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日蓮大聖人・池田大作

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3 ヒューマニズムの本質と形…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 ヒューマニズムが西欧において人々の心をひきつけ、近世以後の哲学、芸術、文学、また社会運動の原動力となってきたのは、神中心主義のキリスト教的伝統が人間を抑圧していた、という事実があったからであると思います。
 圧迫があったから、そこから人間を解放し、人間をこそもっとも尊び、あらゆる創造的いとなみの主役にすえるべきであるとするヒューマニズムが、現実変革の哲学としての力をもつことができたのではないでしょうか。
 元来、ヒューマニズムは、人間の尊厳性を認め、これを圧迫と束縛から解放することをめざしたのであり、それ自体は、高く評価されてしかるべきものでした。しかし、この解放は、人間を二つの意味で危機に直面させることになったと思われます。
 すなわち、人間性の解放は、一方において理性による分析的思惟に強く傾斜するとともに、他方においては、物質的・現世的な欲望の無制限の追求となってあらわれました。分析的思惟だけを重視することは、自然を切りきざみ、自然の万物が織りなす生のリズムへの畏敬の念を失わせました。他方、かぎりのない欲望の追求は、従来の倫理が築きあげてきた、人間性の崇高さへの渇仰や向上心を失わせました。
 その結果が、人間の精神的な尊厳性ばかりでなく、人類の存続をさえ危殆に瀕せしめようとしていることは、昨今、多くの知識人の指摘するとおりです。いな、この危機的状況は、知識人のみならず、ほとんどの一般人もはっきりと意識し、憂慮するほどの状況にいたっているといっても過言ではないでしょう。
 私はキリスト教が、今日、倫理面での指導力をさえ失うにいたった原因は、人間が自然界の万物を支配する自由と権利をもっているとしながら、その一方で教義の権威を押しつけて真理探究の自由を抑圧したことが、キリスト教そのものへの人々の反発をまねき、その倫理面の教えまでも排斥する風潮をもたらしたのではないかと思います。
2  この点、東洋においては、全般的にいって、絶対的な君主政治や形式主義、太古以来のさまざまな迷信の支配にもかかわらず、人々の心まで縛りつけ、絶対神信仰や宗教の権威でなされる倫理の押しつけといったものはなく、少なくとも精神世界においては、人間中心主義的傾向が一貫してたもたれてきました。文明の土台が、本来、ヒューマニズムを基調としてきたわけで、ここに、西欧とちがって、東洋においては、ヒューマニズムが思想運動としての明確な盛りあがりや、鋭い意識をかえって呼びおこしえなかった理由があったのではないかと思います。
 そればかりでなく、東洋思想のなかでも、仏教は、人間の内面的な束縛である欲望の克服、理性をリードすべき深い智慧の開発、自然の万象をつらぬくリズムと自己との調和を教えていますが、こうした教えがヒューマニズムとして意識されることは、これまでの東洋の思想にはありませんでした。
 しかし、西洋のヒューマニズムを知ったうえでこれをとらえなおすと、まさしく、真実の人間の主体性と尊厳性を実現しうる新しいヒューマニズムの基盤が、この仏教の教える理念と実践にあることを痛感せずにはいられません。教授は、西洋の思想的発展を知りつくされており、しかも、その直面している危機についても通暁されている立場から、この点について、どのようにお考えになりますか。仏教の思想の果たしうる役割について、どのように評価あるいは予測をされますか。
3  デルボラフ あなたは西洋ヒューマニズムを、超自然的な救済なしに自己の宿命を克服するという人間の能力に対する信頼として、また同時に、キリスト教会による思考・言論の自由への抑圧に対する反動としてとらえておられます。さらに、西洋ヒューマニズムが文化的領域において達成した数々の業績にもかかわらず、その人間解放の世界観は、結果として誤ってしまったと指摘されました。その要因としてあなたがあげておられるのが、この人間解放の世界観が分析的思惟一辺倒になり、伝統的価値や人間の尊厳を劣悪な物質主義にまで堕してしまった、ということですね。
 キリスト教とくらべると、仏教の場合、信奉者を子どもあつかいしませんから、そのような保護監督者に反抗する必要がありません。そのかぎりにおいては、たしかに仏教には西洋ヒューマニズムの人間解放の要素と、西洋ヒューマニズムが要請するものを概念上一義的に把握しようとする欲求が欠けております。
 にもかかわらず、あなたが仏教をヒューマニズムと呼んでおられるゆえんは、仏教が人間の尊厳に対する畏敬の念につらぬかれており、また、自然や宇宙の大いなるリズムと調和することにより、内面の智慧を涵養しようという自己完成の理念をもいだいているところにあるかと思います。そこから、この仏教的ヒューマニズムこそ、西洋ヒューマニズムがその物質主義的な傾向性におちいってしまった袋小路からの突破口になりうると、とらえておられます。
 ただ、このあとにつづく論議から察するに、あなたにとってヒューマニズムというのは多種多彩のようです。攻撃的・暴力的であったり、また、自由主義的・協調的で平和愛好的でもあり、さらに、この「一般的ヒューマニズム」の他にもう一つ別の古典作家の伝統にもとづいたものも見受けられます。──これは私が先に、「教養および学識者のヒューマニズム」と呼んだものです。この第二のヒューマニズムは、あなたが西洋ヒューマニズムのなかで積極的に評価しておられる芸術や学問上の業績分野を、おおかた占めてきたものなのです。

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