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日蓮大聖人・池田大作

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後記 「池田大作全集」刊行委員会

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  日蓮大聖人は「諌暁八幡抄」に、こう仰せられている。
 「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり
 インドより発した仏教東漸の流れ、そして日本から通い始めた仏法西遷の流れが端的に言い表されている。日蓮大聖人の仏法は、太陽であり、時代を覆う苦悩の闇を払い、人類の現在と未来を照らす希望の光源である。
 今、SGI(創価学会インタナショナル)の行動と実践によって、インドはもとより世界百十五カ国・地域に、仏法を奉じて、自身の成長と和楽の家族、隣人の幸福と一国の繁栄を願って尽力する地涌の人間群像が広がりSGIのメンバーが足を踏み入れなかった国が地球上にないほどまでに、仏法の慈光が遍く注がれつつある。これは、仏法の歴史を画す壮挙といっていいが、その先頭に立って、日蓮大聖人が身をもって教えられた「立正安国」の世界の創出、すなわち人類の幸福と世界平和の地平を切り開いてきたのが、著者である池田名誉会長であることはよく知られるところである。
 本書には、その著者の仏教史に関する対話『私の釈尊観』『私の仏教観』『続私の仏教観』の三部が収められている。当初から三部作として構想されていたものであり、対話者は、いずれも少壮の仏教研究者であり、実践者である野崎勲(三部とも)、松本和夫(第二・三部)の両氏である。
 ヒマラヤの雪山から流れ出したガンジスの清流が、大河となって大地を潤し、インド洋に注ぐように、「源遠ければ流長し」(天台大師の『法華文句』巻三下の文)である。世界広布の進展を眼前にすればするほど、そして、その洋々たる未来を展望すればするほど、全人類のための世界宗教としての卓越性を、仏教は創始の当初からその内にはらんでいたのだとの思いを深くせざるをえない。
 この人類を潤す潮流を、時とともにいよいよ悠久のものとしていくためにも、その源流を知ることは大きな意義があろう。釈尊の生涯と、インド・中国における仏教の歴史を概観することによって、日蓮大聖人の仏法の位置づけと、現在のわれわれの置かれている立場が、より鮮明に見えてくるだろう。いわんや、釈尊や仏教に関する学問的な研究も近年、大いに進みつつある。二千数百年前のインドの状況をはじめとして、まだまだ類推に頼らざるをえない点が多いとはいえ、近年の学問的研究の成果に十分に学びつつ、現実に仏法を広めてきた実践者ならではのまなざしから人間主義の照射を加えたところに、本書を貫くバックボーンがあるといってよい。
2  さて、『私の釈尊観』は、昭和四十七年(一九七二年)一月から同年九月まで、九回にわたって月刊誌「大白蓮華」に連載されたものをまとめて、翌年(一九七三年)一月に株式会社文義春秋から刊行されたものである。仏教の創始者である釈迦牟尼(釈尊)にスポットを当て、その人となりや家族の状況、当時の社会情勢や宗教界の実情、さらには弟子群像や教団運営の実際等々、人間・釈尊の人物像の形成に一つの視角を呈示し、あわせて仏教創始時代の実像に迫ろうとする試みである。
 一例を挙げてみよう。涅槃を前にした釈尊が、弟子アーナンダ(阿難)に語った言葉を巡って、著者は述べる。「自分の説いた法以外に、自分に何かを求めても無駄である。あとは、その法をもとに進んでいけばよいのである」「ここでは、釈尊は教団の指導者であることを否定して、自分もまた、ともに法を求める人びとのなかの一人であったことを宣言している」と。ここに、弟子といえども、同じ思想と目的のもとに集まった同志であり、法友であるとして遇した人間・釈尊の面目が躍如としており、万人を仏たらしめんとする人間主義の仏教の真髄が浮き彫りにされていよう。
3  『私の仏教観』は、昭和四十八年(一九七三年)五月から翌年(一九七四年)四月まで、十一回にわたって月刊誌「第三文明」に掲載されたものがまとめられて、その年の四月に第三文明社から刊行されたものである。釈尊入滅後のインドにおける仏教一千年の消長に焦点が当てられており、主として大乗仏教興起の経緯が述べられている。
 歴史は繰り返すというが、大乗仏教が興起していった経緯を見ると、現在の出家教団としての宗門の体たらくは、まことに古くて新しい問題なのだということがよくわかる。詳しくは本書を開いていただくとして、釈尊入滅後百年から二百年ごろ、仏教教団のなかに「上座部」と「大衆部」が形成された。前者は長老・出家グループで戒律を重視するあまり、教条主義的で権威主義的・閉鎖的性格が強く、教理に関する理論研究を中心とする自利行を主体とする色彩が強かった。後者は在家をふくんだ幅広い信徒中心のグループで、「上座部」の行き方は釈尊の真意に反するとして、釈尊の原点に還ることを主張するとともに、化他行を重視する集団であった。そして、「上座部」がますます社会から遊離し、孤立化の道をたどる結果になっていったのに対し、戒律中心の閉鎖的な教団の殻を破ろうとする「大衆部」を母体にして、後の大乗仏教が興起してくるのである。
 仏教は本来、民衆のものであり、その精神に立ち返って民衆の救済を図ろうとしたルネサンス運動の先例を知る意味は、今日、非常に大きなものがあろう。

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