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日蓮大聖人・池田大作

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6 医師と倫理性  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 倫理性がきびしく問われるもう一つの職業である、医師の問題に論点を移したいと思います。古来、医術の基調に倫理が説かれてきたことは、洋の東西を問わない共通の現象です。それは、人の生命をあつかう分野であり、その仕事上、個人のプライバシーにふれることからも、とうぜんのことといえましょう。
 ヨーロッパでは、古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」は、そのもっとも根本的な原点とされていますし、一八九四年の「ナイチンゲール誓詞」、一九六四年の世界医師会で採択された「ヘルシンキ宣言」等も、この「ヒポクラテスの誓い」をふまえています。その底流をつらぬいているのは、人間愛の精神であるといえましょう。
 一方、東洋においては、仏教の開祖・釈迦牟尼自身、多くの経典のなかに医の基本倫理について説いており、仏教の信仰とともに、長く東洋の医師たちの規範となってきました。その基調が仏教の慈悲の精神であることは、いうまでもありません。
 また、中国の儒教の“仁”も大きい影響をあたえ、中国や日本では、古来「医とは仁の術である」と言いならわされてきました。現在においても、これらが医師の倫理の規範になっていることには変わりありません。
 しかし、今日では、医学の知識と技術面の急速かつ巨大な進歩によって、古代の医聖たちの時代にはまったく考えられなかった諸問題に直面し、医師も患者も、さらには法律家、宗教者も、ジレンマに立たされる場面が多くなっています。しかも、それらは、人間の倫理観、生命観といった根本問題とつながっており、さけて通ることを許されないものです。
 そうした医療問題に対して、どう考えるべきか、なかんずく宗教はどのようにかかわるべきかについて、お考えをうかがっていきたいと思います。
2  デルボラフ たしかに、西洋の医学上の倫理は「ヒポクラテスの誓い」と、そこから育成されていった医者の職掌に対する義務感によってかなり早い時期から明確な指針をもっていました。東洋でも、仏陀や孔子はおのおのの仕方で医者の責任を形成するのに貢献しています。この点、キリスト教の場合――預言と病人の治癒との形式的結びつきを別にすると――福音書作者の一人であるルカは、医者であったにもかかわらず、比較的無言のままです。
 医学が比較的早く専門的倫理を確立したのは、医学が、失敗の許されない職務遂行をつねに義務づけられている立場にあったからばかりではありません。むしろ、ひんぱんに極限状況、あるいは「ジレンマ」に立たされてきたことと関連しています。この場合、明らかに、範例にのっとることが不可欠となります。おのおのの事例について、何が本来の問題なのか、そもそも処置すべきなのか、また、いかに対処すべきなのか、という問題点を徹底的に解明する必要があります。
 これらの問いが医学的専門知識だけから明確な答えを得られるのは、たいへんまれなケースです。さらに、医療活動はその影響において、たとえば法律活動のような他の領域と錯綜しています。したがって、つねにその結果も考慮されねばなりません。
3  池田 宗教のなかには、そのドグマ的な考え方からいっさいの医療を拒絶するものもあります。あるいは、そこまで極端でないまでも、医学の進歩に対して否定的作用をする場合が少なからずあるものです。
 そうした宗教の場合は別にして、一般的に宗教の担う大切な役割は、医学の進歩と医療の発達がとかく人間性を忘れがちであるのに対し、医師には、人間として忘れてはならない患者への思いやり、また患者自身には精神的なはげましといったものをもたらしていくところにあると思います。

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