Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

1 仏教とキリスト教の共通点…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 仏教とキリスト教とは、たがいに共通する面と、根本的に異なっている点とがあります。共通している面としては、端的にいえば仏教が成仏を目的とし、キリスト教が天国に入ることを目的とするように、死後の壊れない幸福世界をめざすよう教えていることが、まず第一にあげられましょう。
 このように、死後に究極の理想をおき、永遠の幸福をめざすのは、現在の私たちが生きている現実の世界で得られる幸福が無常のものであるという認識を前提にしていることは、いうまでもないところでしょう。すなわち、人生そのものがかならず死によって終わること、したがって、この人生のなかで、どんな栄華や幸せを築いても、死とともに消えてしまうということへの反省があったといえます。
 もとより、これは、だれにでもわかることですが、仏教以前の東洋の諸宗教、キリスト教以前の西洋の諸宗教の多くは、故人の生命はその子孫の祭礼によって、死後も幸福を保証されていくとしました。あるいは、その死体が保存されているかぎり、幸せがたもたれるとされたりしました。これらに対して、仏教やキリスト教のもたらした変化は、死後の幸・不幸を左右するのは、子孫や墓ではなく、その人自身の現在におけるおこないのいかんであるとして、個々人の責任性を明確にしたことだといえます。
 その結果、人生の内容を評価する基準として、快適な生活であるかどうかよりも超越的な次元にある善悪というものが、大事になってきます。すなわち、物質的に恵まれ、社会で高い地位にあって、快適な人生を送ることがすばらしいのではなく、キリスト教でいえば神の心にかなった、仏教でいえば、仏法にかなった生き方をすることこそ、すばらしいとされるわけです。つまり、人間を物質的・社会的欲望を超えた精神的欲求へみちびいたということであり、そこに、仏教やキリスト教が高等宗教と名づけられる理由があった、と私は考えます。
2  かつて、日本ヘヨーロッパ人がはじめてやってきた十六世紀のころ、たとえばフランシスコ・ザビエルなどは、仏教を信仰している日本人の生き方、考え方を見て、これはキリスト教の一種の変型である、と考えたといわれています。日本人もまた、ザビエルなどの伝えたキリスト教を、それほど違和感をもたずに受けいれたのでした。
 のちに、日本の為政者は、キリスト教信仰をきびしく禁じ、西洋との交流の窓口を長崎一港に制限して、いわゆる鎖国政策をとりました。いったんキリスト教に改宗した人々も、きびしい弾圧のため、その多くがもとの仏教徒にもどったり、身分を隠したりしました。
 あくまでキリスト教の信仰をつらぬこうとした九州の一地方では――先に教授も述べられた島原の乱ですが――苛政への抵抗とあいまって、きびしい戦闘がおこなわれました。また、キリスト教の信仰を仏教の様相でカムフラージュし、イエスを抱いたマリアを、仏教の観音菩薩に仕立てあげて何百年も伝えた人々もいます。
 これは一見、仏教とキリスト教の対立というふうに見えますが、本質的には徳川権力体制と、神のみにしたがおうとするキリシタンとの対決と見るべきです。仏教教団がその信仰教義の相違からたがいに流血の争いを演じたり、あるいは他の宗教を信ずる者に対し、暴力をもって迫害をくわえた例は、ほとんどないといってよいでしょう。
 仏教とキリスト教の相違点は別に取り上げることにして、両者の共通面、そして、それが人間の精神的向上に果たした役割といった問題について、教授は、どのようにお考えになりますか。
3  デルボラフ こうした考察をすすめる場合、宗教的体系の比較から出発し、おのおのの共通点や相違点を明確にする必要があります。もとより、批判も許されてしかるべきですが、その場合、批判の対象となっているものの陰に隠れている批判者自身の信仰理解がどうであるかということが、重要な要素として拾いだされるべきです。
 つまり、批判から自己批判へと前進する必要があります。そのようにしてはじめて、私たちの対話も、宣教の意図をもってするものではなく、ほんとうに実のあるもの、そしてたがいを結びつけうるものとなるでしょう。ここから、あなたが「人類共同体意識」と呼んだものの前提条件も、宗教的生活信条の実践的問題としてはじめて理解できると思います。
 創唱宗教、あるいは高等宗教は、実践上、礼拝上、教義上の相違があるにもかかわらず、自然宗教や原始宗教をはるかに凌駕する本質的な共通の特徴をもっています。原始宗教もふくめてすべての宗教は、最終的には、救済への道であると理解できますが、何を救済とみるか、救済への道をどう理解しているか、救済が実現する場所をどう理解しているかという点に、その相違を見ることができます。
 救済とは、本質的に、現世の生活の有限性と苦悩の体験に対する対極として規定されます。したがって、少なくとも一つには、無常性の克服と苦悩からの解放を意味しています。原始宗教の信奉者はこの世のわざわいを、霊や鬼神によるものであるとしており、供物により寛容や援助を得ようとします。また、彼らは、そうした捧げ物や儀式により故人の冥福と救済を成就しようとつとめます。

1
1