Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 鳩摩羅什とその訳業  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  絶後光前の訳僧
 松本 さて、いよいよ西域地方からきた訳経僧の第一人者として、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)を取り上げ、その訳業の意義を話し合ってみたいと思います。
 野崎 日蓮大聖人の御書に「月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、羅什来らせ給いて前後一百六十四人があやまりも顕れ新訳の十一人が悞も顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ私の義にはあらず感通伝に云く「絶後光前」と云云」と仰せです。
 これは、唐の玄宗皇帝の開元十八年(七三〇年)までの記録によるものと思われますが、その後、元の至元二十二年(一二八五年)までに仏典を漢訳した人は、総計百九十四人にのぼるとされています。
 これら仏典を将来させた訳経僧の大半は、ほとんど西域を通ってきたわけですが、そのなかでも鳩摩羅什は、とくに傑出していたわけですね。
 池田 そうです。鳩摩羅什の訳が名訳であったことは、だれしもが認めているところですね。それも、単に翻訳技術上、優れた訳文を残したというだけではなく、インドにおける大乗教学の正統派である龍樹の哲学をふまえて、仏教を誤りなく中国へ伝えたところに最大の功績があると思います。
 さらにまた、『法華経』『般若経』『維摩経』等の大乗経典が、中国全土に広まったのは、もちろん、その内容が優れていたことによるが、羅什三蔵の名訳に大きく負っていることも見のがせない。
 以上の三点が、鳩摩羅什の訳業を考えるうえで重要な諸点だが、それらを検討するまえに、まず彼の生い立ちと修行過程を明らかにすることによって、なぜ歴史に残るほどの名訳が生みだされたかを考えてみることにしよう。
2  天竺から亀茲国へ
 松本 鳩摩羅什の数奇な生い立ちと、波澗万丈の人生については、たとえば梁の慧皎えこう撰『高僧伝』などによって、よく知られています。むろん、それは後世の仏教者によって多少粉飾されたり、誇張された部分もあるかもしれませんが……。
 野崎 だいたい、鳩摩羅什の生没年代についてさえ、いくつかの説がありますね。唐の『広弘明集』に収められた僧肇そうじょう撰『鳩摩羅什法るい』によれば、西暦四一三年に七十歳で死んだということですから、生まれたのは西暦三四四年となります。
 ところが、『高僧伝』などによると、西暦三五〇年から四〇九年と推定され、五十九歳で死んだことになる。また、三四〇年生まれと推定する説もあります。もっとも、この違いは、インドにおけるほど、はなはだしい違いではありませんが。
 池田 インドの場合、釈尊にしても、また龍樹や無著、世親等にしても、その生没年代は、なかなか一定しない。学者の説も、人によっては百年から二百年もの違いがある。
 それに対して中国の場合は、かなり正確な記録が残されていますね。鳩摩羅什にしても、もし西域から中国へ入っていなければ、その生存の事実さえ歴史にとどめられなかったかもしれない。
 野崎 その可能性は、十分に考えられるところですね。
 松本 さて『高僧伝』によると、鳩摩羅什は、天竺国、すなわちインドの人であった。家は代々、国相を務めるほどの名門で、父の鳩摩羅炎も宰相の地位を約束されていた。……しかし炎は、国王と意見が対立して出家し、東方に向かってパミールの嶺を越えるわけです。
 野崎 なぜ鳩摩羅炎が西域に亡命したかということですが、政治的失意からくる単なる亡命ではなく、心の奥底には、仏法を弘めることに自身の人生の目標を見いだしていたのではないでしょうか。
 池田 これは想像の域を出ないけれども、やはり彼は、すでに仏教がインドだけのものでないことを、よく知っていたのではないだろうか。
 また、政治に生きるというのは、現在のことにすぎない。もっと本源的な仏法の世界に生きることによって、国をこえた広い民衆の永遠の幸せのために貢献したいという願いがあったとも考えられる。そこで、これを中央アジアの西域諸国、さらには東方の漢土(中国)にまで伝えようとして出奔したとも考えられる。
 松本 御書にも「仏陀を背負いて」(1221㌻)と仰せですが、おそらく木像の釈迦仏を背負い、カラコルム山脈、ヒンド
 ゥークシュの険難を越え、パミール高原に出て、それから流沙のタクラマカン沙漠を、東方をめざして進んでいったようです。
 池田 交通機関のない当時としては、想像を絶するほど困難な峨しい旅であったでしょう。どこから伝え聞いたのか、西域北道の要衝にあった亀茲国の王が、わざわざ郊外にまで行って、鳩摩羅炎を出迎えているね。そして、彼を国師の待遇をもってもてなしている。
 ところで当時、仏教はすでに西域全体に広まり、盛んに信仰されていたわけだが、亀茲国はそのなかでも、最も盛んであったことが知られている。おそらく鳩摩羅炎は、仏教を伝えるために故国を捨てたのだとすれば、亀茲国に生涯とどまるつもりはなく、ゆくゆくは、もう一歩先の中国へ行くつもりだったとも考えられますね。
 ところが亀茲国王は、優れた国師を求めて、逃がすまいとして待ちかまえていたのにちがいない。国師というのは、そのころは仏教の指導者というより、一国の政治、文化のうえでの智慧者、参謀のようなものだったように思える。転変つねなき国際情勢のなかで一国が生きぬくためには、優れた国師をもつことが命の綱だったことは十分推察できます。
 野崎 それで国師として厚く遇し、長くとどまってもらえるように、懸命だったわけですね(笑い)。しかも、さらに、お嫁さんまでとらせて磐石の体制をしいた。(笑い)
 松本 そこで、この鳩摩羅什のお母さんになる人のことですが、彼女は亀茲国王の妹であった、と伝えられています。
 梁の僧祐撰『出三蔵記集』の鳩摩羅什伝によれば、彼女は二十歳で「才悟明敏にして、目を過ぐれば必ず能くし、一たび聞けば則ち誦す」(大正五十五巻100㌻)とあるように、たぐいまれな才媛でした。そのため、近隣の西域諸国から縁談が相次いだが、彼女はすべて断りつづけてきた。
 ところが彼女は、鳩摩羅炎を見ると、たちまち心が動いたいわゆる「一目惚れ」というものですね。(笑い)
 野崎 そして彼女は、そのやるせない心の内を、兄の国王に伝えたところ「王は、これを聞いて大いに喜び、炎に逼りて妻となさしめ、ついに生まれたのが什である」(前出、参照)と伝にあります。
 この母の名前は、ジーヴァ(耆婆)といわれ、お父さんの姓クマーラ(鳩摩羅)と合わせて、クマーラ=ジーヴァ(什あるいは嘗婆)と呼ばれるようになった。いわば鳩摩羅什は、天竺と亀茲国の国際結婚によって生まれた子であり、生まれながらにして、国際人であったわけですね(笑い)。しかも、その環境も、亀茲国といえば、東西文化交流の、いわば大通りのようなところです。
 松本 生まれも環境もともにインタナショナルだった。(笑い)
 池田 ところで、鳩摩羅炎は、すでに出家して沙門となっていた。当時はまだ、むろん出家者に妻帯は許されていない時代であるから、おそらく炎は、心中に深い葛藤を抱いたにちがいない。これは、後に息子の鳩摩羅什もまた経験しなければならない葛藤であった。
 だが、考えようによっては、そのような鳩摩羅什親子の経験した深刻な運命というものが、かえって人間的な深みをまし、心の広がりを与えたようにも思われる。後年、鳩摩羅什が小乗仏教より大乗仏典を伝持するようになったのも、それが一つの要因となったともいえるね。
 野崎 ナーガールジュナ(龍樹)の場合もそうでしたが、概して大乗菩薩の生涯というものは、きわめて起伏に富んだ人生となっていますね。
 池田 そうです。そこにも、山林にこもり、狭い自己の殻をつくって修行に励んだ小乗の比丘と、むしろ積極的に社会へ挑戦していった、大乗の菩薩との生き方の違いがうかがえる。
3  西域諸国に遊学
 松本 さて、神童のほまれ高かった鳩摩羅什は、年七歳にして出家し、母に続いて仏門に入りました。彼は、一日に経文の千偈、およそ三万二千言を暗誦し、やがてアビダルマ(阿毘曇あびどん)の全体を誦するようになると、師の説くところを自ら通解して、その隠された意味をも明らかにしてしまった、といわれています。
 池田 たいへんな神俊ですね。
 松本 そして羅什が九歳のとき、さらに仏道修行を深めるために、母は彼を連れてインダス河を渡り、罽賓、すなわちカシミール地方にあった北インドの一国に入っています。これは、父の鳩摩羅炎の出身地と目されるところですね。
 野崎 そこで羅什は、名徳の法師、バンドゥダッタ(槃頭達多)――これは罽賓王の従弟ということですが――に師事し、ついに雑蔵、中阿合、長阿含をマスターしてしまったと伝えられています。
 池田 鳩摩羅什は、たしか罽賓王の面前で外道を折伏してしまった、といわれていますね。それに感歎した国王は、羅什に大僧五人、沙弥十人をつかわせて、いたく尊崇した、という。すでにこのころから鳩摩羅什の令名は、インド、西域諸国に知れわたるようになっていくわけですね。
 松本 十二歳になって、羅什は母と一緒に帰国の途につくわけですが、その名声を聞いた各国は「皆へいするに重爵じゅうしゃくを以てす」と『高僧伝』にあるほどです。しかし羅什は、それを顧みることなく、母とともに月氏の北山にいたった、とあります。
 野崎 そこで一人の修行者(阿羅漢)に出会い、不思議な予言を授かるわけですが、これは後の鳩摩羅什の運命を予見したものとして、伝記作者もわざわざ書きとめていますので、読んでみます。
 「常に当に此の沙弥を守護すべし。もし三十五に至るまで破戒せざれば、当に大いに仏法を興し、無数の人を度せんこと、優波掘多と異なること無けん。もし戒にして全からざれば能く為すこと無く、正に才明俊芸の法師たるべきのみ」(大正五十巻330㌻)
 ここに優波掘多(優婆毱多とも)とあるのは、アショーカ王の帰依をうけた高僧、付法蔵第四(または第三)のウパグプタのことですねまた、鳩摩羅什は後に戒を破ることになりますけれども、結果として仏法を大いに興すことになった。
 池田 つまり、このときの阿羅漢の予言は、半分は当たったけれども、後の半分は外れてしまったわけですね。(笑い)
 それはともかく、このあと鳩摩羅什は、月氏から沙勒(疏勒)国へ行き、ここに一年ほど滞在している。その間、阿見曇(アピダルマの音写)や説一切有部の六足論など、主に小乗系の諸論を暗誦してしまった、と『高僧伝』は伝えていますね。
 松本 それから、この沙勒国に滞在中、彼の生涯において決定的ともいえる人物に出会っていますね。
 池田 大師・須利耶蘇摩のととだね。……しかし、その出会いを論ずる前に、この沙勒国における修行中、羅什が外道の諸論までも学習していたことに注目しておきたい。
 というのは、羅什は、この国で設けられた大会の高座にのぼり、請われて『転法輪経』を説法する合間に、四ヴェーダや五明の諸論を学んでいた、と伝えられているからです。
 おそらく、すでに十数歳にして小乗経典をすべて学びっくしていたが、彼はさらに外道の学問も修め、仏法を当時の一般社会の知識人に納得できるように説くことをめざしたのであろうと思われる。
 野崎 五明というのは、声明・工巧明・医方明・因明・内明のことで、乙れを現代的にいえば、文典・訓詁の学、工芸・技術・暦数の学、医学・薬石学、論理学、四ヴェーダ論といったものですね。また羅什は、ヴェーダの韻律学も学んでいたようです。まさに、学芸全般にわたる幅広い学習ですね。
 池田 それが、すべて後の仏典漢訳に生かされていくわけです。とくに、仏教のエンサイクロペディア(百科事典)ともいわれる『大智度論』などは、これら万般にわたる学問の蓄積がなければ、ただ文字をっただけで理解できるものでもないし、まして漢語に訳することなどできなかったでしょう。
 しかし、それはまだ三、四十年後のことであって、このときの羅什は、ともかく必死になって勉学に励んだいわば生涯の最も大事な基盤を築いた時代といえます。おそらく語学においても、天竺語、つまり梵語はもちろんのこと、西域各国の言語にも通ずるようになっていたと思われる。ちょうど少年の純粋にして柔軟な頭脳が、真っ白いキャンパスに絵を描くようにして、さまざまな学問を吸収していったのでしょう。
 野崎 ここで沙弥にして高座にの、ぼったというのも異例ですが、その各国語に通じた才能と、外典の諸学をも駆使した学識深い説法というものは、たぶん沙勒国の人びとを驚歎せしめるものがあったのではないでしょうか。『高僧伝』の記述によると、羅什の説法には国王も臨席していたことが考えられますし、亀茲国からは重臣が派遣されています。
 松本 もともと、この説法の高座が設けられたのは、この国の喜見三蔵という沙門の発案によるものです。
 彼は沙勒王に対して「此の沙弥は軽んずべからず。王よろしく請うて初めて法門を聞かしむべし。およそ二益あり。一には、国内の沙門、そのおよばざるを恥ぢて必ず勉強を見ん。こには亀茲王、必ず謂わん。什は我が国より出ず、しかも彼(沙勒王)これを尊ぶ。これ我を尊ぶなりとて、必ず来りて好を交えん」(前出)と言った。はたして亀茲国から使いがきて、ここに両国の修好が成るわけです。
 池田 一人の沙弥の説法が、二つのオアシス国家を結びつけたわけですね。後年、鳩摩羅什の高名が漢土にまで知れわたるようになると、彼を獲得することが係争の的になるけれども、このときはまだ、いかにも平和な、友好的な雰囲気であった。
 しかし、それにしても羅什は、すでに西域諸国にあってたいへんな人気者であったことがうかがわれる。いまでいえば、ちょっとしたスーパースターですね。当然、彼の説法の席には、多くの沙門、法師も列なっていたことでしょう。
 松本 ところで、須利耶蘇摩との出会いということに戻りたいと思いますが、この人は莎車さしゃ国の王子
 で、兄とともに出家して沙門となり、沙勒で修行していました。兄は須利耶跋陀しゅりやばつだといいましたが、弟の蘇摩は、もつばら大乗をもって衆生を化し、その兄および諸学者も皆、彼を師とするようになった、と『高僧伝』にあります。
 野崎 鳩摩羅什と須利耶蘇摩の師弟の出会いを、どのように考えたらよいでしょうか。もちろん、その
 情景については想像してみる以外にないとは思いますが……。
 池田 まず考えられることは、鳩摩羅什の説法の席に須利耶蘇摩しゅりやそまも何回か列席しているかもしれない。しかし、すでに大乗を学していた彼は、羅什の幅広い学識には感心していたとしても、その根本とする小乗的な展開には物足りないものを感じていたにちがいない。
 やがて羅什は、蘇摩の門にかよっている修行僧から、小乗仏教の限界をときに指摘されたこともあったでしょう。すでに小乗経典や有部の論を究めつくした彼は、さらに深い仏法哲理に踏みこもうとしていた。とすれば、私は羅什のほうから蘇摩を訪ね、教えを請いに行ったものと想像したい。それが、年長の沙門に対する礼であった、と思われる。
 松本 そこで、これは『高僧伝』に伝えられていますが、蘇摩は羅什のために『伊常彦経』を説きました。しかし羅什は、一切法これ空にして無相なり、との大乗教義を理解できなかった。彼は率直に質問しています。
 「此の経は、更に何の義ありてか、皆諸法を破壊するか」
 それに対して蘇摩は答える。
 「眼等の諸法は真実の有に非ず」
 つまり、因縁所生の法である一切法は、眼根等の実有に執するかぎり理解できない、ということです。この一言をもって羅什は、大乗仏教の深義に開眼し、それからは大乗と小乗の違いを研究するのに時を忘れるほどであった、とあります。
 野崎 その結果、羅什は後になって次のように歎じたといわれます。
 「吾れ昔、小乗を学べるは、人の金を識らずして鍮石ちゅうせきをもって妙となすが如し」(前出)
 こうして羅什は広く大乗仏教の要義を求め、『中論』『百論』『十二門論』の講義も受けて、すべて暗誦してしまった、ということです。
 池田 鳩摩羅什にとって、この大師・須利耶蘇摩に出会ったということは、まさしく彼の生涯を決定するほどの転換点となったわけですね。人生において、優れた師に出会うということが、どれほど大切なことであるかを物語っています。
 後に漢土へ渡った羅什が、法華経を翻訳した後、次のように語っている。これは有名な言葉で、随所に引用されてもいるが、そこを読んでおきたい。
 「予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討す。大師須利耶蘇摩に従って理味を飡禀するに、慇懃に梵本を付嘱して言わく、仏日西に入り、遺耀いよう将に東北に及び、この典、東北に於て有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」(大正五十一巻54㌻)と。
 松本 こうして羅什は、母とともに沙勒を後にし、温宿国に立ち寄った後、亀茲国に帰っています。すでに羅什の名声は中国にも及び、その高名を慕って諸国から学僧が雲集するようになりました。今や青年・鳩摩羅什は、天竺、西域、漢土に並ぶ者のない大乗論師となり、やがて東方の中国へ向かうときの到来を、待つばかりとなりました。
 しかし、その時機の到来は、案に相違して意外と長い歳月を経なければならない。その間に、さまざまな有為転変を経て、羅什の身にも幾多の困難がふりかかることになります。

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