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日蓮大聖人・池田大作

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1 倫理規範の源流  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 古来、倫理的イデオロギーは、宗教が根底となってきたといえると思います。もちろん、民族、社会によって、宗教性を色濃く残しており、神の言葉として倫理が規定されている場合もあれば、いまでは、ほとんどまったく宗教性の消滅している場合もあり、千差万別であろうと思います。しかし、まったく宗教とは無関係のように見える場合でも、その起源をたどっていくと宗教にぶつかったり、あるいは、その倫理を教えた人が神聖視されている事実が認められます。
 何が善で、何が悪かという問題は、人間の経験的知識を超えており、そうした善悪の規定は、人間を超えたもの、すなわち神によってなされたとする以外に、人々をしたがわせる道はなかったからであろうと考えられます。神が人々の守るべき倫理を定めたとされるもっとも典型的な例として、ユダヤ教におけるモーゼの十戒があり、さらには、イスラムの聖典『コーラン』に定められた戒律があります。
 仏教の場合も、生き物を殺すことや、人にウソをつくこと、過度の欲望やはげしい憎悪の感情に身をまかせることなどを戒めています。ただし、それは、神が定めたということではなく、みずからを不幸におとしいれる悪の行為であるとして、生命の因果律のうえから、みずからの責任において判断し、自己を律せよと教えているのです。
 今日、神といった超越的存在を認めようとしない風潮が一般化し、それにともなって、神への畏れによってささえられてきた倫理も、大きく崩れてきています。善悪の概念が人々の行為を律する力を失ったとき、それにかわって行為を左右していくのは、好ききらいの感情や利害得失の計算です。現代社会は、まさに、経済的利害か感情的好悪かによって動かされているといっても過言ではないでしょう。
 何が善で、何が悪か。この基準自体、再検討を要することはいうまでもありませんが、神という超越的命令者を失ったあともなお、人々に善を重んじ悪をいとわせるべく働きかけるものとして、教授は、どんなものに希望を託されるでしょうか。
2  デルボラフ 私もあなたと同意見で、道徳と宗教は、その起源からたがいにからみあっていると思います。創唱宗教はいずれも、『旧約聖書』や『コーラン』のような権威ある道徳規範をもっておりますし、原始的な宗教でも、ある特定の行動規律を守ることによって救われるとしています。自律的倫理学の代表格であるカントも、その道徳的要請をキリスト教によって正当化しようとはせず、むしろそれが、神のおきてという役割においてこそ、一般の市民に対する信憑性を得るものと確信しておりました。このへんの理由づけの関係性は、彼が道徳的当為に付与した神聖という性格にもよく出ております。
 今日では、神が道徳的規範を設定したとか、あるいはカントの言う「神聖な義務」というような論議はほとんど問題にされず、一般市民の道徳的基盤は、あなたが強調されるとおり、功利主義や実用主義です。経済的観念が情念にまできざみこまれてしまっており、道徳的にいくら懸命に訴えたところで、利益を重んじる考え方のまえには何の効果もありません。
 そこであなたは、業(カルマ)という仏教の中心思想と関連する「因果」の理法を、このような退廃に対抗する治療薬として、推奨されるわけですね。
 私の理解が正しいとすれば、業とは、過去の行為に由来し、かつその折々の状態と同時に、その人の将来の運命をも決定する潜在エネルギーを意味しています。ですから、因果の理法とは、たんに善と悪とが世界的な広がりをもって影響するということだけでなく、自分の善い行為、悪い行為がそのまま自分自身に返ってきて、自分を幸福にしたり、不幸にするということです。
 したがって、こうした理法との関連性を洞察すれば、人はだれでも自分の幸福を断念できない以上、自分の行動についての道義上の責任を感じざるをえず、これはあたかも、自然界の法則を洞察することにより、人間が物理的秩序に対して従順にならざるをえないのと同じことである、ということですね。
3  池田 そのとおりです。私は仏教を信奉する一人として、仏法の説く、生命の因果の法理の概念は、現代人にとっても、十分、説得性をもっていると考えています。
 たしかに、因果律自体をも否定し、すべては偶然によるのであって、因果律があるように見えるのは確率の問題にすぎないとする考え方もあります。とくに生命の現象、なかんずく意識の働く世界にあっては、原因と結果を結ぶ関係というのは、容易にとらえがたいでしょう。そして、善行がかならずしも善い結果を生まず、善人がかならずしも幸福を得られない、むしろ悪人のほうが、少なくとも外面的には裕福になっていることが多いという事実は、この生命の因果に対する疑惑をかきたてていることを、私もよく知っています。
 しかし、それにもかかわらず、私は、長期的に見れば、そして、物質的・外面的側面だけでなく、内面的次元もふくめた立場で見た場合には、仏法の説くように、生命の因果律が成り立っていると考えますし、現代人も、それを受けいれていけるものと信じています。そして、いまおっしゃったように、ちょうど人間が自然界の法則を知って、それにかなった自分の行動を判断していくように、生命の法則を知れば、そこに善悪の判断がみずからの責任でなされていくようになると思います。
 すべての人にこのように期待することはあまりに楽観的だとしても、大多数の人には期待できるでしょうし、そこに崩れることのない倫理観の再建が可能となると考えます。

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