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日蓮大聖人・池田大作

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9 法華経の精神  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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1  法華経の実践者
 松本 いったい『法華経』は、どのようにしてできたのか。――それは、歴史的にも依然として多くの謎に包まれています。というのは、一般的にインドの民族性として、歴史的な記録文書が、あまり残されていないからです。しかしながら、『法華経』の内容の把握、またその実践ということについては、多くの仏教者が血のにじむような思いをして取り組んできました。
 池田 やはり『法華経』は、釈尊の極説中の極説であって、仏の悟りの境地に入らなければ、その真実は語れないのではないかな。もちろん、仏法の真実は、すべての人に開かれてはいる。しかし、そこにいたる正しい道を見いだすことは、容易ではないし、しかもその途上には幾多の困難が待ち受けているということです。
 これまでにも文学者などが『法華経』に挑戦したけれども、ついに仏法の奥底まで究めることはできなかった。それは、正しい道を見すえたうえでの強靭なる信仰と、絶えざる実践によってしか得られない宗教的悟達の世界を、文学的方法論によって追究しようとする誤りによるのではないだろうか。
 野崎 たしかに、そのとおりだと思います。古来、経文は身・口・意の三業で読まなければならない、といわれるのも、もっともですね。
 池田 そうです。『法華経』についても、それを実践する人が大事なのです。経典の文々句々を、どれだけたくさん知っていても、また上手に解釈してみせても、経文に説かれた内容を、自身の生活や行動に事実の姿として実践するのでなければ、なんの価値もない。
 では、『法華経』を実践するとは、どうすることをいうのか。これについて『法華経』で示されているのは、受持・読・誦・解説・書写の、いわゆる五種の修行です。法華経を根幹として、この五種を実践することが法華経の行、法華経の実践ということになる。
 しかしながら、この五種は同じ比重で、同列に並ぶものではない。受持・読・誦は自行であり、解説は化他、書写は令法久住のためということになるだろうが、『法華経』で一貫して強調されている「信」は、受持の根底にあると考えられる。したがって、受持ということが、この五種のなかでも最も中心となるのです。
 野崎 この経典を結集した人たちは、釈尊一代の聖教のなかで『法華経』こそが最高であるということを、絶対の確信をもって述べていますね。方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」(妙法蓮華経並開結158㌻)とあるし、法師品第十には「我が所説の経典、無量千万億にして、己に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(前出390㌻)とあります。
 池田 『法華経』こそ最第一であるという確信――これが「信」の実体です。
 いま野崎君が挙げた文は相待妙の立場になるけれども、絶待妙の立場になれば「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(前出174㌻)という方便品の文がそうですね。また如来神力品第二十一の「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(前出581㌻)という文も、絶待妙の立場を表明した代表的な文でしょう。
 法華経こそ一切の江河を摂する大海であり、一切経の根幹をなす生命の全体像のなかに、一切経を包含しゆくものであるが故に最第一なのです。仏法上、最第一というのは、単なる他との比較ではない。究極的なもの、他を止揚するにたる本源的な哲学の意でもあるわけです。
 それはともかくとして、『法華経』が最第一であるという確信は、全編にみなぎっていますね。これは何を意味するかといえば、釈尊滅後に大乗の教えを伝えた人たちが、その実践の実証によって、『法華経』こそが最高であるという確信を深めていった結果であると考えられる。彼らは、小乗の部派仏教徒から「大乗は仏説に非ず」といった非難を浴びせられたり、経典にもあるような、さまざまな迫害を受けている。そのような受難の戦いのなかに、彼らは仏が説き、深く静かに伝えられてきた『法華経』の真実を、一つ一つ確証していったものと思われる。いわば、法華経徒は、文字どおり経文を身で読んだのです。
2  大乗教徒の精神
 松本 そうしますと、『法華経』というのは、およそ仏滅後四、五百年ごろに、大乗教徒のなかの一分派が自らの主張を仏説に託して作成したもの、という考えもありますが、そうではなくて、釈尊以来ずっと静かに伝えられてきたものが、時の到来を待って、一挙に大乗仏教の主流となっていったもの、と考えられるわけですね。
 池田 そうです。これまでにも何回も述べてきたように、もし釈尊が在世に大乗の教えを説かなかったとすれば、その一代の説法は完全なものとはならなかった。すなわち「円教」とはならない、ということです。
 仏法三千年の歴史において、なぜインド応誕の釈尊が偉大であるかといえば、それは彼が悟達したところのものが、この宇宙と生命の法則を完璧に把握したものだからです。それを釈尊は、五十年もかけて、さまざまな角度から説き、衆生を教化していった。それは、すべての衆生を自身と同じく仏となさんがためであった。
 このすべての衆生が釈尊とまったく同じく仏になることができるのだという原理は、『法華経』によって初めて明らかにされたのです。したがって、もし法華経が説かれなかったとするならば、釈尊は自らの説法の目的、この世に出現した目的を果たさないで終わってしまったといわざるをえない。――そう考えるのが、仏教者として最も正統な捉え方ではないだろうか。
 野崎 まったく同感です。つまり、小乗の阿含部経典や、『法華経』以外の大乗経典群は、平たくいえば、釈尊が本心を明かす以前に説いた教えを集成したものである、ということですね。
 池田 そうです。しかし『法華経』以外の経典も、釈尊の悟りの一部分観を説いたものであるから、そこに真実が含まれていないわけではない。いわば、同教の一部分が、それぞれ個別に説かれているということです。
 松本 そうすると、釈尊滅後に経典が結集されていった過程において、なぜ初めに阿含部の経典が表面に出てきたのか、という問題ですが……。
 池田 それは前回にも、いくつかの理由を挙げて説明したけれども、やはりいちばん大事な点は、経典を伝えた主体者の問題ですね。
 釈尊のなきあと、厳しい圧迫のなかで教団を維持していくためには、出家僧たちの行動を規律する教えを、まず整備し明文化する必要があった。阿含部経典が最初に結集されたのは、この事情から説明することができる。その後、教団が社会的にも安定した地位を確立し、在家信徒も増加してくるにつれて、在家信徒のため――ということは、一切衆生のために説かれた大乗経典の明文化が要請されるようになったのでしょう。
 また、こうも考えることができる。つまり、声聞の弟子たちは、最後には成仏の授記をうけたといっても、釈尊の同教に到達するまでに、さまざまな方便権教を聴き、長い修行期間を経てきた。ということは、仏の境地を得るのに、帰納法的な接近方法をとってきたということです。
 それに対して在家の信徒、すなわち後に大乗菩薩の役割を担う人たちは、いきなり法華経の説法の座に列なった者もいたであろう。むろん、それには深い縁があってのことだけれども、彼らの成仏の仕方は、まさしく「速疾頓成・直達正観」、つまり演緯的なものであったと考えられる。
 松本 釈尊滅後、まず声聞の弟子たちが集まって結集したのが、いわゆる阿含部等の初期経典であったわけですが、そうしますと、彼らは大乗の教え、なかでも後に『法華経』として結集される部分の重要性を、よく理解できなかったのでしょうか。
 池田 いや、理解はしていたでしょう。そうでなければ、彼ら自身も成仏できないわけですから。初期の阿含部経典のなかにも、後の大乗経典に発展するような理念が盛り込まれているので、声聞の弟子といえども、仏の大乗の教えを知らなかったわけではない。ただ、声聞の弟子たちにしてみれば、彼ら自身が大乗の教えを説く任でないことを承知していたのではないだろうか。また、時がいまだきていなかったのですね。だから、最初は小乗的な教えを表面に出し、大乗は内に秘めていたと考えられる。
 ところが、釈尊滅後百年もたつと、出家僧を中心とした教団が体制化して、閉鎖集団を形成してしまった。彼らは、教団に伝承された釈尊の教えを、広く一般大衆に開放するのではなく、教団内における煩瑣な教義解釈に向かっていった。そのため、在家を中心とした菩薩集団とのあいだに、越えがたい断絶の溝ができてしまったわけですね。
 野崎 サンガ(僧伽)がアビダルマ研究に没頭しているあいだに、後の大乗興起へのエネルギーが蓄えられていったものと思われます。すなわち出家修行僧団は、十二因縁や四諦・八正道の教理解釈に専念し、衆生済度の実践を怠るようになってしまった。これは、初期仏教の特徴の一つとして、悟りの実体をあまりにも高い次元においたために、彼らにとって「仏」が手の届かない存在となってしまった、という事情と関係しています。
 それに対して大乗教徒は、仏を自分たちにとってきわめて近い存在とみた。民衆救済の利他の菩薩行に励むならば、だれでも「仏」になれるという考え方です。大乗経典には、さまざまな仏身が説かれていますが、それは彼らが自己の胸中に「仏」をみたからであると思われます。
 松本 そのことはまた、釈尊の仏法の発展過程の一つの特徴として捉えることができますね。すなわち釈尊在世においては、釈尊の人格的な偉大さにひかれて教団が形成された宗教的な側面と、その哲理を求めて修行者が集まった哲学的な側面とが、一つに結合されていたわけですが、釈尊滅後になると、前者の宗教的側面が失われ、小乗のアビダルマ教団などは完全に哲学者集団となってしまった、ということです。
 池田 なるほど、おもしろい見方ですね。ということは、仏教者が「仏」を見失ってしまったならば、もはや仏教の生命は失われてしまうということです。
 だいたい小乗教徒は「一世界一仏」、すなわち一つの世界には、ただ一人の仏様が現れるという考えに固執していたわけだね。だから、釈尊が死んでしまうと、わずかに残された釈尊の教説にすがって生きる以外になかった。ところが、その遺された法(経)と律をめぐって、さまざまな教義解釈を展開しているあいだに、肝心の仏の生命、つまり衆生済度の働きを見失ってしまったわけだ。
 そこで大乗教徒たちは、とくに在家信者のあいだに伝承されてきた「仏説」に照らしてみるときに、そのような出家修行僧団の行き方に対して、大いなる疑問をいだかざるをえなかった。彼ら大乗教徒たちは、自らの己心に「仏」の姿を描きつつ、三世十方のあらゆる世界に仏が出現するという生命の奥底からの確信に立って、仏教のルネサンスとしての大乗復興運動を巻き起こしていった。――そのように私は考えるのです。
3  法華経の仏身観
 野崎 たしかに『法華経』の見宝塔品第十一にあるような「二仏並座の儀式」などは、一世界一仏の考えにとらわれていた小乗教徒には、およそ考えられない出来事であったわけですね。なにしろ一つの宝塔の中に、同時に釈迦・多宝の二仏が並んで座っているというのですから、おそらく声聞の弟子などは、わが眼を疑ったのではないでしょうか。
 松本 ただ、この宝塔の儀式については、これまでにも多くの人が疑問としてきたところですね。とくに現代の合理的思考からして、虚空に宝塔が立つなどということは、まったく信じられないというのです。それがまた、『法華経』は後世に創作されたものであるという説の根拠ともなっていますが……。
 池田 それについては、釈尊の実在性さえ疑われかねない西欧世界において、ヤスパースが次のように述べている指摘が、ここでも当てはまるのではないだろうか。すなわち「確実な仏陀のイメージをつくるためには、……本質的な面で信憑性をもって仏陀に帰せられるすべての事柄の、感得しうる中心によって心をうたれることが、前提である。この感動のみが視ることを可能ならしめる」(前出『佛陀と龍樹』)という。つまり、生命の躍動する歓喜が、己心に「仏」の生命を涌現することになるのです。
 もちろん、実際に法華経の説法の座において、空中に塔が立ったかどうか、今となっては、現象的に証明しようといっても不可能であろうし、またそれをやってみてもはじまらない。それより、ここで大事なことは、一切衆生の生命に仏界が備わっていること、そして仏を渇仰する一念が強まっていけば、それぞれの生命に仏界を涌現することができるということです。仏滅後数百年にして、仏法がまさに失われんとするときに、当時の大乗教徒としては、自らの己心に仏の生命を思い描く以外になかったのでしょう。その「仏」を求める強い一念をもって、脈々と伝えられてきた大乗の教えを結集し、それを具体的な言語音声として表現したものが、まさに『法華経』となっていったわけですね。
 野崎 宝塔の儀式も、それによって一切衆生の生命に仏界が涌現しうるという原理をあらわしたものですね。
 池田 そうです。また「一世界一仏」の考え方を破るには、見宝塔品以下のような説き方をしなければ、当時の事情としても、動執生疑を起こせなかったともいえるね。
 野崎 同感です。従地涌出品にしても、また『法華経』の最も肝要である如来寿量品にしても、それ以前の考え方からすれば、まさに革命的なことが説かれているわけですから。
 松本 そこで、いよいよ如来寿量品に説かれる仏身観に入っていくわけですが、ここではまず、仏自身の実証のうえから、仏の悟りが説かれていることが重要ですね。
 池田 方便品を中心とする前半部分では、九界の衆生にも仏界が備わっているということを、普遍的な真理として説いている。それに対して如来寿量品では、釈尊自身もまた五百塵点劫の久遠において、菩薩の道を行ずることによって仏になったのだ、と説く。そのとき修行したのが「妙法蓮華経」の一法であったというのですね。すなわち三世十方の諸仏は、みな「妙法蓮華経」に帰命することによって仏になったのだ、というのが『法華経』のなかの最も肝要な教えであるわけです。したがって、この一点を見失うと、とんだ間違いをおかすことになる。つまり法華経は、一切の仏の能生の根源の法であって、それを知ら、なければ仏になれないということです。
 松本 この如来寿量品第十六が説かれる以前の人びとは、釈尊が王宮を出て、ブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹下において初めて成道したものとばかり思っていたのが、ここへきて「我実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」(妙法蓮華経並開結496㌻)というのですから、おそらく人びとは驚いたと思います。
 野崎 とくに声聞の弟子たちは、釈尊がブッダガヤーにおいて成道して以来の姿しか見ていませんから、どうしても「始成正覚」(始めて正覚を成ず)の考えにとらわれていたわけですね。ですから、その流れを汲む小乗教徒は、仏の説法というものを、釈尊一代かぎりのものとしか捉えることができなかった、と考えられます。
 池田 たしかに、そこに小乗仏教の停滞性があったといえるね。彼ら小乗教徒は、釈尊の死後、だれを師として修行したらいいのか、わからなくなってしまった。せいぜい今までの修行法によって、阿羅漢果を求める程度にとどまっていたわけです。
 それに対して大乗教徒は、なかでも法華経徒は、一切衆生が仏になれるのだという教えを重視した釈尊自身、一切衆生を仏に成さんがために世に出現したのだ、という。しかも、仏は釈尊一人ではなく、過去には燃燈仏として現れ、余処の百千万億那由陀阿僧祇の国に、おいても、仏が衆生を導利している。仏は方便として涅槃を現ずるけれども、過去・現在・未来の三世にわたって「我常に此の裟婆世界に在って説法教化す」(前出498㌻)と経文にあるように、仏の生命は永遠である――。
 法華経徒は、そのように仏身観を捉えていたわけです。すなわち、これによって仏教は、時間的には永遠に人類の閣を照らす光明となり、また空間的にも世界に開かれた宗教となったのです。そこに『法華経』の偉大性があるといってよい。
 野崎 まったく同感です。
 松本 そこで次に、五百塵点劫の昔において修行し得脱した仏を「本仏」とすれば、インドに生まれた釈尊も、他の三世の諸仏と同様に「迹仏」となるわけですね。釈尊自身が法華経を説いたとすれば、ここで自らを迹仏と認めたことになってしまって、矛盾するのではないか、という説もありますが……。
 池田 それは、仏法の教義解釈としてもきわめて重要な問題であるけれども、ここではそういったさまざまな教義解釈をはなれて、純粋に私一個の率直な感想を述べておきたい。というのは、これまで多くの『法華経』解釈がおこなわれてきたけれども、そのほとんどは訓詰注釈の迷路に踏み込んでしまって、経文を現代に生きる人びとの実践の指針としてこなかったからです。
 私は釈尊を、金ピカの仏としてでなく、苦悩に沈む民衆を救おうとして立った、一人の偉大な宗教家としてみたい。そのように釈尊を、一個の人間ブッダ(仏陀)として捉えたときに、おそらく彼はいい知れぬ苦悩をいだいていたであろうし、自己の限界も十分に知っていたのではないだろうか。
 とくに彼が王宮の出であるということは、その出自にひかれて貴族やバラモン階級の子弟が多く教団に集まるという結果になった。それは、釈尊の聞いた仏教が、いちはやくインド社会に確固たる位置を占めるというプラス面とともに、その反面、教団の主流をバラモン出の知識階層が形成することにもなり、一般の在家信者とのあいだに溝をつくるマイナス面をもっていたとも考えられる。
 インドにおいて釈尊は、一切衆生を等しく救済する仏として出現したといっても、現実の教団をみたときに、やはりバラモンやクシャトリヤの出身者が大半を占めていた。理念としては四姓平等を説いても、釈尊自身が王宮の出である以上、現実の生きた思想とはなりにくかったのでしょう。そこに釈尊の仏法の限界の一因があったといえるね。
 野崎 滅後の弘教にあたって、声聞の弟子たちの限界も、そこにあったのですね。
 池田 おそらく、そうでしょう。だからこそ一切衆生が仏になる根本の法を明確にするために、――といっても『法華経』の文の上ではそれ自体は明かされていないが、久遠の本地を示したということは、この根本の法へ人びとを向けさせる意図があったと考えてよい。そしてさらに、それと同時に、すべての衆生が平等に仏になれるのだという仏法の根本原理を証明する実践者が、下積みの民衆のなかから現れなければならない。釈尊が晩年にいたって自らの使命を終えるにあたり、法華経を説いた本地を明かし、本化地涌の菩薩の出現に滅後を託したというのも、そのような意義があったものと考えたい。
 故に、ちょうど蓮の華が、泥沼の水中から出て美しい花を咲かせるように、仏法の実践者も、混沌とした現実社会の真っ只中で、そこに生き、民衆と苦楽をともにする人びとこそが、真に『法華経』の精神を体現した人といえるのです。

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