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日蓮大聖人・池田大作

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天台智顗と三大部

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  法華経研究の碩学
 松本 中国仏教史上、最も『法華経』と縁の深かった智顗、すなわち天台大師の法華経観について、今回は考察を加えてみたいと思います。
 池田 天台大師といえば、単に中国仏教界のみならず、インド・中国・日本の三国をつうじて『法華経』の研究者として、歴史上この人物の右に出る者はいないといってよい。それほど深く、かつ幅広く『法華経』を中心に仏法を解明したということです。まさに天台大師は、その一生を『法華経』の偉大な哲理の解明のために捧げた人物といって過言ではないでしょう。
 野崎 たしかに、智顗に関する伝記などを読んでも、天台大師は『法華経』を哲学的、かつ論理的に解明し、体系化するために生まれてきた人物のように思えます。
 松本 それは、たとえば同時代の吉蔵の文書などに、天台大師が千年に一度出るか出ないかの人物であるといった捉え方をされていることにも、十分うかがえますね。
 池田 そうです。天台大師が『法華経』に関する未曾有の碩学であることは、在世当時から中国では常識になっていたわけです。
 それは今でも同じで、前回の訪中(一九七五年)の際、お会いした中国仏教協会の責任者である趙撲初ちょうぼくしょ氏も、天台学にはたいへんに造詣が深い。その趙氏によれば、解放後の中国でも、仏教僧によって盛んに「天台三大部」の研究がなされているということです。そして「法華経は経の中の王です」と明言しておりました。
 しかし、なにしろ天台大師は、千五百年近くもまえの人物ですから、現代からすれば、その生きた時代状況も違うし、歴史の主人公も現在では人民に移っている。彼の時代の仏教は、いわば貴族階級や知識人の独占物であったが、現代は民衆仏教の時代です。そこに、おなじ『法華経』を理解するうえにおいても、やはり違いがあることだけは忘れてはならない。
 ただ、大乗仏教の真髄である『法華経』の根本精神というのは、あくまで民衆が、等しく自己の胸中に持つ生命の究極の実相を覚知し、そこから無限の英知を開花させ、ほんとうの幸せな人生を切り開いていくところにある。このことは、昔も今も、そして将来いかなる時代になろうと、変わることのない普遍的な妥当性をもっている。その一点を踏みはずすことなく、ときに天台の三大部に学び、かつは仏法三千年の聖哲の『法華経』理解を参照しつつ、大乗仏教を現代に蘇生させていくことが大事になってくるのです。
 松本 そこでまず、智顗すなわち後の天台大師の生涯と『法華経』との関係性をみていきたいと思います。そのうえで、天台大師の法華経観といったものを、具体的に三大部に依りながら検討したらどうでしょう。
 野崎 天台大師と『法華経』との最初の出会いは、章安大師の『隋天台智者大師別伝』(以下『別伝』と略記)によれば、智顗七歳のときですね。彼は好んで寺院へ行きましたが、諸僧が『法華経』の普門品を口授したのを、たちまちにして覚えてしまった、と伝えられています。
 池田 それは天台大師が幼少のころから聡明であったことを示す一例として挙げられたものと思われるが、それだけでなく、なにか不思議な縁のようなものがあったことを示唆しているのでしょうね。
 というのは、この『法華経』観世音菩薩普門品第二十五は、方便品第二、安楽行品第十四、如来寿量品第十六などとともに、古くから法華四要品の一つとされ、大乗菩薩の衆生済度の妙用を説いたものです。インドから中国に仏教が渡されて以来、さまざまに経典を解釈する人はあらわれたけれども、『法華経』をもって衆生済度の旗印を掲げたのは、さきの南岳大師・慧思と、この天台大師・智顗が最も際立っていたといってよい。ですから、その後の智顗の生涯を決定づけたという意味でも、『法華経』普門品に説かれる観世音菩薩の精神が、幼少の彼の生命に働きかけ、共鳴するところがあったのではないだろうか。
 野崎 そうですね。後に天台大師が説いた三大部を読んでも、彼の思想体系というものは、単に仏典のみにとどまらず、かなり幅広い学問のうえに築かれていることがわかります。ということは、つまり彼は常に「世音を観ずる」という大乗菩薩の精神を体現して、よく一般社会の実相にも通じていたと思われます。
 松本 これは、智顗の晩年の話になりますが、後に惰の煬帝ようだいとなった楊広ようこうが智顗に傾倒を示したのも、天台大師が講壇的仏教の狭いカラに閉じこもるのでなく、社会に関しても広い見識をもち、仏法哲理のうえから発する英知をそなえていた事実を示していますね。
 池田 しかし、その問題は、いわゆる″政治と宗教″との関係上、天台大師が政治の世界に近づきすぎた、と批判する人もいますね。詳しくは別の機会に検討するとしても、ここでは、そういった誤解だけはただしておきたい。
 一つは、天台大師のほうから積極的に政治の世界に近づいていったのではない、ということです。世俗的な野心は楊広の側にこそあれ、智顗のほうには宗教上の権威を政治的に格付けることを望むような気持ちは、まったくなかったわけです。ですから、楊広の行き方が云々されるのは当然としても、天台大師が批判される筋合いは毛頭ない。
 二つは、後に『国清百録』に収められた文書などを見ても、智顗は相手が政治世界の権力者であっても、言うべきことは遠慮なしに言っています。江南仏教徒への不当な政治的圧迫に対しても、彼は仏教界を代表して諌めるべきは諌めている。そこに私は、天台大師の政治に対する毅然とした姿勢を読み取りたい、と思います。
 野崎 智顗のその姿勢は、すでに十八歳のときの出家の動機にもみられますね。
 池田 そうです。春秋の未来に富む青年智顗の前途には、そのとき、一般の名門貴族の子弟の例にならい、権勢をめざして士大夫の道に進むことも可能であった。しかし彼は、南北朝時代の戦乱につぐ戦乱の世を眼前に見て、武力による政治の世界の限界を知ったにちがいない。そこで彼は、あえて兄の反対も押し切って、政治よりも次元の高い宗教の世界に身を投ずることにしたのでしょう。
 その場合、他の出家者と違うのは、智顗は単に世の無常をはかなんで出家したのではないという点です。兄の陳鍼ちんしんとのやりとりとして記録されている文にも明らかなように、三世の仏法の真実の道を究めることによって、悲嘆と苦悩に沈む民衆を救済し、それによって父母や世間の恩に報いることが出家の目的であった。この「世間の恩に報いる」という姿勢こそ、まさに大乗菩薩の精神を体現した言葉ですね。
2  南岳慧思との出会い
 松本 さて、こうして出家した智顗は、まず湘州・果願寺の法緒について仏教の基本を学び、続いて慧曠えこうに師事している。そして二十歳になると具足戒を受け、いよいよ青年僧侶として立つわけです。
 野崎 智顗は十八歳にして出家し、二十三歳のときに南岳大師・慧思と出会うわけですが、その間の五年間の研鎖は、とくにたいへんなものだったようです。彼は衡州こうしゅうの大賢山におもむいて、『無量義経』『法華経』『普賢経』の、いわゆる「法華三部経」を二旬にわたって読誦し、三部経に精通したと伝えられているのが、ここで注目されますね。
 池田 そこで智顗は、ある一つの不動の確信を得たと考えられる。つまり『法華経』こそ一切経中の王であり、仏典の最高峰に位することを、彼なりに内証を得たということです。その意味で私は、賢山における『法華経』の読誦こそ、智顗の法華開悟の第一の大事として捉えたい。
 野崎 『別伝』によれば、このとき智顗は法華三部経を読誦し、方等懴法ほうどうせんぼうという行を修したところ、ある″勝相″を現出したとありますね。
 それは智顗が、さまざまな経像が紛雑した堂中に入って、口に『法華経』を誦しながら高座に在り、経文を正しく整理している光景を夢みた、ということですが……。しかもこの後、心神融浄にして、常の日よりも爽利なり」(大正五十巻191㌻)と記されています。
 池田 それは、後に天台大師が法華最第一の教相判釈を確立した事実を象徴するために、あとで付け加えられたエピソードともいわれているが、しかし何の根拠もなしに創作された物語ではないでしょう。やはり天台自身が、晩年になって半生を回顧し、つねに章安大師こと灌頂かんじょうなどの門人に語って聞かせていた話が伝えられたものでしょうね。
 松本 ただ問題は、一般には智顗の場合、大蘇山にいた南岳大師・慧思について初めて開悟することができた、とされていますが、その「大蘇開悟」と、この大賢山における勝相との関係を、どのように理解するか、ということがあると思います。
 池田 仏法では「自解仏乗」といって、究極の悟りは、自ら得る以外にないのです。ですから、天台大師における悟りの原点は、大賢山における勝相にあったでしょう。ただ、それはまだ確証のない、明確な形をとらない内心の悟りにとどまっていた。それに対して、明確な裏づけを与え、形を与えていくのが″師″との出会い――つまり、天台大師においては慧思への師事であったといえる。
 いわゆる「因果倶時」で、根本的な因が植えられれば、すでにそのなかに未来の果を含んでいるのです。大賢山において『法華経』とそ諸経中の王であるとの確信を得たという事実が″因″で、それは″果″としての大蘇山における開悟に直結していたのです。だから智顗が、大蘇山にいた慧思を訪ねたのも、その胸中に搬いた法華の種子を、薫発し、やがて開花させるための確認に赴いたと考えられます。
 野崎私 もそう思います。なぜなら、当時の江南の仏教界では、やはりまだ涅槃第一の教判が根強かったのに、智顗はわざわざ慧思に会うために戦乱の大陸を北上し、光州の大蘇山を訪れているからです。
 池田 そうです。この光州の地は、まさに『慧思伝』にもあるように、陳と斉との国境にあって、兵刃の交わる戦場のようなものであった。しかも慧思すなわち南岳大師は、すでに法華最第一の旗を掲げていたから、北方の仏教徒からは迫害され、南方の仏教界からも当然受け入れられやす、いわば名誉の孤立を余儀なくされていたわけです。その大蘇山の慧思を訪れるのは、よほどの決意と覚悟がなければできないことであった、と私は推測したいのです。
 野崎 すなわち智顗は、法華最第一を主張する慧思こそ、わが生涯の師とすべき人物であること、その師の下で『法華経』の真髄を究め、自身の胸中にある悟りの確証を得るために、大蘇山に向かったということですね。
 池田 おそらく智額は、それこそ生命を賭して悔いない覚悟で大蘇山に向かったにちがいない。といっても、彼には悲壮な暗い影はなかった。大賢山で得た不動の確信は、自己の担った未来への偉大な使命として、その生命に明るく輝く光と力を発現させていたにちがいない。おそらく智顗は、そうした若々しい希望にあふれた姿で、孤高の師・慧思に対面したものと思われる。このとき、慧思は四十六歳、智顗は二十三一歳、二人のあいだには二十三歳のひらきがあった。
 松本 なるほど、そのような背景があったからこそ、慧思は智顗を迎えて「昔日、霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして今、復た来る」(前出)と語ったわけですね。
 池田 慧思は会ったその瞬間から、智顗が法華の内証を得た人物であると判断したにちがいない。生命の奥底からの感応というか、確かな交流が瞬時に実感としであったはずです。そうでなければ、このような言葉を発するはずもない。
 また智顗が、このときまだ法華の内証を得ていなかったとすれば、南岳の言葉の意味を理解できなかっただろうし、すぐに忘れてしまったでしょう。二人の出会いの瞬間に、このような言葉が発せられ、しかも智顗は南岳大師を生涯の師として後々まで肝に銘じたということは、この言葉がけっして不自然でないような、深い宿縁が二人にあったからなのです。
3  大蘇開悟から天台山へ
 松本 智顗とその師・南岳大師との出会いの場面については、このくらいにして、次に大蘇山における法華開悟に移りたいと思います。
 野崎 大賢山での「法華三部経」の読誦による勝相を、天台大師の法華開悟への第一関門とすれば、いわゆる「大蘇開倍」というのは第二の大事ということになりますね。
 池田 そうです。その順序でいえば、。後の天台山華頂峯における「頭陀証悟ずだしょうご」といわれるものが、まさに第三の大事ということになる。一般には、この頭陀証悟がほんとうの智顗の悟達であるという説も通用しているが、しかし私は、むしろ「大蘇開悟」を重視したいのです。
 というのは、その理由は段々と明らかにしていきますが、結論だけさきに言えば、この大蘇山を下りる際に智顗は、南岳大師から付嘱を受けているからです。大蘇山における七年間の修行によって、すでに智顗は師と同位、いやそれ以上の境地に達していたことは間違いない。しかも、それは二人の最初の出会いの瞬間に、根本的には決定されていたとみてよい。それが、仏法の″師弟不二″と呼ばれる原理からして必然の出会いであって、慧思が「霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして」という″宿縁″の意味ですね。
 松本 それで慧思は、弱冠二十三歳の新来の弟子に対して、直ちに普賢道場を示し、自身の悟達したという「法華三昧」を教えているわけですね。
 池田 そうですね。当時の大蘇山には、慧思の下に少なくとも七十人以上の門人がいたと考えられているが、なかでも智顗に対する期待が大きかったさまがうかがわれます。
 野崎 『別伝』によれば、当時の慧思の名声は「名は嵩嶺こうれいよりも高く、行は伊洛いらくよりも深し」(大正五十巻191㌻)ということで、法を重んずる俊英が、この孤高の師のもとに、あえて危険をかえりみず大蘇山に続々と集まってきたようです。『慧思伝』にも「帰従するもの市の如し」(大正五十巻563㌻)とありますが、なかでも若き智顗の修行と実践は際立って光るものがあった。
 松本 大蘇山における智顗の修行過程についても、ここでは『法華経』と関連する部分についてのみ簡単に触れておきたいと思います。
 まず慧思から、「法華三昧」の行法を指示された智顗は、その教えのままに修行したところ、「二七日を経て、誦して薬王品の『諸仏同讃、是真精進、是名真法供養』に至る。ここに到りて一向に身心豁然、寂として定に入り、持、静に因て発す。法華を照了すること、高輝の幽谷に臨むがごとく、諸法の相に達すること、長風の太虚に游ぶに似たり」(大正五十巻191㌻)と『別伝』にあります。これが、いわゆる「大蘇開悟」と呼ばれるものですね。
 野崎 その情景描写についても、すでに述べられていますので、続いて智顗が自らの開悟した境地を師の慧思に話したところ、二人は四夜にわたって問答を重ねたとされる部分に移りたいと思います。
 『別伝』には「恩師、歎じていわく、『なんじに非ずんば証せず、我に非ずんば識ることなからん。所入の定は法華三昧の前方便なり、所発の持は初旋陀羅尼なり。たとえ文字の師、千群万衆、汝が弁を尋ぬるとも窮むべからず。説法の人の中に、おいて最も第一たり』と」(大正五十巻192㌻)――このようにあります。
 池田 要するに慧思は、まだ智顕の開悟が「法華三昧」の前方便であり、初旋陀羅尼の段階であると述べている。しかし、初旋陀羅尼というのは「旋仮入空」といって、法華経の真の中道実相には到達していないけれども、その前段階まではきているわけです。したがって、ここまでくれば、もはや究極の悟りの軌道に入ったとみてよい。
 ですから「爾に非ずんば証せず、我に非ずんば識ることなからん」うのは、まさに師弟が一体となった境地を示しているし、また「説法の人の中に、おいて最も第一たり」とまで讃嘆している事実、このころ智顗は、南岳大師の作った金字の『般若経』と『法華経』とを、師に代わって講義していますね。
 松本 その講席に、かつて智顗が師事した慧曠がいて、弟子の立派な成長ぶりを喜んだということですね。
 池田 ここにも「従藍而青」という言葉の生きた実証があったわけです。しかも、慧曠と慧思とが、互いに智顗を育成した功績を譲りあっている姿は、師もまた謙虚で立派な振る舞いですね。南岳大師が言うには、自分に功績があったのではない、まさに「法華の力によるのみ」というのも、あくまで″法″を中心に立てる仏法の精神を示している。これは、凡人にはなかなかできない所作です。
 松本 また、このときの智顕顗講義は、その智は日月にも比べられ、かつ懸河の弁にも類するほどであった、と『別伝』にあります。師の慧思が讃歎して「法、法臣に付し、法王無事なる者と調いつべし」(前出)と語っています。すなわち、すでに慧思は、自らの悟達した法の一切を若き智顗に付嘱する決意を固めていたわけですね。
 野崎 こうして智顗は、二十三歳から三十歳までの七年間、大蘇山において慧思のもてるものをすべて学び体得し、付嘱を受けて金陵に向かうわけです。
 松本 この金陵というのは、陳の都がおかれた都市で、現在の南京に当たっています。そとに智顗は八年間も滞在し、後進の指導と育成、そして法華弘通の教化活動をおこなっている。また陳の重臣、儀同沈君理の懇請を容れて『法華経』の経題を講義したと伝えられています。
 池田 その講義が、後に天台三大部の一つを構成する『玄義』の原形となっていくわけですね。むろん、今日にまで残されている『法華玄義』の体裁とは、かなり違ったものだったでしょう。ともあれ、大蘇開悟を得た智顗は、まだ三十一、二歳の青年僧であった。その彼が、陳の政都で最初に法華経題を開講した第一声は、いかにも初々しいものがあったにちがいない。ここに智顗は、南岳大師から付嘱された大法弘通の第一歩を印したというべきです。
 松本 天台大師の著作の内容については後に検討するとして、続いて三十八歳から十一年間、いよいよ浙江省にある霊峰、天台山に入るわけです。
 池田 ここで第三の「華頂頭陀」と呼ばれる証悟がある。それは、智顗が天台山中の銀地に草庵を構え、その北にある華頂峯に登って頭陀を行じていたときのこと、後夜に及んで大風が吹き、雷震は山をも動かし、さかんに魔が来襲したが、彼は深く実相を念じて本無に体達すると、憂苦が相ついで消滅した、という。そして明星が出ずるころ、神僧が現れて一実諦の法門を授けた、とある。
 たぶんに神秘的な部分もあるが、要するに智顗は、このとき法華円頓の中道実相の法門を悟った、とされていますね。
 松本 その後、天台大師は四十八歳のころ陳の少主叔宝に迎えられ、ふたたび金陵に出て霊曜寺から光宅寺に移っています。ここは有名な光宅寺法雲が、かつて『法華経』を講じた法華有縁の寺ですね。
 池田 そこで天台大師も『法華経』を講じ、それが後に『法華文句』としてまとめられることになるのです。法雲の法華学が平板な注釈的研究に終始したものであったのに対し、それを天台大師は痛烈に批判して、あくまで自己の生命の奥底からの悟達をもとに、『法華経』の法理を縦横無尽に生きいきと展開していった。
 野崎 その席に、後に天台三大部を集成した章安大師、すなわち青年僧・灌頂が控えていました。智顗五十歳、灌頂二十七歳のときのことで、この二人の年齢差も二十三歳ですね。
 松本 翌開皇八年(五八八年)、陳に対する討伐令が出て、後の煬帝となる晋王広を総帥とした惰の大軍が南下してくる。そのため智顗は、戦乱を避けて廬山へ赴き、そこから南岳衡山へ向かって慧思終罵の地を訪れ、師恩を深謝したという。その後、生地の荊州に帰って玉泉寺を創建し、そこで出世の本懐たる『摩訶止観』を講するわけです。
 池田 だいぶ慌ただしいたどり方だけれども、その晩年に三大部を説く部分は非常に大事であるので、次にその内容まで含めて、さらに詳しく検討することにしたい。
 野崎 天台三大部の成立過程、および内容を含めて検討していくまえに、いったい天台大師にとって三大部とは何であったか、またそれは仏法史上、いかなる意義をもつものであったか――そのことを明らかにしておきたいと思いますが……。
 池田 たしかに天台の三大部は、いわゆる天台教学の中核である、ばかりでなく三千年に近い仏教思想の全体のなかでも、理論的には最も高度な内容をもっている。山にたとえると、ちょうど″世界の屋根″と呼ばれるヒマラヤの高峰に位置しているといってよい。それだけにまた、初心者には容易に近づきがたく、危険な山となっている。その高峰をきわめるには、練達な登攀技術と頑健な身体、それに豊富な経験がなければならないようなものです。
 松本 天台の三大部は、『法華経』の多角的な論疏となっていますが、もともと『法華経』そのものが、数ある大乗経典のなかでも最高峰に位置するわけですね。それを登りつめたものが三大部ですので、その高さは比類ないといえます。
 野崎 ここで、日蓮大聖人の「撰時抄」のなかに、この天台三大部を的確に位置づけられた御聖訓がありますので、若干長くなりますが拝読してみます。
 「像法一千年のなかばに天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去さらいにこにいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一千枚に尽し給う已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一しずくも漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にべ十界の依正を三千につづめたり、此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那しな五百年の人師の釈にも勝れたり
 ここに明らかなように、まず『玄義』と『文句』では法華経の題号と一経の文々句々が解釈され、さらに『摩訶止観』では一念三千の観門が示されているわけです。
 池田 すなわち、天台の三大部が著されて以後は、『法華経』の理論的な解釈は『玄義』と『文句』により、また諸法実相を観心する実践面は『摩訶止観』によって明確に開かれたといってよい。それによって中国の仏教者は、それぞれ自身の己心に仏を観ることができた、ということです。
 しかし、それはあくまで観念観法のうえのことであって、日蓮大聖人の事の一念三千の法門が顕されて以後は『法華経』の究極である三大秘法の御本尊を受持することが「受持即観心」といわれるように、われわれの生命に仏界を事実の相として涌現することになる。その違いを明確に把握したうえで、天台三大部を一つずつ見ていくことにしよう。

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