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日蓮大聖人・池田大作

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2 倫理的行動の基盤  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 古代ギリシャのソクラテスやプラトンの果たした役割は、きわめて多岐にわたることはいうまでもありませんが、もっとも大きく、また、現代にも訴える力をたもっているのは、彼らが“人間”を見つめ、“人間”をいっさいの基準にする物の見方に立って、人間の生き方を探求し、説いたことにあると私は思っています。そして「正義とは何か」「善とは何か」といったイデーを追究し、そこに人間のめざすべき理想と、人間のふまえるべき道を明らかにしようとしたわけですが、このことはとりもなおさず“倫理”の確立を志向したものといえます。
 イギリスのギリシャ哲学研究家F・M・コーンフォードは、その著『ソクラテス以前以後』(一九三二年刊)のなかで、ソクラテスの業績として、外からの束縛としての倫理規範を、内なる魂の完成をめざす憧憬として転換したことにある、と指摘しています。
 ドイツの哲学史家シュテーリヒも『世界の思想史』(一九五〇年刊)のなかで「ソクラテスの影響は事実、彼が教えたことよりも、むしろ何千年もたった今でも、人間的にわれわれの身辺にありうる彼の比類ない人格に基づいている。ということはつまり、彼とともに人類の歴史の中に、その時からいつまでも作用しつづける教化の力となったあるものが、すなわち自分自身の中にゆるぎなく築かれた自律的な道徳的人格が、はいったことによるのである」(『世界の思想史(上)』山田潤二氏ら共訳、白水社)と述べ、これこそ《ソクラテスの福音》であると称えています。
 しかしながら、「正義とは何か」「善とは何か」といった理念をみずから知るとともに、自身の徳として肉化することは、すべての人にかんたんにできることではありません。正しい認識を得ることさえ容易でないうえ、それを徳として実践化することは、さらにむずかしいでしょう。人間生命そのものに焦点をあて、正しい知と正しい実践とをさまたげているものを明らかにし、その除去の方途を教えたのが、仏教にほかなりません。
 ヨーロッパにおけるルネサンスや宗教改革という広範な時代転換の波も、単純化した言い方にすぎるかもしれませんが、少なくとも一つの要因としては、キリスト教神学が、長い中世のあいだ、民衆に押しつけてきた倫理観に対する反発という意味をもっていたということができると考えますが、いかがでしょうか。
2  デルボラフ 私の理解が正しいとすれば、仏教は、キリスト教とは正反対に、人間解放の穏健な宗教だと思います。なぜなら、仏教は、原始宗教や鬼神崇拝などが約束するような、一時的な救済への欲求を超えて、自己認識と智慧の獲得をめざしているからです。仏教における自己認識は、合理性や道徳に通じている部分もありますが、むしろ、こうした表面的なものを突きぬけ、あらゆる外面性からの解放をもたらす「精神的深み」をめざすものです。
 キリスト教は、この点からいうと、自己解放への要請ということを知りません。イエスがあらわれたのは『旧約聖書』の律法を解消するためではなく、それを実現するためでした。すなわち、イエスは、神への畏敬を中心とする十戒を継承しつつ、それに自己愛を基準とする人間愛や神の愛をくわえたのです。その倫理観は他律的であり、自律性はまったく存在しません。
 たとえキリスト教が個人の良心を認めているとしても、それはあくまでも律法のもとにあり、律法に服従すべきものなのです。別の言い方をすれば、キリスト教が自由思想を容認するのは、外から強要されてのことなのです。この「外」というのは、先に何度かふれたヨーロッパ精神のヒューマニズム的合理性以外の何ものでもなく、これは内省と自己完成をソクラテスが提示したとき、はじめて開花したものです。
3  この点に関して、あなたはコーンフォードのすばらしい表現を引用しておられます。実際、内面性という視点こそ、まさしくソクラテスの新機軸なのです。あなたご自身もこの「内面への道」が、人々を律するに足る道徳を正当化し、根拠づけるためにぜひとも必要なものであると理解しておられます。
 「内面性」というのは、二重の意味をもつ概念です。それはまず、「比較級的内面性」(カント)という意味で生活の内側と考えることができますが、この場合、内面性は空間的カテゴリーに属することになり、これは「私的である」ということと符合します。
 それに対し現実には、フロイトの言うように、人間の知性の表面下に無意識の場が存在し、霊的生命の構造のなかに一つの「層」を構成しているのがそれであるかのように理解されることがあります。これは「誤解された内面性」で、このことについては、またあとで私の考えを述べたいと思います。
 もちろん、私は、ここでいう内面性を、いわゆる「非合理的なもの」として、合理性から極端に分離させるつもりはありません。なぜなら、そのようにすれば、本来一つの弁証法的関係にあるものが、分析的対立となってあらわれてしまうからです。
 むしろ、「前合理的」という呼び方のほうが適切ではないかと思います。というのは、真実の内面性とは、つねに合理的なもの、あるいは普遍的なものを要素としてもっていたのであり、それが啓蒙思想によって表面化されるときには、その由来がかんたんに忘れさられて自立性を獲得し、「内面への道」ということが軽率に「下方への道」、つまり空間的運動として誤解されてしまうからです。

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