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日蓮大聖人・池田大作

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10 三武一宗の難と民衆

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  戦時下の仏教弾圧
 野崎 この対話は、第三部に入ってからこれまで、インドから中国に仏教が渡された西暦紀元前後に始まり、妙楽大師が天台教学を再興させた八世紀まで、およそ七百年から八百年間におよぶ中国仏教の歴史を、おもに『法華経』の流布に焦点をあててたどってまいりました。
 そこで今度は、やや視点を変えて、一般に「三武一宗の難」と呼ばれる受難の歴史を取り上げ、そのなかから仏法が民衆の生命の大地に根づいていった過程を掘り起こしてみたい。また、そのことを通して、中国古来の伝統思想と仏教との関係、あるいは王法と仏法との関係を検討しておきたいと思います。
 松本 いわゆる「三武一宗の難」については、たとえば塚本善隆氏の詳しい研究がありますので、それらを参照しつつ、まず史的事実を紹介しながら話を進めます。
 最初に「三武」ですが、これは北魏・太武帝の廃仏、北周・武帝の廃仏、それに唐・武宗の仏教大淘汰のことで、仏教徒が「三武の法難」と呼んでいるものですね。
 池田 むろん、それ以外にも仏教徒は、数多くの法難を受けているが、国家的規模において中国の仏教者が弾圧を受けたのは、この三人の皇帝の時代において最も顕著であったという意味ですね。
 ふつう中国の皇帝は、その政治や人柄の特質をとらえて死後におくりなされるわけだが、この三人の場合、いずれも武断的な皇帝であったことを示している。
 つまり、文治的な面よりも、武力をもって周辺諸国の征服に向かう側面が強かった。
 これは中国の皇帝のみにかぎらず、一般に戦時の支配者というものは外来思想を排斥し、その国の伝統思想を重んじることによって、民族意識を喚起しようとするものだ。それによって国内を戦時体制にもっていとうとする。そうした傾向というか、時代背景をよく知っておく必要がありますね。
 松本 いま問題となっている「三武の法難」においても、その弾圧体制の強化というものは、いずれも戦時体制の進行と並行して進められています。
 たとえば、北魏第三代の太武帝の時代、西暦四二五年に険西地方(長安周辺)を攻めましたが、その年に帝都に道教の寺、すなわち天師道壇が建てられています。続いて四二九年に蠕々ぜんぜん族を討伐した太武帝は、四三九年には甘粛地方を攻略し、次々に侵略の兵を進めて、華北統一の野望を果たそうとしていました。その間、四三一年には「州・鎮にととごとく道壇を立て、各々に修道者一百人を置け」との布告を出して、いわば道教を国教化していくわけです。
 野崎 そうした動きと呼応して、四三八年には五十歳以下の沙門を還俗させる勅が出されました。さらに太平真君七年(四四六年)正月、太武帝は険西地方に起きた反乱を討伐するために長安へ兵を進め、同年の三月、ついに廃仏を宣する詔を出します。
 それによると――今より以後、仏像を造る者は一門すべてが誅殺され、地方長官たる者は寺塔、仏像、胡経を、ことごとく撃破し焚焼ふんしょうせよ、さらに沙門は少長を問わず、ことごとく之を坑殺せよ――という徹底したものですね。
 池田 当時の記録をみても、実際に軍隊が派遣されて寺を焼き、掠奪し、僧尼はことごとく還俗させられ、もし逃げ隠れたりする者があれば、これを追いかけ逮捕し、さらし首にしたといわれる。「一境の内、また沙門なし」とあるように、きわめて厳しい廃仏政策が、徹底して断行されたようですね。その結果、北説においては国中に一つの寺もなく、一人の僧もみられなかったという。
 では、なぜこれほど徹底した廃仏政策が進められたかというと、一つは支配者の側からすれば、仏教の出家者が″兵役のがれ″の非生産者集団として映ったのであろう。いまの例でいえば、まず五十歳以下の沙門が還俗を命じられ、壮丁に戻されていることからしても、ほぼ察しがつく。つまり戦時においては、経文を読み、異国の教えを説く仏教者というものが″高等遊民″のようにみられたのではないだろうか。
 野崎 そうですね。それが最も顕著なのは「三武の法難」のうち、第二の北周・武帝の廃仏のように思います。
 西暦五六〇年に十八歳で即位した武帝は、江北を二分する北斉を討伐しようとして、早くから富国強兵の政策を進めていました。武帝みずから先頭に立って武技を練り、着々と戦備も整え、士気の高揚をはかっています。
 そうした、なかに建徳三年(五七四年)五月十七日、仏・道二教(仏教と道教)を倶に廃するという勅が出されました。記録によると、数百年来の歴史をもつ寺院は尽く地を掃い、仏像は溶かされ、経典は焼かれ、三百万の僧侶が還俗させられ、軍民に復帰したという。そして翌年七月、武帝は大将軍以下を召集して北斉討伐を告げ、宣戦の詔を発して大挙、北斉に雪崩れ込んだわけです。
 松本 このときの廃仏は、いま話にあったように、単に仏教だけではなく道教も含めて、すべての宗教を廃棄しているところに特徴がありますね。
 池田 銅で作られた仏像を集めて、新銭鋳造の材料にしたということだが、これは戦時中の日本でも、全国の寺々から梵鐘を集めて兵器の生産に役立てようとしたのと、相通ずるところがあるね。すなわち、戦争に勝つためには一国の総力を挙げて臨もうとした、いわば臨戦体制の一環として、宗教者を弾圧して還俗させ、挙国一致の非常時体制を布こうとしたものと思われる。
 野崎 北周・武帝の廃仏は、それのみにとどまらず、翌五七六年末に敵を打ち破り、翌年(五七七年)正月に北斉の都であるぎょう(今の河北省臨漳りんしょう)に入城すると、今度は北斉の全仏教界に教団全廃の厳命を下し、ここでも廃仏を断行しています。
 当時、いわゆる魏晋南北朝時代の後期にあたりますが、江南仏教界では天台大師・智顗が活躍し、江北では北斉において最も仏教が盛大をきわめていました。それを全廃したわけですから、この北周・武帝の廃仏によって、北中国一帯からはまったく仏教は影を消してしまったといわれます。
2  廃仏政策の背景
 池田 中国における仏教弾圧の歴史をみて気がつくことは、第二に儒教や道教など、伝統思想との角逐かくちくの結果として、廃仏がおこなわれたということも重要な問題となってくる。たとえば、いずれの場合でも、必ず道教や儒家の有力者が皇帝の側近となって″入れ知恵″を授け、廃仏政策を断行させていった歴史の事実がある。
 そこで、このことは政治と宗教との関係を考える場合でも、非常に重要な問題なので、次にそうした観点から「三武一宗の難」をみていったらどうだろう。むろん、それは、すべて同じパターンをとるとは限らないだろうが……。
 松本 たしかに、中国に入った仏教の歴史は、儒教や道教などの伝統思想と、あるときは対立し、あるときは共存するという事態を繰り返す歴史であったともいえますね。むろん長期的には、概して儒・仏・道の三教は共存関係にあったわけですが、たまたま絶対的権力をもっ皇帝が儒教や道教を偏信するような場合、まず外来思想である仏教が弾圧され、徹底的な廃仏政策がとられます。
 野崎 そうした関係を「三武の法難」についてみると、まず北魏・太武帝は熱心な道教信者ですね。さきほどの話にもあったように、帝都に天師道壇を築き、全国各行政区に官立の道教寺院を建て、道教を国教化していったわけです。
 ただし太武帝は、初めは仏教を容認して、即位したばかりのころは、自ら四月八日の「行像」にも出御し、散華をおこなっているほどです。それは当時、北中国一帯は仏教の黄金時代といわれるほどの隆盛をきわめ、遊牧民族の出である太武帝も、民
 衆の信仰心を認めざるをえなかったからだと思われます。
 問題は、その太武帝の側近に極端な仏教ぎらいである漢人学者の崔浩さいこうがいて、やがて宰相となり、その手引きで道士・冠謙之こうけんしなる者が帝師となったときから始まります。二人は太武帝を道教の信奉者にさせ、さまざまな画策によって廃仏政治を施行させているわけです。
 その冠謙之という道士は、かなりいかがわしい人物であったようだ。なにしろ洞窟で修行中、しばしば天神の宣託を感得し、道書六十巻を授けられたという。いささかマユツバ的な話だが、それを利用した崔浩という人物も曲者ですね。太武帝も最初は半信半疑であったというが、何回となく執勘に崔浩から推薦されると、いつしか信用せざるをえないように変わっていったのでしょう。
 ともかく、その結果として廃仏があり、北魏も一時は強大になったが、結末は崔浩も処刑され、悲惨な生涯を閉じている。権力の絶頂にあるときは、いつしか魔が忍び入ってきたのも知らずに、おかしな人物を登用し、やがて身を滅ぼす。これは、歴史の教訓として知っておく必要があるね。
 松本 その点、次の北周・武帝の廃仏においても、蜀(四川省)からきた衛元嵩えいげんすうなる人物が重要な役割を果たしています。
 もともと北周は、鮮卑せんぴ族の字文氏が長安に建てた国ですが、国号を「周」としているように、その昔、長安に都した周の文王、武王の仁政にならい、儒教を根本とした政治を理想としていました。武帝も即位後、儒学者を政治顧問に迎え、儒家の礼典をもって国を治めようとしています。
 たまたま五六七年、武帝が二十五歳のときに、衛元嵩なる奇矯な言動の僧が上奏文を奉った。それは、従来のすべての寺や僧は真の仏教ではないから、これを全廃し、国家を寺とする一つの平延大寺を建てるべきである、というものです。なかには「周皇帝こそ即ち如来である」などとあって、いかにも野心ありそうな人物ですね。
 池田 ただし、そうした上奏文が後になって利用されたということは、当時の仏教界の側にも責任がなかったとはいえない。
 というのは、度を越えた大寺院を建て、僧官を通じて栄達し、満足に仏典も読誦できない僧尼も大勢いて、しかも教団が治外法権になっていたようだ。また最初、武帝は儒・仏・道の三教を協和させるために、三教の学者を集めて会談をさせたが、なかでも仏僧と道士とは互いに反目し、憎悪しあったりしたので、それが後年になって仏・道二教を廃棄する原因ともなったと考えられている。
 しかし、単にそれだけであれば、あれほど苛酷な廃仏政策の根拠として、まだ決定的要因とはならなかったかもしれない。やはり、さきほども問題となった国家臨戦体制のための整備が進められ、やがて衛元嵩の上奏文を利用する道士の張賓ちょうひんなる人物が登場して、さかんに政治的工作をおこなった結果、歴史的な廃仏の嵐が吹き荒れるようになったのでしょう。
 野崎 第三の唐・武宗の場合には、そうしたさまざまな要素がさらに加重されて、仏教の大淘汰と呼ばれるほどの深刻な打撃をうけています。もっとも、すでに唐代も末期となると、重なる戦乱で仏教の側にもふたたび立ち上がる力が弱まっていたともいえますが……。
 松本 この「会昌の難」とも呼ばれる廃仏は、西暦八四〇年に即位した武宗によって着々と進められ、会昌五年(八四五年)八月には仏教淘汰の詔が出されて、壊滅に近い大がかりな廃仏がおこなわれました。それも一挙に弾圧されたのではなく、いわば計画的に順次進められたところに特徴があるようです。
 武宗は即位以前から道教を重んじていたわけですが、これは、前にも話題になったように、もと唐室の祖は李氏の出であり、道教の教祖と仰がれる老子の姓も「李」であったのに由来するといわれます。
 ところが、その唐祖の教えである道教よりも、仏教のほうが隆盛をきわめていたことから、武宗は最初、個人的な信仰面で仏教を排斥し、やがて即位してからは強大な政治権力をもって、国家的規模の廃仏政策にひろげていったわけです。
 池田 この場合にも、やはり趙帰真ちょうきしんなる道士が宮中に入って暗躍し、党派争いによって宰相の座を得た李徳裕と組んで、廃仏政策を進めていますね。禁中に道教の修行道場が設けられて、斎会や修法がなされたという。また内裏では、仏僧と道士の教義問答もおこなわれたようだが、すでに道教の熱心な信者である武宗の前では、初めから仏教に勝ち目はなかったといってよい。
 さらに唐・武宗の時代には、しばしばウイグル族が北方から侵入し、まさに戦時体制にあったことも忘れてはならない。ですから、そうした背景のもとに、八四二年には僧尼整理令が出され、銭物、米穀、団地、庄園を所有する僧尼は官に納入を命ぜられている。また翌年には、新たに僧尼となった者はすべて捕らえられ、三百余人が長安に送られて処刑された、とある。最終的には銅仏などの銅製品は新銭に鋳造され、鉄仏は農機具に、金・銀・真鍮もすべて国庫に納められたというから、まさしく戦時経済だね。
 野崎 ただ仏教徒にとって、せめてもの救いは、その武宗が短命であったことのようです。廃仏の詔が出された翌年(八四六年)三月、武宗は三十三歳で崩御し、つづいて即位した宣宗によって、直ちに仏教復興の事業が着手されています。
 ちなみに、道士の劉玄靖、趙帰真ら十二人は、武宗に廃仏をおこなわせた罪で誅殺されたといわれます。
 松本 最後の「一宗の法難」というのは、西暦九五五年に五代の後周・世宗せいそうが仏教に加えたものですが、これは政治権力をもって教団を粛正し、整理統合をはかったものとされています。「三武の法難」にみられたような、徹底した″廃仏″ではなく、教団を国家的統制のもとにおくことに目的があったようです。
 野崎 ただ問題は、私度僧を認めず、戒壇も両京と大名府、京兆府、青州におくだけで、すべて出家受戒をする者は官庁の監督下にあったことです。また夜間の法会は禁止され、新たな寺院の創建も一切禁じられました。さらに無名額の寺は廃せられ、あるいは私寺は有額の寺に併合させられたりしています。
 池田 要するに仏教が、すべて国家的統制のもとに服せられたということですね。それを「法難」の一つに挙げているのは、仏教者にとっては活動の手足を縛られたようにも感じられたからにちがいない。仏法が「王法」の枠に組み込まれた姿といってよい。
 しかし、もはやこのころになると、総じて中国の仏教は衰退の方向にあったとも思える。世法に流され、寺院や教団も財産を隠したり、税役をのがれるための逃避場となり、真実の求道心は失われつつあったようだ。したがって、ある意味では自ら招いた事態ともいえるのではないだろうか。
 野崎 詳しいことはわかりませんが、それ以前の「三武の法難」のときには、必ず難の後に仏教が復興されていますね。また廃仏の真っ最中でも、皇帝に諌暁する僧や、数多くの殉教者も現れています。とくに北周・武帝の廃仏に際しては、仏教者は敢然と法難に挑戦していった事実が認められていますね。
 そうした姿と、この「一宗の法難」とを比較しても、やはり仏教者の側に主体的な問題があるようです。
3  :中国仏教の特質
 松本 弾圧に抵抗した仏教者は、第一回の北魏・太武帝の廃仏の際にもいましたが、これなどをみますと、中国仏教徒の根強さのようなものが感じられますね。
 たとえば四五二年に太武帝が崩じると、十月に即位した北魏・文成帝は、その二カ月後に早くも仏教復興の詔を発しています。それは廃仏期間中、七年間にわたって民間に潜伏してきた仏教徒が、直ちに熱狂的な復興運動を巻き起こした結果とみられます。北魏末には僧尼大衆二百万、仏寺三万有余といわれるほどの大教団に復興しました。
 池田 一般的にも「雨降って地固まる」などといわれるが、この北魏・太武帝による廃仏は、むしろ仏教者の覚醒を促し、仏教の隆盛をもたらした側面も見落とせない、ということですね。実際、それ以前には堕落し、腐敗した面もあった教団が、弾圧をうけたことによって立ち直り、かえって後の発展のための戒めとした姿もみられる。
 野崎 興味ぶかいことは、仏教復興の詔が下されると、それ以後、北魏においては仏像の彫刻が盛んになります。それも、大同(山西省)雲崗うんこうの大石窟として今日にまで伝えられているように、かなり大がかりな事業として進められています。これは、沙門統に任ぜられた曇曜どんようが、文成帝に奏上して開鑿かいさくの許可を得、いわば国家的事業として始めたものです。おそらく彼の意識の底には、もし将来、ふたたび廃仏政策がとられるようなことがあっても、巨大な石窟に仏像を刻んでおけば、やがて民衆が仏縁を結ぶことができるとの考えもあったのではないでしょうか。
 池田 たしかに、無形のものよりも、有形のものとして後世に遺そうとした意識のあらわれかもしれない。ということは、それほど太武帝の廃仏が徹底したものであったために、ことによると中国の各地から仏教が根絶されてしまうような危機を、仏教者が痛感したことも考えられる。現に、このころから中国では「末法思想」が現れていますね。
 松本 文化史的には、すでに敦煌(甘粛省)の石窟も造られていますし、西域地方の仏教芸術の影響を受けて、雲崗の石窟、続いて孝文帝の時代に龍門(江南省)の石窟が掘られたといわれています。しかし、より根本的な動機としては、さきほどから話題になってきたように、仏教者の主体的な意識の転換というか、廃仏による覚醒が大きな要因であったと思われます。
 また、いま野崎さんから指摘もあったように、第二回の北周・武帝の廃仏後にも、武帝の死後直ちに復興がなされ、五八一年に惰が建てられると、仏・道二教復興の詔が発せられています。とくに惰の文帝は熱心な信仰者となって、江南の天台教学を振興し、また華北の仏教界も再興させました。いわゆる隋・唐の仏教全盛時代は、ある意味では北周・武帝の廃仏という法難を発条として、そこから仏教界の革新の機運が盛り上がり、実現したともいえるのではないでしょうか。
 野崎 私も、そのように思います。というのは、後周・世宗の大淘汰と前の「三武の難」とを比較したときに、そこに仏教者の難に対する姿勢の違いがみられると感じたのも、まさにその一点にかかっているからです。
 北方の黄河流域を後周が支配していたころ、江南では呉越や南唐によって仏教保護政策がとられています。たとえば九五五年には、呉越では八万四千宝塔が鋳造されたりしていますが、同じ年に南唐は後周によって攻め込まれ、ここでも仏教淘汰政策がとられました。
 すでに十世紀ごろの仏教は、政治権力の保護にたよって、ようやく生き延びていた面と、打ち続く戦乱に巻き込まれてしまった弱さもみられます。かっての「三武の廃仏」といった法難をはね返すような、仏教復興の意気ごみは失われたようにも感じられますが……。

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