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日蓮大聖人・池田大作

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7 四維摩詰と在家菩薩  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  維摩経について
 松本 大乗教徒の興起によって、釈尊の仏法は蘇ったわけですが、その運動の重要な担い手となったのが、在家の菩薩です。ここでは『維摩経』に説かれたヴィマラキールテイ(維摩詰)の姿を通して、とくに在家菩薩の役割、その利他の実践のあり方について考えてみたいと思います。
 池田 維摩詰というのは、魅力に富んだ、非常に不思議な人物ですね。彼は、弁舌の才に富み、巧みな方便力を駆使し、記憶力も抜群であったといわれる。超俗的で、悟りすました感じのする声聞・縁覚の弟子たちと違って、いかにも在家信者らしく、自由奔放な生き方をしているね。これは、阿羅漢果を求める小乗部派教団の出家僧とは、まったく異なり、むしろ出家中心主義を徹底的に批判して、仏法を広く社会に開こうとした大乗教徒の精神が脈打っている。
 野崎 古来、インドでも中国でも、そして日本へ仏教が渡ってきてからも、このヴィマラキールティという人物は、とくに在家信者のあいだに人気があったようですね。それは『維摩経』が、大乗経典のなかでは『法華経』に次いで広く読まれたことでも明らかです。
 松本 ナーガールジュナ(龍樹)の作といわれる『大智度論』でも、『維摩経』は『法華経』に次いで多く引用されています。また中国では、漢訳・維摩経は六訳三存といわれていますが、なかでも姚秦ようしん時代のクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳の『維摩詰所説経』三巻が最も広く読まれています。天台にも維摩経の疏がありますね。日本では聖徳太子の『三経義疏』、すなわち法華経・維摩経・勝鬘経についての注釈書が有名です。
 また『維摩経』は、『法華経』と並んでドラマチックな、文学的香気の高い経典です。そのため詩人や文学者にも愛好され、中国や日本の文学にも大きな影響を与えてきました。唐の詩人・王維などは、この維摩詰という人物に私淑し、自らの「維」という名にちなんで、号を「摩詰」としたほどです。鴨長明の『方丈記』なども、維摩の対話した場所が「方丈」であったことに由来しているように、全編に維摩思想が流れていますね。
 池田 『維摩経』が『法華経』に次いで広く読まれた理由には、たしかに文学的な要素もあるかもしれない。あるいはまた『維摩経』が、特定の宗派の依経にならなかったところに原因があるとみる学者もいるね。
 しかし、やはりなんといっても、維摩居士の人間的な魅力、そして大乗仏教の精神を体現した実践力に、人びとは惹かれるのではないだろうか。声聞の十大弟子を向こうにまわし、当意即妙の話術をもって相手を感服させてしまう。また「文殊の智慧」として知られるマンジュシュリー(文殊師利)菩薩との対話にしても、深遠な大乗思想を根本に、見事なやりとりが展開されている。
 だいたい、それまでの原始仏教団が伝えてきた仏教僧の理想は、戒律をきちんと守って、釈尊一代の聖教に通じた、聖者のような出家僧であった。それに対して維摩詰は、商業都市ヴァイシャーリー(毘舎離)に住む富裕な長者で、市民から愛され、親しまれていた。彼は家庭をもち、商売を営み、ときには花街や賭博場にも現れ、そこで大乗の教えを説いていたとされている。これは、僧侶中心の原始教団では、まったく想像もできなかった仏法の実践者であるといえるね。
 野崎 ただ、前にも話題になりましたが、この経典以外には確実な資料の裏付けがないため、はたしてヴィマラキールティという人物が実在したのかどうか、ということが問題になります。
 七世紀にインドを旅行した玄奘三蔵の記録には、ヴァイシャーリーの町に維摩のいたとされる旧宅や、説法したといわれる場所のことが記されていますが、これとて決定的な証拠ではありません。そこからヴィマラキールティというのは、後世の大乗教徒が在家信者の理想像として、架空の人物を創作したのではないか、とみられているわけです。
 池田 それは、どちらともいえない問題ですね。他に裏付ける資料がないからといって、実在しなかったことを証明したことにはならない。
 だいいち釈尊自体を、西洋の学者たちは最初、歴史上の人物とみていなかったわけでしょう。アショーカ(阿育)王についても、つい最近までは、仏教徒によって語り継がれた「伝説上の王」としていたにすぎない。
 また、仮にヴィマラキールティという人物が架空の存在であったとしても、それによって『維摩経』の大乗経典としての価値が低下するわけでもない。そこに説かれた大乗菩薩のあり方、仏法を広く社会に開こうとした維摩詰の実践、有無の二道を超越した存在概念の達観等、すべて大乗教徒の進取の精神をよく伝えていると思う。
 松本 たしかに、二千年以上も昔のインドに、はたしてヴイマラキールティは実在したのか、あるいは架空の人物か――ということは、今日では証明のしょうがないようです。
 ただ、この経典の舞台となったヴァイシャーリー市は、中インドの自由な商業都市として発展していたし、後の大乗興起の源流をなしたとされる大衆部の動きも、ここから出ています。釈尊も生前、この町をこよなく愛し、大勢の弟子とともに何回も訪れている。死の直前にも、故郷のカピラヴァストゥ(迦毘羅衛)をめざして旅に出た釈尊は、このヴァイシャーリー市に立ち寄り、去るにあたって「たヴァイシャーリーは美しきかな」といって名残を惜しんだ、とされています。そこにヴィマラキールティのような、在家の大信者が実在していたと考えて、少しも不自然ではないと思います。
 池田 釈尊の説法を聴いたのは、いわゆる「声聞の弟子」だけではなかった。むろん、初期の教団では、出家した弟子たちに対して多く法門が説かれたであろうが、釈尊の名声が高まるにつれ、在家の信者も続々と増えていったと考えられる。事実、マカダ国のビンビサーラ(頻婆裟羅)王や、コーサラ国のプラセーナジット(波斯匿)王も仏教に帰依しているし、有名な祇園精舎を寄進したとされているスダッタ(須達)長者などは、富裕な資産階級の出であった。
 釈尊は、そうした在家信者に対しては、出家僧とは違った修行法を説き、おのずから教法の内容も異なったものを説いたにちがいない。それが後の大乗経典として結晶化されたものとすれば、その内容は、仏弟子の実践法として「自利」よりも「利他」を重視し、仏法を社会に聞かれたものにするための説法であったと考えられる。
 おそらく釈尊は、自身の悟達以後の五十年の生涯を燃焼させて説き続けた哲理が、後世に正しく伝えられる面では出家僧団に期待を寄せ、それが広く大衆に弘教されていく面では、活動的な在家信者に望みを託したのではないだろうか。そのように考えると、釈尊の説法のなかでは、出家も在家もともにそれぞれの立場と役割とを、差別なく与えられていたということがいえるね。
2  仏国土の建設
 松本 そこで次に、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳の『維摩詰所説経』三巻の流れにそって、ヴィマラキールティ(維摩詰)の人となりをみていきたいと思います。
 まず上巻は、仏国品第一から菩薩品第四までとなっていますが、この説処はヴァイシャーリー市郊外のアームラバーリー樹園となっていますね。
 野崎 アームラバーリーというのは、ヴァイシャーリー市に住む遊女で、きわめて信仰心のあつい女性でした。当時のインドでは、遊女は政府の保護と監督をうけていたわけですが、彼女は容姿が優れていたのみならず、高い教養と知識をそなえ、巨額な財産をもった貴婦人であったとされています。
 そのアームラバーリーが所有していた広大な庭園を、釈尊の教団に寄進したわけです。そのため釈尊は、ヴァイシャーリー市に布教に訪れた際には、いつもアームラバーリー樹園に滞在したとされています。『維摩経』が説かれたこのときにも、釈尊は八千人の比丘と、三万二千人の菩薩とともに、このマンゴーの樹が繁る広大な林園にいたわけです。
 池田 そこへ、宝積ほうしゃくという名の青年を筆頭に、五百人のヴァイシャーリー市の貴公子が、めいめい七宝で飾られた日傘をさして、釈尊のもとを訪れる。すると釈尊は、五百の日傘を合して一つとなし、三千大千世界を覆いつくしてしまった、とある。これは、五百人の小我を否定し、仏の大我を表したものと読めるでしょう。
 仏の威信に打たれた宝積青年は、そこで世尊を称える詩頌を読む。そのなかで有名な言葉が「仏は一音を以て法を演説したもう。衆生は類に随って各々得解す」(大正十四巻538㌻)というところですね。これは、どういう意味かというと、仏の説法は一つであるのに、それを聴く者の機根によってさまざまに理解されている、ということだ。同じ話を聴いても、人それぞれによって受け取り方が違うということは、今でもよくあることだね。
 どんなに立派な法門が説かれでも、声聞や縁覚のような狭い了見をもって聴く人には、仏の大乗の教えは理解できなかった。それに対し、三千大千世界をも包みこむほどの心の広さをもって聴く人には、仏の真意が余すところなく把握できたでしょう。このことは、法を求める側の一念の姿勢が、どんなに大切であるかを、よく示していると思う。
 野崎 身につまされる言葉ですね……。
 さて、そこで宝積青年は、清浄な仏国土を建設するためには、菩薩は何をなすべきであるかを質問しています。それに対して釈尊は、次のように答えている。
 「宝積よ、衆生の国土が、そのまま菩薩の仏国土である。なぜかといえば、菩薩は所化の衆生にしたがって仏土をたもち、その調伏するところの衆生によって仏国土をたもっているからである。また、もろもろの衆生が仏の智慧に入るにしたがって仏土も広がり、人びとが菩薩に備わる根を起こすにしたがって仏土も広大となるから。つまり、菩薩の仏国土というのは、衆生の利益のためにこそあるものなのだ」(前出、参照)
 池田 すなわち清浄な仏国土というのは、なにも西方十万億土の彼方にあるのではない、ということだね。仏国土というのは、これを実現しようと願って衆生を利益する菩薩の実践精神のなかに、すでに現出しているということを、この部分はいっているのです。仏国土を本果ではなく、本因として捉えようとしているところに、『維摩経』のダイナミック性があるね。
 これはまた、地域の広宣流布の方程式を示した文とも読める。その地域に一人立った実践者が、仏の大乗の教えをもって衆生を教化し、仏の智慧に入らせ、一切衆生を救おうとする菩薩の自覚を起こさせるにつれて、その国土は清浄になり、広大となっていくということです。
 松本 これも非常に大切な原理ですね……。
 『維摩経』の方便品第二に入ると、いよいよ問題のヴィマラキールティが登場します。梵語で「ヴィマラ」というのは「汚れのない」という意味で無垢、「キールテイ」というのは「名声」とか「評判」ということで、玄奘三蔵は意訳して「無垢称」と呼んでいます。ところが、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は漢訳にあたり、音読みで「維摩詰」という字を当てたところから、中国や日本では一般に「維摩詰」とか、略して「維摩」と呼ばれるようになった、という事情があります。
 野崎 日蓮大聖人は、維摩詰の意味をとって「浄名」とも呼ばれているところから、御書を拝しても、ほとんど「浄名」とか「浄名居士」とか「浄名経」という呼び方をなさっていますね。むろん、なかには「維摩」とか「維摩経」という表現も見られますが……。
 それはともかく、ヴァイシャーリー市に「汚れのない評判をとった」という名の資産家がいた、と経典は伝えています。彼は在家の仏教者として、巧みな方便力を用い、衆生をよく教化していたと紹介されている。
 池田 経典を読むと、彼の行動半径はきわめて広い。資産家としての彼の経済活動は順調で、その得た利益を広く大衆に還元していたという。悪どい「買占め」などは、しなかったわけだね。(笑い)
 彼はまた、ヴァイシーリーの街のいたるところに現れて、大衆を導いている。学校にも出かけていって、子供たちを上手に教え、世の多くの老人や若者の友ともなっている。そればかりでなく、世間一般の著述にも通じ、バラモン階級や政治家にも愛されている。
 経典には「若し大臣に在りては、大臣中の尊として、教うるに正法を以てし」(大正十四巻539㌻)とあるから、彼は選ばれて大臣を経験しているのかもしれない。共和政体をとっていたヴァイシャーリー市としては、考えられることですね。いわば、彼は一国の名士でもあったわけだ。
 野崎 ギリシアのアテネにおけるソクラテスのような一面もありますね。もっともソクラテスは資産家では、なかったけれども……。
 池田 うむ、肥えたソクラテスか(笑い)。しかし、ソクラテスはアテネの市民に容れられなかったけれども、維摩詰はそうではなかった。彼が病気になったときには、国王、大臣、長者、居士、婆羅門、および諸王子、ならびにその他の官吏等、数千人もの人が見舞いにきた、とされている。それほど彼は、ヴァイシャーリーの市民に愛され、親しまれていたことになる。
 松本 そこで、アームラバーリの樹園に滞在していた釈尊としても、教団からだれかを見舞いにつかわすことになる。弟子品第三、および菩薩品第四では、釈尊の十大弟子と、マイトレーヤ(弥勒)など四人の菩薩が、次々と使者に指名されるが、みな過去に維摩詰から痛い目にあわされているので、とてもその任には堪えられないといって、辞退してしまう。その経緯が記されていますね。
 野崎 その一例として、智慧第一と謡われたシャーリプトラ(舎利弗)の場合は、彼が樹下において坐禅を組んでいたときのことであった。そこへ維摩がやってきて、舎利弗に坐禅のあり方を説く。
 「シャーリプトラよ、坐ることが坐禅とは決まっていません。そもそも坐禅とは、三界にあって身も心も現さないものです。また、身心を減却した境地のまま、自然に威儀を現ずることです。さらに、仏道を求めながらも、世俗の日常生活(凡夫事)も立派におこなうことができる。それが坐禅というものです。……」(前出、参照)
 このように言われた舎利弗は、返す言葉もなく、黙然としていたというのです。そのようなことがあったので、シャーリプトラは維摩詰の病気を見舞う任には堪えられない、と釈尊に断る。
 池田 ここは、大乗仏教の立場から、小乗の声聞弟子を弾呵している段ですね。すなわち、形式主義に堕していた小乗教徒の修行のあり方を、内容、実質によって打ち破っているところに、大乗の精神がみなぎっている。
 面白いのは、釈尊の十大弟子の一人一人に自ら語らせ、自分たちは大乗の菩薩である維摩詰にかなわないことを告白させていることだ。経典の構成としても、非常にドラマチックで、よくできていると思います。
 ただ残念なのは、あまりにも二乗を攻撃するのに急なあまり、ちょっと度が過ぎるきらいがなくもない。たとえば舎利弗などは、『維摩経』では最初から最後まで、完全に道化役にされてしまっているね。しかし実際は、教団にあって、舎利弗をはじめとする十大弟子が重要な役割を果たしているわけです。
 御書に「此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候、詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくがたし・いわうや他人をや」と仰せです。つまり『維摩経』は、終始「二乗不作仏」の段階にとどまっている故に、『法華経』の高さには遥かに及ばなかったといえる。ただ、法華経への橋渡しの役は果たしている。その意味で「郎従」とあるのでしょう。
 野崎 『法華経』と『維摩経』とは親類関係にあったのではないか、とみる向きもあります。それにしても、差別観にとらわれないはずのヴィマラキールティが、二乗と菩薩との違いに変にこだわりすぎているのも、おかしな話です。そこに『維摩経』の欠陥があったとも考えられます。
3  菩薩の利他の実践
 さて、羅什三蔵訳の『維摩経』では、問疾品第五から入不二法門品第九までが中巻をなし、舞台はいよいよヴィマラキールティの病室である「方丈」に移ります。
 維摩詰の病気見舞いの役を引き受けたマンジュシュリー(文殊師利)菩薩が、八千の菩薩と五百人の声聞弟子、それに百千の天人を従えていく。この場面は敦煌莫高窟の壁画にも描かれていますが、維摩と文殊が対話することになれば、さぞかし面白い話が聴けるであろうと思って、みな胸をわくわくさせてついてくる。
 野崎 文殊菩薩の一行を待ちうけていた維摩居士は、方丈を空っぽにして寝台だけを置いていた。不思議なことに、わずか三メートル四方の方丈の部屋に、やって来た全員が入ってしまうのですね。合理的な思考法の持ち主には、ちょっと理解しにくい話ですが……。
 池田 それは、舎利弗が懐いたのと、まったく同じ疑問であった(笑い)。不思議品第六において、維摩詰が答えている。
 「シャーリプトラよ、あらゆる仏と菩薩が得ている悟りに、不可思議と名づける法門がある。もし菩薩にしてこの悟りに入ると、あの広大なる須弥山も、小さな芥子粒の中に入れても増減することがない。須弥山の眺めも元のままであるし、四天王や忉利天はどこに自分たちが入ったかを覚知することもない。ただ、まさに悟りを開く者のみが、須弥山が芥子の中に入ったのを知っているだけである。これを不可思議解脱の法門と名づけるのだ」(大正十四巻546㌻、参照)
 要するにこれは、大乗の「空」の思想を説いているところですね。文殊と維摩との対話も、そのやりとりは、すべて「空」の立場を踏まえて展開されている。それは、入不二法門品第九にいたって、さまざまな角度から考察が加えられ、有るのでもなく無いのでもなく、生ずるのでもなく滅するのでもなく、有為でもなく無為でもなく……といった、思議すべからざる「不二」の法門、すなわち絶対的一元論の世界が打ち出される。
 松本 そのような境地を得るためには、菩薩はいかなる実践をなすべきか、ということですが……。
 池田 そう、そこが大事なところですね。問疾品第五では、文殊が維摩に病気見舞いの口上を述べ、なぜ病気になったのかを訊いている。それに対して維摩は、菩薩が病むのは一切衆生を救わんがためであるとして、それは大慈悲心によるものであると答える有名な件があるね。ちょっと長くなるが、そこを読んでみたらどうだろう。
 松本 有名な一節ですので、格調高い鳩摩羅什訳の読み下し文で読んでみます。
 「癡より愛あり、則ち我が病、生ず。一切衆生の病むを以て是の故に我れ病む。若し一切衆生の病、減せば、則ち我が病も減す。ゆえんはいかん。菩薩は、衆生の為の故に、生死に入る。生死あれば、則ち病あり。若し衆生、病を離るるを得ば、則ち菩薩は、復病む無し。譬えば、長者に唯一子あり、其の子、病を得ば、父母も亦病み、若し子の病愈ゆれば、父母も亦愈ゆるが如し。菩薩も是の如し。諸衆生に於て之を愛すること、子の若し。衆生病めば、則ち菩薩も病み、衆生の病愈ゆれば、菩薩も亦愈ゆ。又『是の疾は何の所因より起れる』と言うは、菩薩の病なるものは、大悲を以て起るなり」(大正十四巻544㌻)と。
 池田 これでみると、維摩の病気というのは、肉体的な不調というより、精神的なものですね。一般的にも、健康体の人には病人の苦しみはわからないといわれるように、他人の苦しみをわが苦しみとしてともに悩むということは、なかなかできないものだ。仏は「少病少悩」といわれるけれども、一切衆生の異の苦しみをわが苦しみとして悩むところに、仏法の精神があるといえる。
 ところが、小乗の二乗というのは、その釈尊の精神を忘れて、自分だけの修行の完成を追求していた。それに対して大乗の菩薩は、利他の実践によって仏になろうとしていたので、まず衆生の苦しみをわが苦しみとする境地に立たなければならない。
 ――維摩居士のいわんとしているところは、そこにあったわけですね。
 野崎 また維摩詰は、菩薩の実践について次のように述べています。
 「あらゆる仏国土は、虚空のように生滅もなく、永遠であることを観じながら、しかも仏土を清浄にするために、さらに精進努力する。これが菩薩の実践である。仏道を求め、法を説き、涅槃の境地に入っても、なお菩薩としての修行を捨てないのが、まさに菩薩行というものだ」(大正十四巻545㌻、参照)
 この話を聞いて、マンジュシュリー(文殊師利)とともに来た八千の天子が、無上の悟りを得た、と説かれています。
 池田 すなわち大乗の菩薩というのは、自ら菩薩としての修行をまっとうするとともに、この現実社会に仏国士、つまり理想世界を建設しようと努力する者だ。声聞の阿羅漢のように、自身の煩悩を断滅することのみに汲々とするのではなく、煩悩即菩提、生死即涅槃の境地にあって、絶えず衆生にはたらきかけ、仏国土を建設しようとする。そこに大乗の菩薩の崇高な使命があるといえよう。
 松本 そのような維摩と文殊の「菩薩」に関する格調高い対話が一段落すると、ヴィマラキールティ家に仕えている天女が、とつぜん現れ、美しい天の花を降りそそぐ。ところが、菩薩たちの身体に降りかかった花は地に落ちたけれども、声聞の弟子たちの身体には、ぴたッとくっついて離れない。
 野崎 面白いですね。舎利弗などは盛んに振り落とそうとするが、なかなかとれない。(笑い)天女は笑いながら、舎利弗に訊く。
 「シャーリプトラさま、なぜ花を取ろうとなさるのですか」
 すると、舎利弗が答えていう。
 「天女よ、これらの花は、出家の身にはふさわしくないものであるから、取り去ろうとしているのです」(大正十四巻547㌻、参照)
 池田 この維摩家の天女は、なかなかのしっかり者だね。釈尊の教団の「智慧第一」の舎利弗を向こうにまわして、堂々とわたりあっている。
 彼女は、花のほうには分別がないのに、声聞の弟子には思慮分別があるから、花が付着するのだ、という。つまり、生死輪廻の恐怖におののく修行者には、そのすきを魔が狙うように、色・声・香・味・触の煩悩がわざわいをなすということだ。
 野崎 ここで舎利弗は、一本とられたわけですね(笑い)。そのうえ「天女よ、あなたはなぜ女身を転じないのか」と訊いたものだから、たちまちにして天女の神通力により、女性にされてしまう。いまにも泣きだしそうな舎利弗の姿が、目に浮かぶようですね。(笑い)
 池田 そう、二乗というのは、どうしても差別観を抜けだせないようだね。一切平等の仏法の立場からすれば、「男女は嫌うべからず」であって、天女も「一切の諸法は、非男非女なり」という釈尊の言葉を引いている。舎利弗が女身になり、天女が変じて男子となるという設定は、『法華経』の「変成男子」の思想に近いものがある。
 それから、この天女の話で重要なのは、維摩の家に入った者は、だれでも仏の功徳の香りを願い、悟りを求める心を起こして出てくる、といっているところですね。ほんとうに立派な信仰者の周辺には、やはりそれだけの感化力があるということでしょう。

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