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日蓮大聖人・池田大作

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1 日独両国の共通点  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 過去の歴史をふりかえってみるとき、日本とドイツは、きわめて多くの点で共通した経過をたどっていますし、そのことからも、いわゆる“近代化”というものがもたらした結果を検討するのに、この両国の共通点や相違点を考察してみることは、大きな意義があると私は考えます。
 日本とドイツとの交流の歴史そのものは、比較的浅いわけですが、近代日本の形成にあたってもっとも大きい影響をおよぼしたのは、ドイツでした。
 日本がその歴史の過程において、どのような国から、どんな影響を受けたかを概観してみますと、先史時代においては、おそらく南太平洋の諸民族が日本民族の基盤を形成したと思われます。古代においては、いうまでもなく、朝鮮半島の国々と中国があります。衣食住の基本的文化をはじめとして、文字・宗教・道徳観、さらに都市の形態から国家機構にいたるまで、その基礎的なものを、日本は、古代およびその後、千数百年にわたって中国大陸と朝鮮半島から学んでまいりました。
 ヨーロッパ文明の影響がおよびはじめたのは十六世紀からです。最初はスペイン人やポルトガル人がやってきました。ギヤマンと呼ばれたガラス器や鉄砲、タバコなどの嗜好品、カボチャなどの食用植物、また菓子などがもたらされました。キリスト教信仰も入ってきました。しかし、徳川時代になって、鎖国政策がとられてからは、中国とオランダだけが通商を許され、出入りの港も長崎だけにかぎられていました。
 徳川時代の末期に、アメリカからペリー提督がやってきて(一八五三年六月)、日本はその強い要求のまえにやむなく開国し、以後、国内の分裂抗争が激化するにつれて、ある勢力はイギリスと組み、ある勢力はフランスと組むなどして、近代兵器を手に入れて優勢をはかろうとしました。
 結果的には、徳川幕府は政権を朝廷にかえし、一八六八年、天皇を中心とする国家体制の抜本的刷新がはじめられたわけです。この明治政府が欧米の強国に対抗できる近代国家を確立するにさいし、どの国を手本とするかについて、種々の検討がなされましたが、一八七一年にプロイセンを盟主として成立したばかりのドイツ帝国を、範とすることに決まったのです。
 明治政府の大立者であった伊藤博文自身がドイツヘ行き、その実情を見聞したうえで、ドイツ帝国憲法を範として、一八八九年、憲法がつくられました。議会、内閣、司法機関、官僚機構から教育機構にいたるまで、当時のドイツのそれを模倣したことはいうまでもありません。法学、医学などの諸学問も、ドイツが師であり、明治・大正・昭和初期にいたるまで、官費による留学といえば、ほとんどがドイツ留学でした。
2  デルボラフ たしかに、おっしゃるように日本が国際社会へ向けて門戸を開放した当時は、ドイツと密接な連携がたもたれた時期でした。当時、日本は、ドイツからとくに憲法、近代日本の軍隊組織や警察機構等の基礎について、多くのことを取り入れました。ドイツの大学教師は日本の大学へ招聘され、建築家は東京のおもな公共建築物を手がけたりしました。こうした両国の関係は、その歴史的経過をふまえるとともに、西洋で日本への関心が深まっていったいくつかの時期を取り出してみると、より明確になると思います。
 十五、六世紀には、中央ヨーロッパと日本の関係は、おもに第三国を仲介にしていました。当時、中国や日本といえば、とくにヨーロッパの王侯貴族階級のあいだでは、城館をエキゾチックに装飾するための一種の「骨董品陳列室」とみなされていました。その後まもなく、旅行熱と未知の国々に対する興味によって第二の橋が架けられることになるのですが、なかでも極東の中国と日本は特別な役割を果たしました。
 当時の旅行記から、一部は伝説的な、一部は歴史学的にまじめに受け取るべき記述が生まれ育ってきたのです。伝説的描写はたぶんに文明批評的傾向と結びついており、たとえばアルジャン侯やオリバー・ゴールドスミスの『中国人の手紙』(一七六二年刊)といったものは、モンテスキューの書いた『ペルシャ人の手紙』(一七二一年刊)を想いおこさせます。
 これは、ヨーロッパを旅行した一人の中国人が、ヨーロッパの不備な状態を非難するというかたちをとりながら、極東を当時の啓蒙主義的理念のもとに理想化してえがいたものです。中国と日本は、ヨーロッパ人が大失態を演じる場所であったり、ときにはまた逆にヨーロッパ的弊害の好対照としてえがかれています。
 エンゲルベルト・ケンペルという人は最初の江戸見聞記のなかで、オランダ人が将軍謁見の場面で演じた「猿芝居」をちゃかしています。あなたが言われたとおり、プロテスタントのオランダ人は長崎に商館を維持していましたが、それは屈辱的な譲歩にあまんじながら権力者から獲得した許可でした。日本のカトリック信者は、その信仰をつらぬこうとして一六三七、八年に反乱――島原の乱――をおこし、悲惨な最期をとげました。
 日本との最初の出あいを体験した人々のなかには、かの悪名高いモーリッツ・ベニョフスキー男爵もいます。彼は最初、マリア・テレジア女帝の公使をつとめ、のちにポーランド人としての自覚を新たにカムチャツカ半島にのがれたと語っていますが、これは彼一流のつくり話で、日本人にずいぶん不愉快な思いをさせました。――この奇怪な人物については、コッツェブーの『カムチャツカの謀叛』という作品に書きとどめられています。この男爵が長崎のオランダ商館長にあてた手紙が、日本人にとってドイツ語との最初の出あいではなかったかと思います。
 さらに重要なのは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、ドイツ商人のアウグスト・リュードルフ、ペリー提督のひきいる艦隊に同行した優秀なデザイン画家のヴィルヘルム・ハイネといった人たちの感動的な日本体験で、これらは注目すべき日本紹介となっています。
 フォン・シーボルトは、地理および地形学の分野で偉大な先鞭をつけたドイツ人カール・リッターやアレクサンダー・フォン・フンボルトらの流れをくんで、日本の地形の把握につとめ、この日本に関する高価な作品に対しては、ヨーロッパ中でたくさんの予約購読希望が殺到しました。このような文化面での東洋熱の先駆けとして、ゲーテの『西東詩集』(一八一九年刊)なども生まれました。
3  池田 この時期のドイツは、純粋に学問的あるいは文化的に、アジアや広く他文明に対する好奇心を燃やしていたといえますね。もちろん、十八世紀から十九世紀はじめのこの時代は、ヨーロッパ全般にロマン主義が主潮をなしていて、普遍的な人類文明という観念が底流にあり、異なった文化に対し、一種の憧れをもっていたのだと思います。
 しかし、それにしても、当時のドイツの知識人、文化人にとっては、中国や日本の文物に直接ふれることは、むずかしかったのではないでしょうか。

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