田会長にそう言っていただいて感謝します。
 じつはそうしたおほめの言葉は、私の妻が受ける資格があるんです。なにしろ長いあいだ、世界平和のために私が働くよう鼓舞してきた当人ですから。
2  池田 そのことはよく存じあげております。亡くなられた奥さまは、偉大な平和活動家でした。同時にすばらしい家庭の主婦であられたとうかがっております。博士と最初にごあいさつを交わしたとき、亡き奥さまに私の心からの敬意を表させていただいたのも、そのためです。
 ポーリング お心づかいに感謝します。
 今後の世界情勢の動向を思うと、私の胸はおどります。勇気がわきます。ソ連が動きだしました。ゴルバチョフ大統領のリードで、現実に世界軍縮への潮流が流れ始めました。これまで、どれだけの人間が、資源が、「死」と「破壊」のために浪費されてきたことか。
 その膨大な″富″を、すべて人類の幸福のために使っていく。人類が、初めて「理性」と「道理」にかなった道を歩む。そうした世界への転回が、いよいよ始まったのです。
 むろん、アメリカの反応が、それほど活発でないのは事実です。しかし、世界の潮流は、もはや逆流はしないでしょう、近い将来、アメリカも徐々に、軍縮へと動かざるをえないと思います。
 そうした未来を思うと、私の胸は喜びで大きく高鳴るのです。
 池田 博士のお話に心からの共鳴をおぼえます。博士の喜びは、私の喜びです。とともに深い感慨を禁じえません。
 この数十年、博士は、険しい平和への道を力強く歩んでこられた。米ソ対立が頂点を極めたころも、勇気ある発言を繰り返された。絶対に行動を止められなかった。さまざまな迫害は、博士のみならず、ご家族にまでおよんだとうかがっております。
 しかし、世界はまさに、博士が著書『ノー・モア・ウォー』やノーベル平和賞の記念講演などで主張されてきたとおりの方向へ進んできました。こうした変化を、人類は強く自覚すべきです。核兵器を削減し、軍縮を推進するうねりは、かつてないほど高まっているといえましょう。
 先駆者の長年の苦闘の果てに、今、人類に曙光がさしはじめた――博士の感慨はいかばかりかと、深い感動をおぼえてなりません。
 ポーリング だれよりも池田会長に、私の心を知っていただき、これ以上の喜びはありません。この見解の一致は重要なことであり、ぜひとも記録として後世に残したいと思います。
 池田 もちろん大賛成です。
 この対談集も、博士の寛大なお心があって初めて実現したものです。あらためて、お礼申し上げます。
3  少年のころの思い出
 池田 ポーリング博士は、私から見ますと、二十世紀という時代をそのまま生きぬいてこられた人生の大先輩です。世界を舞台に広範に活躍されたことはよく知られておりますし、ビタミンCの研究でもたいへんに有名です。その豊かな人生経歴は、これからの時代を生きる青年にとって、きわめて示唆に富んだものであると思います。
 この対談をとおして、博士の人生哲学や、さまざまな体験をうかがいながら、現代の平和、科学、医学等の諸問題について語りあえれば、と考えております。
 最初に、本当は自分のほうから先にお話ししなければならないのですが、少年時代の思い出、またご家族について、かんたんにご紹介をお願いできますか。
 ポーリング 私は一九〇一年二月二十八日にオレゴン州のポートランドで生まれました。その後、数年間は同じオレゴン州のセーレム、ポートランド、オスウイーゴで両親のもとに生活しました。
 これらの土地における生活については、ほとんど記憶に残っておりません。私の少年時代の思い出で最も強く心に刻まれたことは、最初は四歳ぐらいのころ、私たち一家が数年間、オレゴン州のコンドンに住んでいたときの思い出です。
 私の髪は長い金髪の巻き毛でした。その私の髪を父が短く切ることに決めたのを覚えています。
 私が家に帰ると、母が私の姿を見て泣きだしたことも記憶しております。たぶん母は「ああ、もう赤ちゃんはいなくなった。大きい男の子になってしまった」(笑い)という気持ちだったのでしょう。
 池田 お母さまが博士に寄せられていた心情が、とてもよくにじみでていますね。
 ポーリング ほかにも記憶していることは、新しい長靴をもらって、コンドンの大通りにある泥の水たまりのなかを歩きまわったこと(笑い)、私の叔父が経営していた雑貨店の前をぶらぶら歩いていたカウボーイたちと話をしたことなどです。
 池田 そういう思い出は不思議と心に残っているものですね(笑い)。英国の歴史家アーノルド・トインビー博士と対談したとき、博士は二歳の夏の思い出を鮮明に覚えていました。博士は「子どもは、七歳までに自分にとって大事なことを数多く学びます。これは、その後の人生で学ぶことのできるすべてのことよりも多い」(『二十一世紀への対話』、本全集第3巻所収)とも語っていました。たしかにこれは、私も正しいと思います。
 私が生まれたのは一九二八年(昭和三年)一月二日、東京の大田区にある入新井というところです。
 四季折々の花が咲く野原や砂浜があって、そこはかっこうの遊び場でもありました。幼い時、私が住んでいた一帯は、どちらかというと漁村のおもむきがあり、空も海も青く澄んで都会の田舎のようなところでした。といっても、今の東京からは想像できないかもしれませんが。(笑い)
 ポーリング 私の家族を紹介しますと、父ハーマン・ヘンリー・ウイリアム・ポーリングは薬剤師でした。母ルーシー・イサベル・ダーリングはライナス・ウィルソン・ダーリングの娘でした。この人は学校教師、農場主、商店主、保安官、測量技師、それからのちに弁護士をつとめるなど、多彩な人生を送った人です。
 妹が二人いて、一人は私の一年八カ月後、一人は二年十力月後に生まれました。
 父は、私が九歳の時に亡くなりました。父のことは今でも懐かしく思い出します。
 母は、父の死後、経済的な問題をかかえていたにもかかわらず、とてもよく私と妹二人の面倒をみてくれました。母は家の部屋をいくつか人に貸して収入を得ていましたが、生涯、その家を離れることはありませんでした。
 池田 お父さまのことはお聞きしております。地域の人々から頼りにされた立派な方だったそうですね。お母さまの偉さもしのばれます。
 ポーリング 池田会長のご両親は‥‥。
 池田 父は、私が二十八歳のとき亡くなりました。父は海苔の製造業に従事していましたが、病気でうまくいかず、戦争で家も焼かれるなど多事多難でした。
 母もずいぶん苦労したようですが、そういうとき、つとめて朗らかに「うちは貧乏の横綱だ」と笑って話していました。母の明るさに一家がどれほど救われたかわかりません。世に言う平凡な母でしたが、八人の子どもと、よそから二人の子も引き取って育てあげ、八十歳まで長生きしました。
 博士は、ご両親からはどんなしつけを受けられましたか。しつけは厳しかったのでしょうか。(笑い)
 ポーリング 家庭でのしつけはあまり受けなかったと思います。父母は妹たちと私に行儀よくするように教育しました。私はあまり問題を起こす性質ではありませんでした。家庭のしつけは厳しくなく、ゆるやかであったということでしょうね。
 池田 やはりそうですか。このことはぜひ、日本の若い世代のお母さんたちにも、何かの機会に紹介させていただきたいと思います。とくに父親は、包容力をもって理解してあげることが大切ですね。

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