Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

2 愛と慈悲  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 そこで、愛と慈悲について考えてみたいと思います。キリスト教においては、神のもっとも大きい特性として“愛”が強調されます。仏教において、それに対応するものは、“慈悲”であると考えられます。
 キリスト教の“愛”も、神学的には、さまざまな論議と定義があることと思いますが、仏教の“慈悲”にも、厳密な定義があります。根本的にいえば、弱者への慈しみの心ですが、現在は弱者でなくとも、生命の法に照らして未来には不幸な弱者となるべき因をつくっている人も、弱者と見て、これを思いやるのです。そして、その場合、不幸や苦しみには、それをもたらしている原因があるのですから、その不幸・苦しみの原因を取りのぞき、幸福になる原因をあたえるようにします。“慈悲”とは、まさに、たんに思いやりの心にとどまるのではなく、苦をのぞき、楽をあたえる行為であるわけです。
2  デルボラフ 私は、他人に対する同情としての愛よりも、仏教の慈悲のほうに優位性を認めています。発生的にも慈悲は愛よりもいっそう根源的に思えますし、先にも述べたことですが、その広がりや到達範囲から見ても、仏教の慈悲は、人間以外の生命をも、その関与する領域のなかにふくむからです。
 もちろん、キリスト教的意味での隣人愛は、他人に対するたんなる同情以上のもので、したがって、仏教徒が慈悲として理解するものにかなり近づいています。
3  池田 “慈悲”について、仏教では、それが向けられる対象範囲の広がりによって、区別を立てています。
 一つは小悲といって、自分に関係のある人々、つまり家族とか知人などのみに向けられる慈悲があります。第二は、中悲といって、すべての人間の生命は尊いから、これを守らなければならないとの一つの法理に立って、自分に関係のない人々へも向けられる慈悲です。第三は、大慈大悲といって、仏法を究めみずからに体得したときには、そのすべての行為が、意識するといなとにかかわらず、必然的に慈悲となっていくというものです。
 第一の小悲は、人間としての自然の情愛に属するものといえます。それに対し、第二の中悲は仏法を学び、その教えを実践するなかにふくまれるもので、努力の所産です。菩薩の慈悲は、これにあたるとされます。第三の大慈大悲は、菩薩の修行を成就して悟りに到達した仏陀の慈悲です。

1
1