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日蓮大聖人・池田大作

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6 童話と性格形成  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 幼児教育において大きな役割を演ずるものに、童話があります。母親が幼児の枕もとで童話を読んで聞かせることは、多くの文明社会の家庭に見られる光景です。
 その場合、いうまでもなく、人々は子どもに対して、他人への思いやりをもち、他の生き物を可愛がる、心の豊かな人間に育ってほしいと願います。近代の創作童話は、そうした大人の願いが反映されていることを、如実に感じさせる内容のものが、ほとんどです。いわゆる残虐な話、激しい恐怖感や憎しみ、闘争心をおこさせる話は、親たちからきらわれます。
 ところが、古くから民間で語り伝えられたおとぎ話には、かなり残虐な話や、憎しみを呼びおこす内容のものが、たくさんあります。ヨーロッパでは、そうした民間のおとぎ話を集めた本として、有名なグリム兄弟の童話がありますが、そのなかには、『ヘンゼルとグレーテル』(一八一二年刊)のように、残虐で恐怖にみちた話が述べられています。
 貧しさのためとはいえ、二人の子どもを森のなかへ置きざりにして捨てる母親の冷酷さと残忍さ。そして、お菓子の家をおとりにして子どもをとらえ、おいしく食べるために太らせようとする、魔法使いのお婆さんの恐ろしさ。最後に、お婆さんをパン焼き窯のなかに押し込んで、焼き殺してしまう子どもたちの悪知恵と残虐さ──いずれも、今日のヒューマニズムを至上とする考え方から見ると、およそ対極にある、好ましからざる人間性の、恐ろしい側面を浮きぼりにしている、といわなければなりません。しかも、それが、一般庶民のあいだで、たとえば、母親や祖母が、幼い子どもたちに語って聞かせた話であったことを思うと、いったい何のため、また、どのような気持ちで語ったのであろうという、不思議な思いにとらわれます。
 こうしたおとぎ話のもっている心理学的問題については、近年、種々の研究と分析・解釈がおこなわれているようですが、教授は、どのようにお考えになりますか。また、そうした、昔からのおとぎ話のもっていた教育的効果に比して、思いやりなどを直接的に訴えかけようとする、近代の創作童話がもちうる教育的効果を、どのように評価されますか。
2  デルボラフ あなたのおっしゃるとおり、こうした空想文学の領域で作者が考えだしたものには、残酷さや不安、恐怖をそそるものが多いといえます。このような体験を集めた話は、子どもの「基本的信頼」を喚起させるには、妥当でないように思えます。エリクソンのような心理学者は、信頼感こそ、健全で支障のない生き方のための決定的な前提条件、と見ています。
 もちろん、こうした心配が意味をもつのは、グリム兄弟が当時あつめたようなもの、とくにあなたが引きあいに出しておられる『ヘンゼルとグレーテル』といった、わずかな伝承童話についてでしょう。明確な教育的意図をもつ子どものための多くの物語、たとえば精神科医ハインリッヒ・ホフマンの悪名高い『乱髪頭のぺーター』(一八四八年刊)なども、この部類に入ります。
3  これに対し、創作童話では、もっと繊細で、そうした恐怖の体験を取りのぞいた文学的作品が多く、子どもばかりでなく、大人、つまり親も教師も感動をおぼえます。
 いわゆる伝承童話は、それが発生してきた時代の性格を強く負っています。農家や職人階層の悲惨な社会的困窮を映しだしていたり、キリスト教がかろうじてうわべを飾っただけの、古くからの迷信で、すみずみまでみたされていたりします。
 童話がもつこうした“時代性”のよい例証は、多くの童話で継母にあたえられている、意地悪で、魔女のような役割です。むじゃきな子どもたちは、この継母にいじめられ、運命にのろわれているかのように、表現されます。
 しかし、真実は、その時代では産褥熱の病原体がまだ発見されていなかったため、実母の死亡率が高かった、ということをあらわしているだけなのです。そこで、男やもめとなった父親は、大勢の子どもの面倒を見させるために、すぐにも母親のかわりを探さなければなりませんが、とうぜん、かならずしも期待にそうようにはいきません。
 たしかに、性悪で、ぞっとさせるような潜在エネルギーは、情操的に清らかな、現代の子どもたちの体験の世界にはまったく不適当です。したがって、こうした伝承童話の子どもらしくない、奇妙な性格についての議論は、ずっとあり、童話の父グリム兄弟は、当時の世論に対抗し、これを擁護しなければならなかったのです。
 偉大な教育学者たちも――とうぜんのことでしょうが――この問題について黙っていたはずがありません。

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