Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 何が最も大切か  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 教育の究極の目的は、人間をつくることである、と私は考えています。そして、その“人間”にとって大事なのは、知性をみがき、知識を豊かにすることももちろんですが、それ以上に不可欠であるのが、倫理観や徳性をやしなうことであると信じています。アインシュタインは「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に、残っているところのものである」(『晩年に思う』市井三郎訳、講談社文庫)との、機智あふれる先人の言葉を紹介していますが、じつに鋭く本質を射ていると思います。
 ところが、知識偏重におちいってしまうのは、洋の東西を問わず、また、時代のいかんを問わず、共通している現象のようです。中世ヨーロッパのスコラ哲学を見ても、瑣末な知識にふりまわされていたことが痛感されますし、近世のルネサンス以後も、モンテーニュが「我々が教育を受けたああいうやり方では、先生や生徒が、より博識にはなってもより有能にはならない」(『モンテーニュ随想録 第一巻』関根秀雄訳、白水社)と指摘し、「父兄の心遣いと費用とは、ただただ我々の頭の中に学問を詰め込むことばかりをねらっている。判断や徳操に至ってはほとんど問わない」(同前)と嘆いているように、あい変わらず知識偏重でした。
 東洋においても、たとえば、中国では官吏登用の試験が伝統的におこなわれ、教育熱をあおる要因となってきましたが、その内容が、膨大な知識の習得と煩瑣な論議に終始するものであったことは、心ある多くの人々の嘆きによって知られるところです。
 私は、教育においてもっとも大切なのは、モンテーニュが言うような“徳操”の教育であると考えておりますが、教授は、どのようにお考えになりますか。
2  デルボラフ あなたが言われている弊害というのは、学校が存在する世界中のどこでもひろまっている事態かと思います。わが国でも「授業の詰め込み主義」ということが言われており、これは、授業によって全人格ではなく、その小さな一部分、つまり、知性だけが育成されていく、ということを意味しています。あるいは、あなたがモンテーニュの言葉を引いて表現しておられるように、生徒の頭を教材でいっぱいにし、判断力とか、徳性や良心などにはまったくふれられないままに終わるわけです。
 このモンテーニュの嘆きを補足するものとして、モラヴィアの教育改革者であり、神学者でもあったコメニウスの批判を付けくわえたいと思います。彼は『大教授学』(一六五七年刊)のなかで、当時の学校教育の教材がいかに非生産的であるか、を鋭く批判しております。
3  池田 十七世紀に活躍した、チェコ生まれのコメニウスですね。私も『大教授学』の日本語訳(鈴木秀勇訳、『世界教育学選集24』所収、明治図書)をざっと読みましたが、教育のあり方について、じつにこまかく叙述されています。彼は「いやがる子どもに無理矢理学習させる教師は、子どものことをよく考えていない」と指摘し、「知ろうとし学ぼうとする炎(ardor)を なにかの方法で 子どもの胸に燃え立たせなくてはなりません。教授方法によって学習労働(discendi labor)をへらし、生徒が苦しみのために学習を続ける意欲を失なうようなことが 全く起こらないようにしてほしい」と提言していますね。

1
1