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日蓮大聖人・池田大作

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4 法か人格神か  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 仏教とキリスト教の相違点のなかでも、もっとも根本的な問題は、仏教が“法”を究極にあるものとしているのに対し、キリスト教は“人格神”を究極の存在としていることであると私は考えます。
 もちろん、キリスト教においても、カトリックとプロテスタント、さらにはギリシャ正教とでは大きなちがいがありますし、さらに、それぞれのなかに、さまざまな流派があって、それぞれに教義内容もちがうでしょう。しかし、いちおう、バイブルが共通の原典であるかぎり、天地万物を創造した唯一神が、全キリスト教徒にとってのいっさいの根源であり、この神はまた、はげしい愛憎の感情をもった人格的存在でもあります。その点では、各派のちがいは、ほとんどないといえるでしょう。
 これに対し、仏教では、実際にこの世界にあらわれた釈迦牟尼仏だけでなく、経典のなかには、過去・現在・未来にわたり、また広大な宇宙のなかのたくさんの世界を舞台に、数えきれないほどの多くの仏陀が存在しているとされます。本来“仏陀”とは「真理を悟った人」を意味し、真理は時間・空間を超えた普遍的なものですから、時空のあらゆる広がりのなかに、それを悟った仏陀は無数に存在しうるのです。のみならず、いまは悟りを得ていない人々も、修行し、思索を深めることによって、仏陀になる可能性をもっています。
 「真理を悟った人」が仏陀であるということは、「真理」こそ、あらゆる仏陀を生ぜしめる根源であるということでもあります。ゆえに、仏教では、この「真理」すなわち“法”こそ、あらゆる仏陀の親であり、師であり、主君であると説くのです。
 そして、現実に生きている人々の幸・不幸を決定していくのは、人々がこの“法”に合致した行動をとるか、そこから外れ、背いた生き方をするかであるとされます。
 仏法でいう“法”とは、人間が社会的に制定する“法”ではなく、自然界のあらゆる事象がのっとっている法則性のようなものです。したがってたとえば、引力の法則を知り、それに合致した行動をとればケガをしたり命を落とさないですむのに、それをわきまえないで、五十㌢の高さから飛びおりるようなつもりで五十㍍の高さから飛べば、即死はまぬかれません。
2  それと同じように、そして、もっと深いところで、人間の生命活動を左右する“法”が働いており、それに合致した行動をとるかどうかが、人々の幸・不幸を決定する根本であるというのが、仏教の明かしている問題です。また、この幸・不幸は、たんに現在の人生のなかでの、物質的・社会的な幸・不幸だけではなく、死後においてもつづいていく幸・不幸です。
 私は、意思や感情、また知性をもった人格神が人々の運命、幸・不幸を支配しているとするキリスト教的考え方は、高度な抽象的思考のできない人々を教化するのには、説得の即効性をもっていたでしょうが、抽象的思考もできるようになった人々にとっては、不満足であるばかりでなく、かえって、さまざまな疑問を生ぜしめるのみであろうと思います。たとえば、現実の社会では、善人よりも悪人のほうが神によって守られているように見える場合が少なくありませんから、神の公平さも、さらには神の英知さえも、信じがたくなることもあるわけです。
 今日、キリスト教を信仰する人々のなかにも、究極の存在を人格的な神とするよりも、“法”に近い概念でとらえようとする傾向があると聞きますが、教授は、この問題について、どのように考えておられるでしょうか。
3  デルボラフ 事実、キリスト教に対するありとあらゆる異論は、かれこれ二千年におよぶキリスト教神学と教会の歴史のなかで、徹底して考えつくされてきていますし、ひんぱんに、はげしい対立抗争の原因となってきました。人格神の理念に対する擬人論批判も、その一つです。
 そこで、私としてはこうした一連の批判、反省点の核心だけを取り出し、ここでの中心テーマを三段階に分けて考えてみたいと思います。
 最初に、表面的にですが、あなたの論点に対するキリスト教の擁護を試みてみましょう。ただし、キリスト教圏内でも、人格神という観念に対しては批判的啓蒙がなされ、この観念がかなり稀薄になっていることはいなめません。したがって、これに関連して、宗教と哲学、さらに個別科学との関係を考慮する必要があります。同時に、この関係が東洋ではどう解釈されるのか、おたずねしたいと思います。
 第二の思考過程では、キリスト教的意味での「人間と神の取り引き」としての救済史と、仏教的理解における「輪廻転生」を対比させたいと思います。そうすることにより、あなたの言われているキリスト教と仏教の差異の問題を、深く考察できます。
 最後に、第三の思考過程で明示すべき問題は、キリスト教の伝統的教義が信仰者自身にとってどのような点で理解しがたく、疑念の対象となるのか、また、はたして信仰者はこうした困難をどのようにして乗り越えることができるのか、ということです。
 この三つの思考過程は、キリスト教と仏教の比較の範疇にあり、あなたの異議に対して答えを出すことになるはずです。

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