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日蓮大聖人・池田大作

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3 教育と学問  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 日本が近代化にあたって、もっとも理想の手本としたのはドイツで、国家体制そのものまでドイツを範としたことはすでに述べたとおりですが、学問――とくに自然科学――についても、もっとも大きな影響をドイツから受けました。
 一八七七年(明治十年)、東京大学が設立されたとき、四人のドイツ人教師が来日して、医学、金石学、地質学、採鉱学、冶金学を教えております。そして、八六年に公布された帝国大学令もプロシャのそれにならったもので、以後の日本の教育機構の骨格となりました。
 一方、多くの青年が学問の習得のため、留学生としてヨーロッパヘ派遣されました。一八七〇年の第一回留学生としてドイツに渡った長井長義博士は、ベルリン大学のホフマン教授に師事して十三年間ドイツに滞在し、帰国後は東京大学で研究と教育に生涯をささげ、日本の薬学の父といわれました。
 理論物理学の分野では、デンマークのコペンハーゲン理論物理学研究所で、ドイツ人物理学者、W・ハイゼンベルク等と共同研究した仁科芳雄博士がいます。この人のもとから、湯川秀樹博士など優れた物理学者が輩出しており、日本の物理学の父といわれています。
 その他、植物学の木原均博士、細菌学の北里柴三郎博士、志賀潔博士、秦佐八郎博士等々、多くの優秀な人々が、いずれもドイツの学問の恩恵のもとに研究成果をあげ、日本での学問興隆に貢献しました。
 こうした多くの事例を見るとき、日本がドイツから受けたものが、いかに大きいかという感慨を禁じえません。
2  デルボラフ 日独両国の文化関係が強化されていったのは、一八七〇年代の初期からですが、その当初から精神的親近性が偉大な効力を発揮したわけです。
 あなたのお話のなかで、ドイツ人教師が日本の大学へ招聘され、また多くの学生が日本の学問興隆のためにドイツヘ留学したことを指摘されましたが、そうした人々のなかでも青木周蔵のことを補足させていただきます。彼はベルリンに公使として派遣され、のちに外務大臣になった人です。一八六九年にまず留学生としてベルリンヘ渡り、ドイツ人女性と結婚したことにより、以後ドイツとの運命的結びつきがはじまったしだいです。
 またさらに、医者であり小説家であった森鴎外、哲学者の井上哲次郎がいます。井上は八四年から九〇年まで、ベルリン・フンボルト大学の東洋学部の日本語講師をつとめました。
 当時のウィーン、プラハおよびチューリヒについても、同様のことがあてはまるでしょう。それから、玉井喜作という人は、九八年に「ヨーロッパ在住の一日本人の最初の月刊誌」という副題のついた雑誌『東亜』を発行しました。
3  池田 森鴎外はゲーテの『ファウスト』の翻訳やドイツでの生活から素材をとった文学作品を発表して、日本の青年たちのドイツへの憧れをかきたてました。他方、森鴎外とならび称される文豪である夏目漱石はイギリスに留学して、イギリス滞在中の生活に素材をとった文学作品によって、イギリスへの憧憬をかりたてました。
 鴎外や漱石は学問自体の発展に直接寄与したというより、こうした文学作品を通じてヨーロッパの文化を人々に親しみやすいものにし、青年たちの情熱をかきたてることによって、間接的に学問興隆に貢献したといえるでしょう。

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