Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

2 教育と政治権力  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 教授のお国であるドイツでも、同様であったと思いますが、日本の場合も、第二次大戦で敗れる以前は、教育は政府の強力な干渉を受け、すべてが時の政治権力によって左右されました。日本の場合「わが国は神国である」との思想を根本に、人々に国家への奉仕をすすめ、また権力の命令に、絶対的に服従することを求めました。それが、侵略主義的な軍国主義者に利用され、あの大戦に巻き込まれていったわけですが、そうした神国思想を国民に浸透させるために利用されたのが、教育だったのです。
 第二次大戦後は、一転して、平和主義をうたい、憲法にも明記されましたが、そこで国民の意識の転換のために教育の果たした役割も、大きいものがありました。しかし、やがて、日米安全保障体制が強化され、ふたたび日本の再軍備がすすめられると、それにともなって、教育の内容にも政治権力の意図によって、方向の転換がすすめられています。
 とくに、戦争と平和という問題については、兵士としてかりだされ、最大の犠牲者となるのは、青年たちです。ところが、戦争か平和かを決定する政治権力をにぎっているのは、砲火に直接、身をさらすことのない人たちです。もし、彼らが教育についてまでも左右する力をもっているならば、教育を通じて、青少年を好戦主義者に仕立てあげることは、かんたんです。しかも、国民のあいだの不満をよそへ向け、権力を強化するのにもっとも安易な手段の一つが、戦争なのです。
 私は、人間としてもっとも根本的な倫理からはじめて、物事の正しい判断力を青少年に身につけさせるためには、教育はいかにあるべきかを真剣に考えている人々によって、教育の基本方針が定められ、また、その運営がなされていくようにならなければならない、と考えるのです。
2  デルボラフ あなたは、教育分野に対する政治の影響の範囲と、合法性にかかわる問題を提起することによって、われわれの頭痛のタネである問題点をついておられます。
 それは、教育体系がまったく自治権を確保していないあらゆる政治体制――以前には、イギリスの場合がそうでしたが――に対して一連の重大な問題を投げかけるものです。たしかに、教育学がいともかんたんに政治的課題を果たすための道具になってしまうのは、嘆かわしい事態です。それは、教育や人格形成の場で政治意識の変遷が追体験されるということよりも、むしろそうした特定の政治意識を、成長過程にある若い世代に意図的に埋めこもうとする場合です。
 あなたが指摘しておられるように、過去五十年間、日本の青少年は、学校教育の場で、まず民族的帝国主義の理念を、それから平和主義的理念を、そして最後に、既成の勢力関係のなかに組み込まれるべきであるかのように、教え込まれてきました。ドイツでも一九四五年以降、ドイツ民族の民主化を課題として、これを教育に委託しようとしましたが、東西二つの民主主義理解が存在していたため、別々の形態でおこなわれました。
 教養および教育のいとなみへの、こうした事象に即した公平な立場でない党派的動機をもつ政治の影響、いな、干渉は、たしかに許しがたいことです。にもかかわらず、教育と政治の両分野をたがいに結びつける体系的関連を、さらに鮮明にしてみると、両者の関係には、よりあじけない、しかし、より複雑なものがあることがわかります。実際、政治は、科学、法律、保健制度、または安全保障制度に対するのと同様に、教育に関しても権限をもっています。
3  池田 人間の欲望の無限の肥大化を反映して、権力は、すべてをみずからの支配下に組み込もうとする傾向をもっています。もちろん、政治が福祉や災害への対処において指導力を発揮することは、人々の幸福のために望ましいことです。また巨大科学や産業構造の複雑化から、政治権力がそれを調整する役割を担うことは、不可避でしょう。
 しかし、教育は、次代を担う青少年の人格を形成する分野です。これに政治が干渉することは、人間形成というもっとも尊いはずの仕事が、そのときの権力によって左右されるということであり、人間の尊厳をふみにじることになるのではないでしょうか。

1
1