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日蓮大聖人・池田大作

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5 地域共同体の復興  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 伝統的な生活をささえてきたものに“家族”とともに“地域共同体”があります。とくに日本では、米を作る農作業は、一家族だけではなく集落そのものが作業単位となっていたため、強い共同体を形成していました。
 たとえば、米を作る水田は大規模な水利体系を必要とします。池や川から引かれた水は、多くの家族の所有する水田を経由して流れていきます。あるいは一本の小川から、均等にいきわたるように水が配分されます。
 また、植えつけや刈りとりの作業は、集中的に共同作業でおこなわれました。きょうは集落総出でAさんの田植えをしたとすると、あすは、やはり皆でBさんの田に植えつけをするというぐあいにです。
 そのため、いちおうは各家族が独立した単位でありながら、集落全体が一つの家族をも構成していたのです。そして、その絆を強めるため、あるいは、そうした強い絆の結果として、集落全体が一つの神社や寺に属し、季節季節の宗教行事を、集落全体の行事として催してきた歴史があります。
 この伝統的な考え方は、より大きい単位の社会にも適用され、たとえば、江戸時代の封建領主のおさめた“藩”も、それ自体、一つの家族のような意識でささえられていました。近代においては、日本全体が一家族であるかのような意識が強調もされましたし、人々の心の底にも残っています。
 こうした“家族主義”的な共同体の意識は、思いやり深さという、良い面にばかりあらわれるわけではなく、個人の自由を束縛したり、他の人々と異なった独創性を発揮するのをおさえるという面にあらわれることも少なくありません。
2  デルボラフ アリストテレス以来、周知のことですが、家族と国家とのあいだには、その仲介役を果たす一連の重要な組織段階が存在しています。なかでも地域共同体(あるいは、彼の言う「村落共同体」)は、伝統保持という点でたしかに特別な役割を担っています。
 家族という単位を超えた問題や課題はつねに存在しており――あなたはその例として日本の稲作をあげておられますが――そこでは、より広い意味の共同作業が必要とされます。となりに住む人々はたがいに助けあわねばならず、これは、われわれドイツ人が「近所同士の助けあい」と呼んでいる一つの義務でもあります。
 しかし、工業化と都市化の波は、農村の下部構造にも影響をあたえています。農村でも、地域の課題は、個々人によって、そくざに解決できるものではなく、いわゆる地方自治体のレベルで組織しなければならなくなっています。そこで、地域共同体にも官僚的な行政管理がますます入り込むことになります。そのうえさらに、ドイツでは、国家が解決困難な組織上・財政上の課題を、地方自治体当局にたくさん押しつけています。
 日本の場合と同様、今日、地域共同体がまとまった統一体としてあらわれるのは、人々が教会へ行くとか、地域のお祭りなどの非常にかぎられたときだけです。ドイツの場合、地方自治体の行政レベルのうえには、州の行政レベルがありますが、州はさらにいくつかの行政区に細分されます。これは古くからの因習が深いところでまだ生きているためです。
 ペスタロッチは、十九世紀初頭でも、領主をその領邦の父とし、その政体を家長制とみなすことがいかに自然であるかを指摘していました。彼は、つねに小家族の形態から領主制度の家族的構造を推論しました。「父」「領邦の父」「父なる神」というように、つぎつぎと昇格していく順序になっています。
 今日ではこうした家長制的考え方は、すでに、多かれ少なかれ機能的考え方に取ってかわられています。機能的な考え方では、政治家は、有能であるかどうか、またどういうイメージを被統治者からもたれているか、という二つの観点から判断されますが、十九世紀後期でさえ事情は多少異なっていました。ほぼ七十年近くつづいたフランツ・ヨーゼフ一世治下のオーストリア人や、ビスマルク政権下のドイツ人の魂に吹きこまれたものは、愛国精神といえます。この愛国主義には、まだ昔の家族構造に由来する精神が少し残っているようです。
3  池田 これは、中国や日本の思想家、宗教家の発想法にも見受けられるものです。古代・中世の人々にとっては、きわめて自然な考え方だったわけですね。農村でかつては共同作業でなければできなかった仕事が機械の力で悠々とできるようになり、共同体の基盤が大きく崩れてきたのは、二十世紀も七〇年代になってからのことです。また、とくに若い世代の人々が自由を求めて束縛をきらうようになったことも、共同体意識を弱めさせている大きな要因としてあげられます。さらに、日本の多くの農家では、農作業は婦人たちにまかせ、男は都市へ働きに出るようになったことも無視できません。
 こうして“地域共同体”は、実質的にもはや消滅しつつあり、わずかに人々の観念のなかに残っているものの、それすら忘れさられ、顧みられなくなりつつあるといっても過言ではないでしょう。それは、個人の自由を拡大したという良い面をもっている反面、人々の相互間の思いやりや助けあいの精神をなくさせ、心の繋がりのない冷たい社会にしているのです。
 私の考えでは、人間は、自由を求める存在であるとともに、たがいにささえあっていく繋がりなくしては、たんに物質的・肉体的な面だけでなく、精神的にも、その平衡をたもっていくことのできない存在です。したがって、現代にふさわしい状況のなかで、それに適合した新たな共同体社会が形成されていかなければならないと考えるのですが、どのようなものがこの条件にあった共同体となりうるのか、現代社会の人間はどのようにすればそうした共同体を形成しうるのか等が問題でしょう。

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