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日蓮大聖人・池田大作

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1 近代化への反動  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 近代化と伝統の問題は、近代化それ自体を生みだしたヨーロッパの人々にとっては、日本や中国をはじめとする非ヨーロッパ世界の人々が直面した仕方とは異なっているはずです。したがって、この場合、問題は、大きく二つに分かれるように思われます。
 一つは、ヨーロッパ自体における近代化と伝統の問題です。つまり、近代化はヨーロッパからおこってきたという点で、ヨーロッパみずからの伝統文化の土壌と切り離せない側面をもっています。この場合において、私がむしろヨーロッパの伝統の根強さを実感するのは、みずからの生みだした近代化をみずからの手で批判し、あるべき姿を模索している点に関してです。
 たとえば、すでに、かのフリードリヒ・ニーチェは、その一連の著作をとおして、近代合理主義のはらむ矛盾や病弊を指摘しつづけましたし、第一次世界大戦後にセンセーショナルな反響を呼びおこしたシュペングラーの『西洋の没落』(一九一八年刊)もそうですし、さらにはトインビーが、その壮大な文明史観からヨーロッパを相対化しようとした作業などにも端的にそれがあらわれているように考えられます。
 この、いわば“内在的批判”は、二十世紀末の今日、ますますさかんになってきているように思われます。近代思想の一大特徴である進歩史観により、古代、中世を人類の“無知、蒙昧の時代”と想定してきたこれまでの把握に対して、古代は古代として、中世は中世として、それ自体、固有の輝きと価値をもっていたという認識があらわれてきたのも、その“内在的批判”の一つの成果であると思われます。
 この流れのなかで、最近ではむしろ、「近代」というものが、大きくは人類の、あるいはヨーロッパの長い歴史のなかで、まさに“特殊”な時代であった、と総括する論も見られるようになっています。
 教授ご自身、ヨーロッパ人として、これら一連の近代化批判の論に対して、どのように考えておられるでしょうか。
2  デルボラフ ご発言のなかにあったシュペングラーの画期的な著書『西洋の没落』にしたがえば、文化は植物のようにおのおの特質ある土壌から発育すると同時に、その生長する姿のなかに各民族の遺伝学的遺産を取り入れていきます。したがって、文化という植物は(あるいはまたシュペングラーの言葉を借りていえば、「文化の魂」は)、その民族固有の特質をかなり孤立的に形成する面と、他との接触のなかで形成する面とがあるため、異質なものと類似するものとを多かれ少なかれもっています。
 さて、西洋の民族と東洋の民族は空間的に非常に離れて生活してきました。とくに西洋人にとって日本との接触がはじまったのは、中世にも多少の接触はあったとしても、日本の鎖国のためかなり遅くなってからのことでした。中世については、かならずしも無知、蒙昧の時代として非難できないことはご指摘のとおりです。また、東洋と西洋では中世の発展史にかなりの相違がありますが、居住様式、人口の構成、文化の育成等の、今日でいう前近代社会的特色の面で、何点か類似するものがあります。
 十六世紀になって西洋が日本を感化しようとした第一歩は、キリスト教化の試みでした。この企ては逆に弾圧されるかたちとなり、全体として微々たる効果しかあげませんでした。こんなことをもちだすのも、西洋化がかならずしも近代化とかさなりあうものではない、ということを明確にしておきたいからです。ご指摘のように、近代化はたしかにヨーロッパの土壌で育ちましたが、東洋の文化が西洋的近代化を受容して変遷したのと同様に、西洋で継承された文化も構造的に変遷しているのです。
3  池田 そのとおりです。十六世紀に日本がふれたヨーロッパは、スペイン、ポルトガルでしたが、その後、ヨーロッパではオランダ、イギリスが台頭し、とくにイギリスでなしとげられた産業革命は、ヨーロッパを十五、六世紀のそれとはまったく異なったものにしていました。
 十六世紀にヨーロッパから日本が受けいれたものの一つに鉄砲があり、織田信長が戦国乱世に勝利をおさめたのは、この鉄砲を戦力の中心として取り入れたことによっています。それに対し、徳川時代の終わりの十九世紀に日本が知ったヨーロッパは、産業革命によって強大な生産力を有する近代国家でした。その三百年のあいだにヨーロッパは見ちがえるほど変わっていました。
 しかし、そこには一貫しているものもありました。近代国家は、ヨーロッパの伝統的な合理性がすべてに貫徹されている軍事、政治、経済等の複合体としての国家だったわけです。したがって、十九世紀なかばのヨーロッパ文明との接触の衝撃は、たんに武器だけにとどまらず、あらゆる生活様式、社会のあり方にまでおよぶものでした。

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