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日蓮大聖人・池田大作

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教相判釈の展開

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  格義仏教の限界
 松本 西暦四〇一年に鳩摩羅什が長安入りしたことによって、中国の仏教界は面目を一新したことが明らかになりました。そこで次に、羅什門下によって始められた「教相判釈」の展開を中心にして、六世紀中葉の智顗ちぎ、すなわち天台大師の活躍する時代まで、教義的には「法華至上主義」が確立されるまでの百数十年間を展望してみたいと思います。
 野崎 中国仏教史を時代区分する場合、さまざまな説がありますが、そのなかで布施浩岳氏が『中国仏教史要』(山喜房仏書林)の中で五期に分けた説が、一般によく使われています。
 それによると、第一期は「格義時代」といって、仏教が初めて中国に伝えられた漢代から三国時代を経て、晋の時代まで。これは、西暦でいえば紀元前後から、鳩摩羅什が長安入りする直前の西暦四〇〇年までにあたります。
 この時代、中国の仏教者は、仏典中の語句や教義を理解し、説明するのに、中国古来の儒家や老荘の概念を当てはめる方法をとった。すなわち、まだ仏教本来の理念を、原のままの形で捉えるまでにはいたっていなかったわけです。
 池田 それは、あるていど最初は、やむをえなかったともいえますね。歴史の長い伝統をもっ中国の文明社会に、西方からまったく異質な思想が入ってきたのですから、初めは理解できない面もあったでしよう。
 しかし、仏法は本来、人間の普遍的な生き方を説いたものである以上、やがて時がたてば、水の低きに流れるように、徐々に民衆のあいだに浸透し、理解されていくものです。いきなり、その深遠な哲理が、簡単に理解できるものでもないでしょう。
 したがって、仏教の理念を一般にもわかりやすく伝えるためには、そのような格義的な方法も、初期には必要であったと考えられます。むろん、そこにとどまっていては、仏法を真に理解することはできないし、また求道心が高まっていけば、自然に、より深い法門を探究する機運も盛り上がってくるでしようが……。
 松本 実際、鳩摩羅什が長安入りする以前にも、すでに釈道安などは、格義的な解釈の限界を自覚しています。たとえば『般若経』群に説かれる「空」の概念を説明するのに、従来は老子の「無」の概念を当てていたわけですが、それでは、どうしても捉えることができない何ものかがありました。
 さらに『法華経』や『維摩経』といった大乗経典群が盛んに読まれるようになると、もはや儒家や道家の思想では把握できない状態になってしまう。
 池田 そこで、西域諸国に名声の高かった鳩摩羅什の来朝が、中国では強く待望されることになったわけですね。
 まえにもみたように、前秦王の苻堅は、亀茲国の羅什三蔵を得るために、わざわざ七万もの将兵を出兵させている。また、後秦王の姚萇ようちょうも、その子・姚輿ようこうも、なんとかして羅什三蔵を長安に迎えようと苦心した。その間、苻堅の西域派兵から羅什の長安入りまで、じつに二十年間もかかっています。つまり、麻のごとく乱れた中国の仏教界を立て直す人物は、もはや鳩摩羅什をおいて他にないことが、いやがうえにも認識されていたわけです。
 野崎 弘始三年(四〇一年)に長安入りした羅什三蔵は、見事に、その要望に応えたわけですね。
 池田 そうです。彼は、大乗と小乗の経典が乱雑に伝訳されていたのを、きちんと体系化しただけではない。ときに「旧訳」の誤りを訂正しつつ、そのもって生まれた語学的才能を存分に駆使して、多くの名訳を生みだしていった。そして、あの広大なる中国の各地から集まった二千人から三千人もの学僧を前に、主として龍樹系の大乗教学を講説し、仏教思潮の正流を伝えていったのです。
 野崎 事実、この羅什の長安入りをもって中国の仏教界は、布施浩岳氏のいう第二期の「学派時代」に入ったわけですね。つまり、それまでは格義的な、どちらかといえば「摧尊入卑さいそんにゅうひ(尊きをくだきて卑しきに入れる)」のきらいがあった仏教界は、ここで大きく転換し、仏教本来の正しい行き方に入っていったと思われます。
 池田 とくに重要なのは、羅什三蔵が初めて大乗と小乗の違いを、中国の仏教者に教えたことですね。このことは、どんなに強調しても、けっして強調しすぎることはないと思う。
 というのは、羅什以前の中国仏教界は、「五重の相対」でいえば、まだ「内外相対」の段階にとどまっていた。西暦紀元前後に中国へ伝えられた仏教は、まず中国古来の黄老の教えと相対し、ときに優劣を競いつつ、徐々に広まっていったといえるでしよう。しかし、この段階では、最初は儒家や道家の用語を借りて翻訳がなされた事実に示されているように、まだ仏教本来の深遠な哲理が展開されるまでにはいたらなかった。
 ところが、鳩摩羅什が初めて仏教哲理を体系的に講説したことによって、ここに中国仏教は「大小相対」の時代に入ったわけです。むろん大乗経典は、すでに後漢の桓帝時代、すなわち西暦二世紀中葉に中国入りした支婁迦讖しるかせんによって漢訳されて以来、ほとんど主要な経典は紹介されていた。けれども、羅什三蔵によって指摘されるまでは、大乗と小乗の違いさえ頭になかったということは、まだ仏法の本義に到達していなかったからでしょう。
 松本 それには、まず二つの理由が挙げられると思います。
 その一つは、いわゆる経・律・論の三蔵が、なんの秩序もなく中国へ続々と伝えられたこと。すなわちインドにおいては、初期教団の経典結集に始まって、部派のアビダルマ(阿毘曇あびどん)研究による小乗論集、そして大乗仏教の興起へと、教義的にも順を追って深まり、発展しています。ところが中国では、経典成立の先後や高低にまったく関係なく、大乗も小乗も別個に、しかも、ときには順序も逆になって経文が入ってきています。ここに混乱の一因があった、といわれています。
 また第二に、大乗経典も小乗経典も、仏典はみな冒頭に「如是我聞」(是の如きを我聞きき)と置き、すべて釈尊の金口より出た仏説であるという構成をとっています。そのため、経典の成立事情を知らない中国人としては、すべてを仏説として受け取り、経文によって優劣・浅深があろうとは、夢にも考えなかったのでしょう。
 野崎 ある意味では、純真な信心の発露であったわけですね。
 松本 しかし、大乗経典と小乗経典では、明らかに矛盾した内容が説かれているし、この矛盾が解決されなければ「一仏二言」ということもありますが、どうしても同じ一人の仏が説いた教えにしては、理解できない面も出てくる。そこで中国においては、その矛盾を解消するために、偽経も作成され、誤訳や不十分な訳文もあって、ますます混乱に拍車をかけるという事情があったようです。
 池田 そのように中国仏教界が、複雑多岐に混迷していたとき、鳩摩羅什の果たした役割は、きわめて重要なものがあったといえますね。いわば羅什三蔵は、混乱期の中国仏教界を、大きく転回させた功労者といえるでしょう。当時の人びとが、その来朝を待望したように、まさに彼は西域に現れた巨星であったわけです。
2  羅什門下の活躍
 松本 さて、鳩摩羅什によって、釈尊一代の説法のなかにも、それぞれ教相の先後・浅深・優劣があることを教えられた中国の仏教界は、いよいよ第二期の「学派時代」に入ります。この時代は、いわゆる北周武帝の仏教弾圧がおこなわれる前年、すなわち西暦五七三年までの南北朝時代に相当します。
 池田 「南三北七」といわれるように、南方と北方に各学派が成立し、それぞれ自派の「教相判釈」を競っていた時代ですね。
 ただ、ここで注意しておかなければならないことは、それだけ多くの学派が対立していたといっても、それは後世の一宗一派というようなものではなかったということです。それぞれの学派が、膨大な仏典のなかで、釈尊の根本精神はどこにあるかを、真剣に研究していた。つまり中国の仏教界は、若々しい発展の可能性を秘めた、最も輝かしい時代に入りつつあった、ということです。
 事実、まだ一宗一派に固定していない状態であるから、南北の交流もあり、優秀な学僧は、優れた師を求めて各地を修行して歩いている。そこに、慧思=南岳大師や、智顗=天台大師が出現する基盤、どこまでも真実を求めていとうとする精神の自由があったと考えられます。
 野崎 たしかに、後に南岳大師・天台大師が出現する土壌に、まず最初に種子を植えたのが鳩摩羅什とすれば、その芽を出したのは羅什門下の俊英ですね。いま問題になっている「教相判釈」にしても、その問題提起は羅什門下から出されています。
 まず僧叡の場合ですが、彼は鳩摩羅什の訳場に列なり、後に「法華経後序」を書いています。その冒頭で「法華経は諸仏の秘蔵にして、衆経の実体なり」(大正五十五巻57㌻)として、その経名からしても、まさに『法華経』は最勝にして根本の教えであると宣言しています。これは、当時としては画期的な発言ですね。
 池田 おそらく、そうでしょう。なにしろ大乗と小乗の違いもわからない時代ですから。それにまた、羅什三蔵が長安入りする以前、中国の仏教界は、あげて『般若経』に傾倒していた。その『般若経』よりも『法華経』が勝っているばかりでなく、一切の衆経の根本にあるのが『妙法蓮華経』であり、これこそ諸仏の秘要の蔵であるとまで言いきるのは、当時にあってはたいへんな卓見であり、「動執生疑」となったわけですね。
 今でこそ、仏教に小乗教と大乗教があり、『法華経』こそ一切経中の王であることは、私たちの場合、あたりまえのように言っているけれども、当時はそうでなかった。ちょうどコロンブスの卵と同じで、後になれば当然のことのように思われるもの
 でも、最初に言いだした人が偉大なのです。そこに先覚者の道の険しさがあると言ってよいでしょう。
 野崎 次に、初めて「四種法輪」の説を唱えたのは、竺の道生ですが、彼の場合などは、まさに先覚者の道の険しさを象徴していますね。
 松本 日蓮大聖人の御書にも「竺の道生は蘇山に流され」と、よく紹介される人物ですね。
 野崎 そうです。彼は、羅什門下の「四傑」と呼ばれたほどの高僧で、最初に「闘提成仏の義」を立てたことによって、蘇州(江蘇省)に追放されています。それが、いわゆる「蘇山に流され……」ということです。
 ちなみに、この件に関しては、後に道生の説が正しかったことが証明され、その先見の明が称賛されました。
 それより、ここで道生を取り上げたのは、彼は『法華経疏』を書き、そこで釈尊一代の教説を四種に分け、仏説が漸進的に高められていったことを主張しています。
 それを簡単に説明しますと、まず経典によって説を異にするのは、衆生の機根が一様でないためであって、仏は機に応じて「四種の法輪」を転じた。第一は、一善乃至四空を説き、三塗さんずの穢れを去らしめた善浄法輪で、これは阿含経。第二は、無漏の道品をもって二涅槃を得るという方便法輪で、般若経。第三は、三乗の偽を破して一乗の実を成ずる真実法輪で、これは法華経。第四は、常住の妙旨を説いて会帰を明かす無余法輪、すなわち涅槃経ということです。
 池田 しかし、彼の「四種法輪」の教判は、あまり後世に影響は与えなかったようですね。それと、とのころから曇無讖どんむしん訳の『大般涅槃経』が、江南において盛んに読まれるようになってくる。むろん、それは一時の流行現象のようなものであろうが、けっして軽視できない傾向です。
 松本 それは古来、中国では長生の術が求められ、できるなら永遠に死なない方法を探し求めてきたことと無関係ではないと思います。とりわけ権力者のあいだに、そうした願望が強かった。そこへ、インドの輪廻思想を取り込んだ仏教が伝えられ、とくに仏身の常住を説く『涅槃経』が訳されたものですから、たちまち中国に広まっていったのも無理はないと思います。
 池田 そのような形で『涅槃経』が読まれたとすれば、乙れは仏教本来の精神を逸脱したものですね。
 しかし現実には、この時代に『涅槃経』が大いに読まれた。これは、歴史的にも動かしがたい事実であって、とくに江南における涅槃宗の影響力を無視することはできません。そこに、後の天台大師の苦闘の足跡が刻まれることにもなるわけです
3  南三北七と天台の教判
 松本 そこで、江南における教判の形態をみますと、ここでは慧観の提唱した「五時判」が相当な影響力をもっていますね。彼もまた羅什門下の出ですが、後に江南へ行って荊州の民の半数以上を帰依させたといわれています。
 野崎 慧観の教判を紹介しますと、まず彼は釈尊一代の教説を頓教と漸教に分け、前者を『華厳経』に比定する。次に漸教を五時に配列し、鹿野苑における初転法輪から、鵠林こうりん(クシナガラ)における入涅槃まで、従浅至深(浅き従り深きに至る)して五教を説いた、というものです。
 第一は有相教で、小乗の見有毎坦の法。第二は無相教で、般若経。第三は抑揚教で、維摩経。第四は同帰教で、法華経。第五は常住教で、涅槃経となっています。これは、つまり『涅槃経』に高い位置を与えるための教判ですね。
 松本 南北朝時代の江南では、すでにさきほども話のあったように、『涅槃経』に対する研究が圧倒的な勢いを示していました。そのため、釈尊一代の説法の教相判釈でも、この慧観の五時判が大いにもてはやされ、当時のほとんどの学者が、この説をとっています。たとえば、僧柔、慧次、梁の智蔵、それから光宅寺法雲などが、それにあたります、法雲の師の宝亮ほうりょうなどは、この五時を『涅槃経』に説かれる五味の譬喩に結びつけています。
 池田 後に天台大師が徹底的に批判した南三諸家、すなわち涅槃・三論・摂論の三派は、みな慧観の流れをくむ五時判か、それを改良した教判をとっていたわけですね。たとえば光宅寺法雲の五時判では、法華経を第四次の覆相経としているとして、天台大師が強い口調で破折していたはずですが……。
 松本 ええ。天台大師の『法華玄義』には、次のようにあります。
 「今古の諸釈、世に光宅を以て長と為す。南方に大乗を釈するを観れば、多くじょうじゅうを承けたり。肇・什は多く通意を附す。光宅の妙を釈する、いずくんぞ遠きことを得んや。今先きに光宅を難ず、余は風を望まん」(大正三十三巻691㌻)
 これは、梁代における法華学の権威と一車われた法雲の説が、たかだか羅什とその門下の亜流に過ぎず、なんら妙法の深遠な哲理の奥底に達していない点を指摘した段です。
 池田 光宅寺の法雲といえば、当時の法華学の最高権威と目されていた人物でしょう。それを激越に破折しているのだから、まさに天台大師の意気軒昂たるものがありますね。
 野崎 たしかに、そうですね。
 次に目を北方に転じると、こちらは地論宗が盛んであった。したがって、その教相判釈をみても、ほとんど北七の諸家は『華厳経』に重要な位置を与えようとしています。
 たとえば、北方において最も有力な教判であった慧光の四宗判は、次のようになっています。第一は、六因因縁を説く毘曇びどん宗、つまり因縁宗。第二は、三仮を説く成実宗に比定される仮名けみょう宗。第三は、大品般若経などの誑相おうぞう宗。第四は、涅槃経や華厳の常宗となっています。
 松本 その他、北方では、地論宗の護身寺自軌の立てた五宗判、すなわち因縁宗、仮名宗、誑相宗、常宗、さらに華厳経をさして法界宗としていますね。
 また、おなじく地論宗の耆闍寺安稟きじゃじあんりんが立てた六宗判、これは因縁宗、仮名宗、誑相宗、常宗、真宗、それに華厳経や大集経の同宗となっています。
 池田 要するに、このころの南三北七の諸家の教判では『華厳経』や『涅槃経』が上位におかれていて、『法華経』は第三の位置に落とされていたわけです。たしか日蓮大聖人の「撰時抄」に、その間の事情を説明なされた一節がありますね。
 野崎 ええ、それは次のような部分です。
 「三・北七・と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等・各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云、
 池田 そのように南三北七の諸家が主張していたのに対し、天台大師はまったく新たな教判体系をもって、『法華経』こそ最第一であると主張してやまなかった。それは、おそらく孤立無援の懸命な戦いであったと思われる。このゆえにこそ、仏説にまかせて『法華経』が最高であることを知らしめるために、彼は南北の全仏教者を向こうにまわして、獅子奮迅の戦いを展開しなければならなかったわけです。
 野崎 天台大師は『法華玄義』において、まず「研詳去取」といって、従来の教判を詳しく研究し、しかるのちに取捨選択をおこなっています。その結果、新たに組織せられたものが、いわゆる天台家の「五時八教」の教判となっていったわけですね。
 松本 ただ最近では、関口真大氏が『天台止観の研究』の中で「五時判は天台の説に非ず」との問題を提起して以来、仏教学界では、天台の「五時教判」説を疑問視する向きが多くなっていますが……。
 野崎 それは、たしかに「五時」判は、すでに天台大師以前の江南において唱えられてはいます。しかし、天台大師の場合、頓教の『華厳経』を別格扱いにせず、また『涅槃経』を追説追泯の教えとして、ともに従来の五時判のなかに包含している点は、他の教判と決定的に違っていますね。
 しかも、頓・漸・秘密・不定の化儀四教、また蔵・通・別・円の化法四教、合わせて「八教」の判釈は、まことに見事なものがあります。これによって、南三北七の諸家は完全に屈服し、中国においても『法華経』が最高の法門であることが、ようやく認められるようになった意義は、きわめて大きいと思います。
 松本 関口氏の論文を読みますと、どうやら近世以来の天台宗学が「五時八教」の教判にとらわれ、三大部そのものを重視するまでにいたっていない傾向性を指摘されているようです。あくまで「法華最第一」との教判は、天台大師の三大部を中心にして展開すべきである、という主張です。
 池田 そうですね。
 とくに、このことに関する論議では、そもそも釈尊は「五時」のような順序で整然と法を説いたのではないのではないか、といった反論がある。これは、すでにこの対話の第二部のときにも述べたけれども、要するに天台家の教判というものは、中国において「法華経最第一」を弁証するための優れた仮説であった、ということです。
 すなわち、南三北七の諸家が争って、釈尊一代の説法のうち、何が最高のものであるかに迷っていたとき、天台大師は厳密に教相を判釈して『法華経』こそが最高であることを弁証していった。いわば彼の教判は、膨大な仏典の密林に分け入る方法論であり、羅針盤であったといえるでしょう。
 ちょうど、地図には緯度や経度を示す線が引かれているが、実際に太平洋上にそんな線があるわけではない。しかし、航海者が今どこにいるか、どこへ進んでいるかを知るために、緯度や経度を示す地図の線は不可欠のものです。天台大師の立てた教判は、ちょうどこれと同じと考えてよい。これを基準に仏典を検討し、真実を究めることによって、そこに真の仏道が開けてくる。しかも『法華経』の開会の精神からすれば、今度は会入の立場で一切経を用いていけばいいのです。
 野崎 だいたい天台自体が、そうですね。天台大師は教判にのみとどまっていたわけではない。彼が最も力を入れたのは、後世「天台の三大部」として知られているように『法華経』を中心とした理論体系の構築にあったわけですね。
 池田 そうです。後に『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の、いわゆる天台三大部を筆録した弟子の章安大師は、もともとは天台大師の『涅槃経』の講義を聴聞したいために、天台の門に入ったといわれています。その彼が、『涅槃経』よりは『法華経』のほうが勝っていることを知った一事をもってしても、天台大師の与えた影響力の大きさを、うかがえると思う。つまり天台大師は、今にして思えば「権実相対」の戦いを展開し、鳩摩羅什以後の中国仏教界を、さらに大きく変革していった人物といえるでしよう。
 野崎 ちなみに『涅槃経』についての研究は、やがて後の天台宗に吸収されてしまい、唐代仏教では涅槃宗そのものが消滅しています。それほどまでに、天台大師の教判は影響力があったことを、よく示している例ですね。

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