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日蓮大聖人・池田大作

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6 大乗興起の要因  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  松本 仏滅後五百年前後の、いわゆる大乗興起については、その具体的な様相を伝える決定的な資料が乏しいために、さまざまな説がなされています。ここでは、それらを整理しつつ、仏教史上、大乗仏教が興起したことが、どんな意義をもったかといった点を考えてみたいと思います。
 池田 大事なテーマですね。――もし大乗仏教が興らなければ、仏法はインドから中国へ、そして日本へと伝わらなかったかもしれない。というのは、小乗教団はあくまで出家した修行僧の集団であり、その実践も世俗社会から遊離したものだ。そのような宗教は、それ自体、布教精神を欠いてしまうし、社会のほうでも受け入れることがむずかしい。
 中国人や日本人は、インド人と違って現実主義者だから、小乗的思想にはあまり興味を示さなかっただろうね。仮に入ってきたとしても、一部の人間の趣味のようなものになってしまったにちがいない。やはり日本や中国は「大乗有縁の国」といわれるように、大乗仏教だからこそ仏法が広まったと思われる。もし仏教が小乗的な教えのままにとどまっていたとすれば、とっくに滅んでしまったのではないだろうか。
 野崎 おそらく、そうだと思います。インドでも、西暦前三世紀のアショーカ(阿育)王の時代には隆盛をみましたが、それ以後はまたバラモン教が勢力を盛り返し、仏教は後退の一途をたどっています。それは、バラモンがインド社会と一体化していたのに対して、小乗的な部派仏教は世俗の社会から離れた閉鎖集団であったと同時に、自ら分裂を繰り返しながら、互いに閉鎖集団化していった事実にもよります。
 松本 この時代、歴史的には前一八〇年にマウリヤ王朝が崩壊し、その後は西インドのバラモン出のシュンガ王朝が支配して、バラモン教が国教化されています。さらに前一世紀の中ごろには、カリンガ地方のカーラヴェーラ王が熱心なジャイナ教徒で、そのため仏教徒は、かなり長いあいだ迫害を受けています。
 池田 その間、まことに残念なことだが、部派仏教は十八から二十派にも分かれて抗争を続けていたということだね。
 いかなる組織・団体においても、最も恐れなければならないのは「破和合僧」、つまり内部からの分裂ということだ。とくに思想・理念によって立った組織においては、内部抗争、分裂は、その思想・理念の破綻を意味する。つまり、その当事者が本来の理念を忘れて互いの抗争のほうに気を奪われてしまっているのだから、その思想・理念で外部に働きかけるととなどできるはずがない。ましてや仏法は、人間に潜むエゴの魔性をいかに乗り越えるかという内面の根本問題に光を当てているものなのに、その修行者が自身のエゴからくるセクト主義に陥っていては、どうしょうもない。
 この時代に、インドの各地において大乗教徒が興起した背景の一つには、そのような伝統的教団の内部抗争を克服しようとした改革的な動きが考えられる。いわば、彼ら大乗教徒の運動は、仏教内の「宗教改革」であり、仏教復興運動として捉えることができるね。しかも、政治的勢力による弾圧の危機に直面したことによって、彼ら大乗仏教徒は、さらに仏教者としての自覚に奮い立ったのではないだろうか。
 野崎 たしかに、政治権力からの攻勢に対して、どのように対処するかは、当時の仏教徒にとって重要な課題であったと思われます。そこに小乗教的な行き方と、大乗的な立場との微妙な違いもあるようです。
 後に大乗教徒によって「ヒーナヤーナ(小乗)派」と貶称された部派仏教団は、どちらかといえば「政治的なもの」には没交渉的でした。悪くいえば、現実から逃避し、閉鎖的な僧院生活に逼塞していたと思われます。その結果、政治的立場も暖昧で、国教化されたバラモン教からの攻勢に対しても、やや妥協的であったとされています。
 それに対して「マハーヤーナ派」と呼ばれた大乗教徒は、バラモン教徒とも積極的に論争し、それを打ち破っている。彼らは僧院に閉じこもるのではなく、仏法を社会に開かれたものにした。大乗の諸経典には、政治上の権力者である「王」の在るべき姿も説かれ、仏法の理念である「法(ダルマ)」の立場から政治にも発言している。それだけ弾圧も厳しいものがあったが、その弾圧をはねのけて社会に挑戦しようとするエネルギーがあった。そこに、大乗と小乗との違いがあるように思います。
 池田 それもまた大乗仏教を生みだした要因の一つと考えられるね。
 しかし、いわゆる「政治と宗教」の問題は非常にむずかしいものがあって、あっさりと結論を出せるような問題ではない。おそらく部派仏教の側にも、それなりの言い分はあったのではないだろうか。彼らとしては、まず仏教の正統を受け継ぎ、それを後世に伝えるということが至上目的としであった。そのため、政治に関心を示すことは、かえって弾圧を招く動機になると考えたのかもしれない。
 だいたいクシャトリヤ(王族)出身の釈尊自身が、自ら王となって政治をとるべき立場であったにもかかわらず、それを捨てて出家し、より高い次元の生き方を求めている。釈尊の求道生活は、政治よりも深い次元への探究であったわけだ。深く広い大河のような精神領域での指導性、そこから生まれる人間的な普遍的理念――そこに釈尊の関心はあったし、その確立こそ人類永遠の課題であるとの自負もあったにちがいない。
 しかし、ここで考え違いをしてはならないのは、政治と宗教とは、たしかに別次元のものではあるが、だからといって、宗教者が社会と没交渉であっていいということではない。菩提樹の下で成道した釈尊は、その悟りを自分一個のものにとどめておくのではなく、自らの悟達を全人類の共有のものとするため、仏法流布の旅に出立した。
 ところが、部派仏教の僧侶たちは、世俗の権威から超然とするばかりで、山林に閉じこもり、アビダルマ(阿毘達磨)研究に専念する傾向が出てきた。すなわち「自利」のみを求め、大衆を化導する「化他」の実践がおろそかになったと考えられる。
 そこで大乗教徒たちは、自らの仏道修行はもちろん、苦悩に沈む大衆を広く教化していくことにこそ、釈尊の本来の精神があったのではないか――そのように主張した。つまり、小乗部派仏教が「阿羅漢」をめざしたのに対して、大乗教徒たちは「菩薩」たらんとしたわけだね。
 松本 たしかに大乗の経典群を読むと、どれもこれも「社会への挑戦」といった菩薩の精神が横溢していますね。
 池田 そう。それも重要なポイントだ。『維摩経』などは、在家の大信者であるヴィマラキールティ(維摩詰)が、社会的にも大いに活躍するさまを描いているね。だから、小乗部派仏教が僧侶中心であったのに対して、大乗仏教は在家信者のあいだから興ってきたのではないか、とする割りきった考えもあるようだが、しかし、大乗仏教は、必ずしも「在家」だけのものではない。やはり当時のインドにおいては、出家の比丘を尊敬する気風があったし、教義的にも大乗仏教は非常に高度なものがある。
 したがって考えられるのは、教団内にあって非常に優秀な、目覚めた出家比丘があって、部派仏教的な行き方にあきたりない者が、在家の生きいきとした進取の気概に富んだ信者と呼応しつつ、仏教の改革に取り組んだのではないだろうか。
 野崎 そういった流れは、時代はやや後になりますが、有名な詩人比丘のアシュヴァゴーシャ(馬鳴)や、大乗論師のナーガールジュナ(龍樹}の伝記にもうかがえますね。とくに馬鳴菩薩などは、最初、部派仏教の有力な一派であった説一切有部において具足戒を受け、やがて大乗の側に投じている。ナーガールジュナも、後のヴァスバンドゥ(世親)なども、同じく小乗から大乗に移っていますね。
 松本 ただ、それはかなり後期の、大乗仏教の教義が体系化されていく段階の現象ですね。やはり初期の大乗興起の段階では、在家信者というか、少なくとも在家菩薩の役割を見のがすことはできません。
 池田 ところで在家信者の寄進になる「仏塔」信仰と、この時代の大乗興起とのあいだに、なんらかの関連があるらしいね。ちょうど前三世紀ごろから後三世紀にかけて、インドでは商業活動が活発になったことを反映してか、富裕な在家信者が巨大なストーパ(仏塔)を盛んに建てている。
 これは釈尊の死後、とくに在家信者のあいだに釈尊の人格を慕う動きが高まり、三十二相八十種好といった神格化とともに、各地に仏塔を建てることが盛んになった。それが、上座部系統の流れをくむ部派仏教の行き方とは違う面があるところから、大乗興起の一つのあらわれだったのではないかと考えられている。仏塔の周辺には、やがて「出家菩薩」も住むようになり、僧院も建てられて、そこから大乗教団が形成されたのではないか、とも推察されているね。
 要するに、これまでみてきたさまざまな要因が相互に関連し、重なりあって、大乗仏教の興起があったのではないだろうか。なにしろ二千年以上も昔の出来事であるから、どれが決定的な要因であるかは、そう簡単に決められるものではない。大事なことは、歴史的事実として、大乗教徒が小乗的な部派仏教を乗り越えたということです。この一点を見失ってはならないと思う。
2  大乗と小乗の違い
 松本 そこで次に、一般に小乗仏教と大乗仏教といわれるものの違いを概観してみたいと思います。これによってまた、いわゆる大乗興起の謎が、別の面から解けてくると考えられるからです。
 野崎 大乗と小乗の違いについては、すでに多くの仏教学者が明らかにしています。みなそれぞれ一理あるのですが、ここでは水野弘元氏が、いわゆるアビダルマ仏教と初期大乗仏教との相違点として六つを挙げていますので、それを参考にしつつ話をすすめたいと思います。(『大乗佛教の成立史的研究』〈宮本正尊編〉所収、「部派佛教より大乗佛教の展開」、三省堂)
 まず第一に、小乗部派仏教が「阿羅漢」になることを目的とした声聞思想(声聞乗)であったのに対し、大乗仏教は「菩薩」の修行・実践によって成仏をめざす菩薩思想(菩薩乗)であった、という違いがあります。
 この点は、いかがでしょうか……。
 池田 それは明確な違いですね。すでにさきほども少しふれたように、小乗部派仏教の僧侶たちは、仏を自分たちよりも、比較にならないほど高い存在とみて、ともかく自分たちは阿羅漢(聖者)になることだけをめざしていた。彼らには、自分たちが仏になれるとは、まったく考えも及ばないことであった。――これは、原始仏教教団に特徴的な考え方で、そのために彼らは四諦・八正道の修行につとめている。
 しかし、阿羅漢をめざすといっても、そう簡単になれるものではない。どんなに修行を積んでも、生きながら聖者のような人格の持ち主は稀なものだ。
 結局、部派仏教は煩瑣な戒律主義に陥り、民衆救済をめざした仏教本来の生き方から遠ざかってしまった。だいいち釈尊が入滅した後は、だれが阿羅漢果を得たことを証明するのか、わからなくなってしまう。大衆部系統からの「大天の五事」といわれる阿羅漢批判も、そういった理由から起こってきたわけだね。
 そこで大乗教徒たちは、阿羅漢果よりも、いきなり仏果をめざすようになる。――仏は釈尊一人だけではない。仏が成道する以前に、菩薩としての修行を積んだように、修行すれば誰でも仏になれるはずだ。――彼らは、そのように考えた。これは、釈尊滅後の出家教団にとっては、まさに驚天動地の、革命的な考え方だったわけですね。
 では、菩薩の修行とは何か。それは、布施行を中心とした六波羅蜜の修行である。といっても、ここにいう「布施」とは、教団に対して金銭や物品を寄進するのが本来の意味ではない。人間苦に悩む民衆に対して、菩薩が法の布施をおこなうことです。つまり、折伏と摂受の化他行を意味する。そこを勘違いすると、六波羅蜜を説きながら、信者に「お布施」を強要することになってしまう。(笑い)
 松本 ちなみに、ここで「菩薩」という言葉の意味も明確にしておきたいと思います。ナーガールジュナ(龍樹)の作とされる『大智度論』(第四巻)には、次のようにあります。
 「菩薩の心は、自らを利し他を利するが故に、切衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切賢聖のために称讃せられるが故に、是れを菩提薩埵と名づく」(大正二十五巻86㌻)
 ここに「菩薩」の定義が明確にされていますね。梵語で「ポーディサットヴァ」というのが、音写されて「菩提薩埵」と表現され、略して「菩薩」と呼ばれるようになりました。『大智度論』には、さらに簡単明瞭にご切衆生のために、生老死を脱するが故に仏道を索む、是れを菩提薩埵と名づく」(前出)とされています。
 池田 つまり「菩薩」というのは、自らを利するだけではない。一切衆生を済度するために仏道を求めるものである。そこに、小乗部派仏教の「声聞」や「縁覚」との、根本的な違いがあるといえるね。
 『大智度論』には、また菩薩の資格について次のように書かれている。
 「大誓願あり、心動かす可からず、精進して退かず。是の三事を以て、名づけて菩提薩埵となす」(前出)
 すなわち、一切衆生を救おうとする大願と、不動の決意と、勇猛精進の三条件がそろって、初めて大乗の菩薩といわれることを忘れてはいけない。
 野崎 次に、アビダルマ仏教と初期大乗仏教の違いについて、水野氏が挙げている第二は、業報思想と願行思想との違いです。前者が業報輪廻の苦を離れようとする他律主義(業報思想)であったのに対し、後者は成仏の願行のために自ら悪趣に赴く自律主義(願行思想)であった、というものです。
 池田 これも大事な点だね。――むろん、釈尊は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。苦の人生を離れようとするのではなく、生老病死の苦を明らかにみて、それを克服しようとした。そこに仏教の真髄があったわけです。
 そこで、この人生の受け止め方に二つの姿勢がある。一つは、苦は業としてわれわれを苦しめ、縛りつけるものであるという捉え方で、小乗教徒は煩悩を断じ、輪廻の苦界を脱することによって、無苦安穏なる境地を得ようとした。そのために、肉体の死後に「無余涅槃」を得ようと修行したわけです。このような彼らの人生に対する姿勢は、必然的に受動的、他律的なものとならざるをえない。
 それに対して大乗教徒は、この人生の苦は自分が衆生を救済するために、願って受けているのだと捉える。そして、苦の世界を避けるのではなく、自ら誓願して悪趣苦界に赴き、一切衆生の苦をわが身に受けようとする。ヴィマラキールティ(維摩詰)の有名な「一切衆生病む故に我また病む」というのは、そうした菩薩の境位をあらわした言葉ですね。つまり、二乗は受動的、他律的であったのに対し、菩薩の生き方は能動的、自律的であるわけです。
 野崎 水野氏の挙げる第三の違いは、アビダルマ仏教が自己一人の完成のために修養、努力する自利主義(小乗)であったのに対して、初期大乗教徒は一切衆生を救済し、社会全体を浄化、向上せしめる利他主義(大乗)であった、とするものです。
 池田 これは、すでに今まで何度も述べてきたのと同じことですね。「大乗」というのは、一切衆生を済度する大きな乗り物という意味で、それに対し「小乗」は、自分一個を済度するにとどまるから、小さな乗り物であるという譬喩です。
 それにしても、これはじつに見事な譬喩となっているね。むろん「小乗」というのは、大乗教徒がアビダルマ仏教をさして呼んだものだけれども、その呼び方に両者の違いが的確に表現されている。部派仏教の側は「大乗非仏説」論を展開して対抗したけれども、もはや大乗興起の潮流を押しとどめることはできなかったわけだ。
 松本 なんといっても、大乗の菩薩たちは一般民衆の圧倒的な支持を受けていたから、強いですね。いくら部派仏教の側が「大乗は仏説に非ず」と叫んでも、釈尊の本来の精神は衆生済度の大乗菩薩側にこそあることを在家信者はよく知っていたから、彼らは惑わされなかった。やがて部派仏教側の僧侶も、続々と大乗教団に投じて、そこに一種のなだれ現象が生じたものと思います。
 池田 たしかに、そう考える以外に、大乗仏教徒の一斉興起という現象は説明できないね。おそらく、それは壮大な規模の「仏教復興」運動であったと思われる。
 野崎 さて、小乗と大乗の違いの第四点として、水野氏は次の点を挙げています。それは、アビダルマ仏教が聖典の言句に滞り、事物に拘泥執着する有の態度(有)が強かったのに対して、大乗教徒の行動は、すべて般若波羅蜜の空無所得、空無碍の態度(空)であった、というのです。
 これはどういうことかというと、保守的なアビダルマ仏教は、釈尊の説法を金言と仰ぎ、教団統制のための戒律を厳格に守って、仏典の語句をいちいち金科玉条としていた。その結果、すべて経文を形式的、表面的に解釈するようになり、いきおい訓詰注釈のアビダルマ研究に流されてしまった。それに対して大乗仏教は、経典の文言にとらわれるのではなく、立体的にして融通のきく空無碍の立場に立ち、釈尊の本来の精神に立ち返って経文を解釈するという「依義判文」(義に依って文を判ずる)の行き方であった、というものです。
 池田 これは、現代の学問論にも通ずる重要な指摘だね。生きた現実を忘れた議論というものは、煩瑣な訓詰注釈に流れがちなものだ。もちろん、原典を厳密に検討することは大切だが、そこにある根本精神が何であったかを忘れてはならない。その根本精神を、現実世界のうえにどう実践化するか――これが、あらゆる学問・思想の正しい行き方であるはずです。
 野崎 大乗と小乗の違いの第五は、いまの問題と関連しますが、アビダルマ仏教が理論的・学問的傾向が多く、その理論には実践と関係のない戯論が少なくなかったのに対して、初期大乗教徒は理論、学問より実践信仰を重視し、理論は必ず実践の基礎であるべきで、空理であってはならない、としたところにある。つまり水野氏は、前者が理論的であったのに対し、後者は実践的であった、としています。
 池田 これも大事な点です。宗教者として心しなければならないところですね。釈尊の聞いた仏教というものは、理論や学問として出発したのではない。ドイツの哲学者、カール・ヤスパースも『佛陀と龍樹』(峰島旭雄訳、理想社)の中で「仏陀が教えるのは認識体系ではなく、救済の道である」と述べ、この点に注目しているね。
 当時の思想界にあって、釈尊はバラモン階級が理論のための理論、学問のための学問になりさがっていたのを批判して、それを超克するために民衆のなかに入っていった。ところがアビダルマ仏教は、釈尊が批判したバラモン階級と同じように理論的になり、民衆教化の実践活動を忘れてしまった。
 そこで当然、初期大乗教徒は、仏教をもう一度、現実主義で生きいきした釈尊の時代の本来の精神に立ち戻らせようとしたにちがいない。むろん彼らは、理論的な傾向の強いアビダルマ仏教を批判する意味で実践を重視したけれども、けっして理論を軽視したわけではない。彼らの理論は、あくまで実践と結びついた生きた理論であって、それはバラモン教徒や小乗教徒とのあいだの論争によってとぎすまされ、教義的にも大乗は部派教団を凌駕してしまった。理論と実践を車の両輪にして進んだわけだ。そこに注目しなければならない。
 野崎 大乗と小乗の違いの第六は、アビダルマ仏教が出家的・専門的である(専門化、出家仏教)にもかかわらず、小乗的・世俗的な低い立場であったのに対し、初期大乗仏教は在家的・大衆的である(一般化、在家仏教)にかかわらず、その境地は第一義的な高い立場であった、という点です。
 池田 これも今までに見てきた違いの当然の帰結ですね。あえて繰り返すまでもないことだけれども、専門化と一般化という点についていえば、小乗部派仏教には出家者と在家信者との差別観が根底にあったような気がする。
 これは私一人の独断ではなく、たとえば宮本正尊氏なども「部派仏教は分別差別観に傾き、階級的・アリアン婆羅門的・北印度的である」(前出『大乗仏教の成立史的研究』所収)といっている。すなわち小乗教徒は、専門的な出家僧侶によってしか理解できない教義の研究に没頭して、仏教を閉じた宗教にしてしまった。それに対して大乗教徒は、出家と在家の差別を認めず、仏教を一般化して広く開かれた宗教とした。そこに根本的な違いがあるとみたい。
3  仏教のルネサンス
 松本 一般に「大乗興起」は、仏教七不思議の一つとされていますが、これでほぼ輪郭が明らかになってきたようです。そこで、これまでみてきた要素に加えて、さらに吟遊詩人や在家菩薩、あるいは在家教団の役割に注目してみたいと思います。
 それは、この時代に原始仏教にはない新しい傾向として、釈尊が前世に菩薩であった時代の修行過程を描いた「ジャータカ」(本生譚)や、仏弟子や敬虔な信者に関する物語である「アヴァダーナ」(譬喩集)が、盛んに作られています。ということは、僧院にともってアビダルマ研究に専念する僧侶とは別に、仏教の物語を一般民衆に語り伝える比丘がいたのではないか、とされているわけです。
 野崎 ちょうどそのころは、バラモン勢力からの影響もあって、部派仏教の教団は経典のサンスクリット(梵語)化を進めていたわけですが、これは釈尊が生前に禁じていたことですね。つまり釈尊は、仏法が特権階級の専有物ではなく、広く一般大衆にも開かれたものであるとして、各地の巡行にあたっても、平易なプラークリット(俗語〉で語りかけた。その釈尊の精神を受け継ごうとする比丘たちが、部派教団の行き方とは別に、各地に散って平易な仏教物語を説いていったことは、十分ありうることだと思います。
 池田 たしかに大乗の諸経典を読むと、『法華経』をはじめとして、民衆にもわかりやすい譬喩や文学的表現が多い。随所にちりばめられている偈頌などは、その典型的な例ですね。
 これは、言語の特質も関係していることだが、インド・アーリア語というのは、声に出して朗吟するのに適している。それは、バラモンにおける「ヴェーダ」などにもうかがわれるし、今日でも民衆のあいだで詩劇として人気のあるといわれる『ラーマーヤナ』などもその一つだ。言葉のもつ音の響きをインド・アーリア系の人びとは、とりわけ大事にしたようだ。それだけに、思想を伝えようとする人も、その思想を快い響きをもつ詩の形におさめていったのでしょう。
 思想が生きいきとした力をもっためには、人びとに楽しみながら受け入れられていくのでなければならない。もちろん、仏法のように深遠な哲学を正しく理解するのは、安易な姿勢でできることではなかろう。しかし、少なくとも民衆の心の中にとけこんでいくためには、そうした民衆が聞くのを楽しみにするような形であらわされなければならない。その意味で、経典にみられる譬喩や、壮大な儀式、そして韻をふんだ偈頌といった形式は、インドの民衆の心を捉えた、実践的な表現であったともいえる。
 残念ながら日本においては、仏教の経典は、わかりやすい民衆の言葉に訳されることさえないままに、漢文の音読で今日まできたわけです。したがって、そこにいったいどんなことが述べられているのかも、ほとんど理解されていない。お経とは、わけのわからないものの代名調のようにさえなってしまっているね。(笑い)
 そこで、これは出版社に企画を提供するような話になるけれども(笑い)、最近の仏教書ブームも、各宗派の教義の解説や経典の訓詰注釈だけでは先が見えている。やはり偉大な文豪が出て、仏教のもつ哲理・理念を、日本人の心に最も合った形に仕上げるようでなくては、まだまだ本物とはいえない。
 さらに、世界の各国に伝えられる場合には、その民族に最も合致した表現形式であらわされなければならないだろう。これは、だいぶさきのことになるが……。
 野崎 話はまた二千年前に戻りますが、当時のインドにおいて、はたして在家の教団が存在したかどうか、ということです。
 池田 それは、どういう形態で存在したかという点は今後の研究にまっとしても、やはり私は、在家教団的なものは存在していたと考えたいね。
 たとえば『維摩経』などを読んでも、ヴィマラキールティ(維摩詰)という人物は、在家信者の理想像として描かれたのではないかという説もあるが、単なる想像力だけでできあがったものではなく、なんらかのモデルになるような卓越した在家の大信者がいたと考えられる。また後世、維摩詰に関する経典を成立させた人びとも、原始教団のサンガ(僧伽)とまではいかなくとも、なんらかの組織を形成していたのではないだろうか。
 また『法華経』を伝えた教団自体も、相当に激しい弾圧をくぐり抜けてきた、在家の菩薩たちの集まりだったのではないか、とされているね。むろん、在家信者だけの集団ではないだろうが、少なくと僧俗一致、諸民族平等の世界観をもった在家菩薩が、その中核的役割を果たしていたであろうことは想像できる。そうでなければ、あれだけの内容を盛った経典が伝持されるわけがない。
 ともあれ大乗興起は、まさに衰滅せんとしていた釈尊の仏法を、仏滅後五百年前後のインドにおいて生きいきと蘇生させ、やがて仏教が中国から日本へと伝えられ、東方世界に流布する重要な布石となった。その意味で、大乗仏教運動の意義はきわめて大きい。彼らの運動は、まさに文明の転機を促すような、仏教のルネサンスであったといっても過言ではないと思う。われわれもまた、そこから多くの教訓を得ることができる。

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