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日蓮大聖人・池田大作

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3 アショーカ王  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  最も偉大な帝王
 松本 西暦紀元前三世紀のインドには、アショーカ(阿育)王が出現し、仏教は大いに興隆しました。この時代、マウリヤ王朝の版図である全インドはむろんのこと、南はスリランカ、西はギリシア世界にまで、仏教思想が伝えられました。アショーカ王時代のある仏教僧などは、ギリシア人の世界へ行って
 教化したところ、七万三千人が帰依して千人が出家し、ギリシア人の世界に仏教が流布した、といわれています。
 池田 アショーカ王といえば、仏に砂の餅を供養した得勝童子の話として、昔からよく知られているね。阿育王の因縁については『雑阿含経』第二十三巻によれば、釈尊がラージャグリハ(王舎城)郊外へ托鉢に出たときのことであった。
 「時に世尊、むらしたがいて行かせたまえり。時に彼の両童子有り。一は上姓、二は次姓なり。共に沙中に在りて嬉戯きぎせり。一は闍耶じゃやと名づけ、二は毘闍耶びじゃやと名づく。遥かに世尊の来りたまうを見るに三十二大人相もて其の体を荘厳せり。時に闍耶童子、心に念じて言わく、『我当に麦を以て(供養)すべし』と。仍て手づから細沙を捧げ世尊の鉢中に著けたり、時に毘闍耶、合掌随喜せり」(大正二巻161㌻)
 ここに上姓(闍耶)とあるのは徳(得)勝童子であり、次姓(毘闍耶)というのは無勝童子である。
 世尊、すなわち釈尊は、この時、砂の餅を微笑しつつ受け取った。すると、側に付き従っていたアーナンダ(阿難)が「今仏世尊は何の因縁を以て、微笑を発したまうや」と問うのである。
 それに対して釈尊が言うには「我今笑うは、其れ因縁有り。阿難当に知るべし。我減度百年の後に於て、此の童子、巴連弗邑パータリプトラに於て、一方を統領し転輪王と為る。姓は孔雀くじゃく、名は阿育あいくなり。正法もて治化し、又復た広く我が舎利を布き、八万四千の法王の塔を造り無量の衆生を安楽にすべし」(大正二巻162㌻)ということである。
 この話は、仏に対する供養の功徳を述べたものとして有名だね。仏法における供養は、品物の多寡や大小によってその尊さが決まるのではない。たとえ砂で作った餅であっても、子供のように純真な、真心からの供養が貴いのです。そこに打算的な心が、少しでも働いてはならない。それは結局、法を大事にし、優れた法をもった人を尊敬するというインド固有の伝統から生まれたものであろう。大人になると、どうしても供養の見返りとして、どんな功徳があるかな(笑い)などと、考えたがるものだね。しかし、それでは、せっかくの福運も、たちまち消えてしまう。
 野崎 たしかに、仏教の説話には、このような教訓的な話が多いですね。最近の仏教ブームで仏教書が多く読まれるのも、自己中心的な世相にあって、醜い利己主義や自己中心主義を超えたものを求める、やみがたい欲求を反映しているのではないでしょうか。
 松本 アショーカ王についても、合理的な西洋の学者たちは、最初は仏教徒の創作になる伝説上の人物としてみていたようです。ところが、一八三七年にカロシュティー文字(アショーカ王時代に使われていた古代文字)が解読され、続々と発掘されるアショーカ王の碑文に照明が当てられるや、その実在性が確証され、H・G・ウェルズ(イギリスの作家・文明批評家)などは「これまでに世界に現われた最も偉大な帝王の一人」として絶賛するまでにいたりました。これはアショーカ王が世界で最初に戦争を放棄し、仏教理念を根底に絶対平和主義の政治をおこなったこと、徹底した福祉政策をすすめたこと、などによると思います。
 池田 クーデンホーフ=カレルギー伯も、かつて私と対談した際、アショーカ王について「世界で最高に尊敬したい大王だ」と述べていましたそれは、この時代に高い文化が華開き、戦争のない治世であったからである、というのだ。またJ・B・S・ホールデン(イギリスの生物学者)も「アショーカ王の治世に生まれたかった」といっているね。
 このように西洋人がアショーカ王に憧れるのは、彼が平和と慈悲の政治をしいたからであると思う。なにしろヨーロッパの歴史は、戦争につぐ戦争の歴史であった。口に「平和」を唱えるのは易しい。しかし、人類の歴史上にそれを実現した人は、あまりにも稀です。いかなる思想も、それが人間世界の現実に具現化されなければ、価値を生むことにはならないでしょう。
 その点、すでに二千年以上も昔に、アショーカ王は、自ら「平和の理念」を実証してみせたのです。そればかりではない。仏教徒になったアショーカ王は、すべての生き物を殺すことを禁止したほか、さまざまな福祉政策をおこなっている。仏教の理念が、具体的な政治の場に実現した例として、世界史に特筆されることになった。アショーカ王は、仏教思想を大いに宣揚した政治家として、これからもさらに研究されていくと思います。
 野崎 アショーカ王の碑文は、これからもまだ発掘される可能性がありますので、この不思議な人物については、まだまだいろんなことが判明すると思われます。なにしろ、アショーカ王の実在性が正式に確認されたのが一九一五年になってからで、それまでは伝説的にしか考えられていなかったわけですから……。
 松本 ところで、アショーカ王が即位したのは、西暦紀元前二六八年ごろとされています。北伝仏教の伝承によれば、この年が仏滅後百年、南伝仏教では仏滅後二百十八年とされ、これが仏滅年代を算出する一つの手がかりになっているわけですが、これについては、今後なお研究を要する問題といえます。
 アショーカ王は、灌頂(即位)七年にして仏教に帰依し、ウパーサカ(優婆塞)となりました。しかし、そのときはまだ熱心な信者ではなく、即位九年目にカリンガ国(今のオリッサ地方)を攻め、十万人を殺害し、十五万人を捕虜として他の地方へ移送し。碑文によれば、このときの戦争による惨状を見て、彼は深く心をいため、終生ふたたび戦争をおこなわないことを、固く心に誓ったといわれます。
 池田 カリンガ征服以前のアショーカ王は、一般に「暴悪のアショーカ」といわれているね。伝説によれば、彼は即位するにあたって九十九人の兄弟を殺し、即位後も五百人の高級官更を粛清したといわれる。ところがカリンガ征服以後になると、彼は一大回心をなし、武力による支配に代えて、法による支配を説き、「法のアショーカ」と呼ばれるようになった。
 一口に「法(ダルマ)による統治」といっても、たいへんな難問題です。カリンガ国を平定したといっても、辺境地帯には文明を知らない種族がたくさんいて、反乱の機会をうかがっていたであろうし、バラモンと結んだ反対勢力が、絶えずアショーカ王のすきをねらっていた。
 一説によれば、当時のインドには、百十八の異民族が割拠していたといわれる。とくに西北インドには紛争が絶えなかった。マウリヤ王朝が、インドで最初の統一国家であるといっても、アショーカ王の地位はけっして安泰であったわけではない。
 松本 仏典の伝えるところをみても、アショーカ王は何回も危険な目にあっています。もともと、彼の祖父にあたるチャンドラグプタ(栴陀羅堀多、いわゆる月護王)がマウリヤ王朝を開いたのが、武力による征服であったわけです。紀元前三二七年にマケドニアの大王アレクサンドロス(アレキサンダー大王とも表記)がインドに侵入してきたわけですが、チャンドラグプタはギリシア軍の撤退後、紀元前三一七年ごろに挙兵し、ナンダ王朝を倒して初の統一国家を築いた。
 このチャンドラグプタは熱心なジャイナ教徒で、宰相のカウティリヤは権謀術数にたけ、国中にスパイを放って、いわゆる恐怖政治をしいた。彼は、西暦前三〇五年に、シリア王のセレウコス軍と戦って、これを撃破し、講和条件としてシリアの王女を妃に迎えている。
 アショーカの父のビンドゥサーラ(頻頭沙羅)王も、カウティリヤ流の統治方式をとり、しかも、ビンドゥサーラには十六人の王妃がいて、太子アショーカには百一人の異母兄弟姉妹があったといわれる。まさに、アジア的専制君主の典型のようなもので、彼の地位が内外ともに危うかったのは、当然と思います。
 池田 ギリシア伝説に「ダモクレスの剣」の話があるが、アショーカ王もまた、ディオニシウスが味ったのと同じ危険を、絶えず身に感じていたわけだね。洋の東西を問わず、力によって立つ権力者は、いつなんどき同じ力によって倒されるかわからない。これは権力者の宿命ともいえます。
 ところがアショーカ王の場合は、カリンガ征討の際に、この世の地獄を垣間見たことによって、発心をなし、それまでの権力政治的な行き方を、きっぱりと棄てることになる。小摩崖法勅によれば、彼は自らウパーサカ(優婆塞)となって二年半有余、仏教サンガ(僧伽)に近づいて熱心に精勤すること一年有余にして、いよいよ法(ダルマ)の統治に対する確信を深める。そして、インド史上において並ぶ者のない大王となった。今日、インドではサールナート出土のアショーカ王の獅子柱頭が一国の象徴となっているね。
 アショーカ王が、長い歴史を経た今日なお、このような栄光をほしいままにすることができるのは、けっして国王としての彼個人の力によるものだけではない。釈尊によってインドの大地に植えられた仏法の種子が、多くの仏教信者によって調機調養せられ、アショーカ王にいたって大きく開花したものといえる。
2  絶対平和主義の政治
 松本 そこで次に、発掘された碑文によって、アショーカ王(天愛喜見と自称)の治世をさらに詳しくみていきたいと思います。
 まず、摩崖法勅第十三章には、彼はカリンガ征服による戦争の惨状を述べた後、次のように記しています。
 「また、天愛にとって、これよりも一層悲痛と思われるのは、次のことである。〔すなわち〕そこに住する婆羅門、または沙門、または他の宗派のもの、または在家であり、かれらの中で、これらの尊者に対する従順、父母に対する従順、教師に対する従順、朋友・知人・同僚・親族ならびに奴隷・従僕に対する正しい扱い、および堅固な信仰を実践するものに、災害または殺害、あるいは愛する者との別離が生じる」(『アショーカ王碑文』塚本啓祥訳、第三文明社)
 このように悔謝かいしやしたアショーカ王は、以後は法(ダルマ)による征服を最上となし、法に対する愛慕および法の教勅をおこなうむね誓っています。そして、帝国の諸隣邦へも平和使節を派遣し、戦争を放棄して平和的親好をすすめるよう呼びかけています。
 野崎 ちなみに使節を派遣した先は、南方インドのチョーダ人、パンディヤ人、ケーラララプトラ族、サーティヤプトラ族、セイロン(現スリランカ)などの他、シリア王アンティオコス二世、エジプト王プトレマイオス二世、マケドニア王アンティゴノス二世、北アフリカのキュレネ王マガス、エベイロス王アレクサンドロス二世(あるいはコリントス王アレクサンドロス)など、五名のギリシア世界の王のもとへ使臣をつかわしています。
 池田 まさに画期的なことだね。西洋の学者たちが、アショーカ王の平和外交に驚嘆の眼を向けているのも、うなずけるものがある。
 二十世紀も後半の現代にいたって、ようやく平和共存外交なるものが活発化しているようだが、アショーカ王のそれは、今日の超大国のように巨大な核権力をバックにしたものではない。あくまでも絶対平和主義の仏法理念を根底にした訴えであったわけです。また、一方的に戦争放棄を宣言するということは、並大抵のことではできないものです。わが国の憲法は、戦争放棄を謳った世界でも稀にみる平和憲法であるとされているが、それにもかかわらず現在、世界有数の軍事力をもつにいたっている。
 伝えられるところによれば、法(ダルマ)による統治を決意したアショーカ王は、軍備を削減し、軍隊もパレードとか儀式用に使われるのみであった。農民などは、兵役義務を免除されていたことが、記録にも残されているね。だから、法による統治といっても、国家権力を背景にして民衆に押しつけたものではない、と思われる。
 松本 アショーカ王の統治理念は、たとえいまだ十分に帰服していない辺境人であっても、あたかもわが子と同じ思いをなして接するというほどのものでした。その精神は次の「別刻摩崖法勅」第二章によくあらわれていると思いますので、少し長くなりますが読んでみます。
 「すべての人は私の子である。私は子のためと同様に、〔かれらが〕現世と来世の、すべての利益と安楽を得ることを、願う。また、私は同じことを、すべての人びとのために願う。未帰順の辺境人には、『王はわれわれに対して何を欲するか』との問が生じるであろう。次のことのみが、私の辺境人に対する願いである。〔すなわち〕『天愛はかように願っている』『かれら(辺境人)が私によって恐れることなく、私を信頼し、安楽のみをえて、私からどんな苦をも蒙ることがないように』ということを、かれらに了得せしめること、また、『天愛は私によって容認できることをかれらに容認するであろう』〔こと〕、『かれらが法を実践するように』『かれらが現世と来世の〔利益と安楽〕を得るように』ということを、かれらに了得せしめることである」(前出)
 これは、カリンガ国に派遣された諸々の辺境大官に対して発せられた詔勅です。
 池田 釈尊も「一切の衆生は吾が子なり」といっているね。ここには、四姓平等を説いた仏法の理念が、脈々と息づいているように思われる。また仏教には「衆生の恩」が説かれているが、アショーカ王も自ら一切の衆生に債務を負っていることを認めている。このような政治家が、はたして世界史上に何人いただろうか。
 だいたい古今東西の権力者なるものは、民衆に対して自らの権利のみを押しつけ、上から強権的に支配するのが通例であった。自らが民衆に対して義務を負っているとするような政治家は、数えるほどしかいない。
 このようにみてくると、アショーカ王はたいへんな政治家であったことがよくわかる。彼は、「十四章摩崖法勅」の第六章において、その決意を述べているね。
 松本 ええ、その部分を読んでみます。
 「過去長期のあいだに、どのような時にも、未だかつて政務を裁可し、上奏を聴取することはなかった。故に、私によって次のような〔措置が〕なされた。〔すなわち〕私が食事をしている時でも、後宮においても、寝所においても、畜舎においても、乗物の中においても、御苑においても、どのような時にも、どこにおいても、上奏官は人民に関することを私に奏聞しなければならない。そうすれば私はどこにおいても、人民に関することを裁可するであろう。また、私が口頭で命じる何らかの賜与または布告に関して、もしくは大官のあいだに委任せられる緊急事件に関して、その事のために〔大官〕会議に諍論または再審〔の必要〕が生じた時には、どこにおいても、どのような時にも、ただちに私に〔この事〕奏聞しなければならない」(前出)
 池田 この法勅に明らかなように、アショーカ王は自らおこなう政治が、まさしく歴史的意義をもつことを、よく承知していた。武力によるのではなく、法(ダルマ)にもとづく政治をおこなうのは、歴史上にアショーカ王をもって初めとすることを、ここに宣言しているわけだね。
 松本 そこで、念のために「十四章摩崖法勅」の概要を示せば、次のようになっています。
  第一章 殺生・供犠を禁じる。
  第二章 人畜のために二種の療院を建立し、薬草を栽培し、街路樹を植え、井泉を掘鑿せしむ。
  第三章 五年毎の地方巡察に出ることを命じる。
  第四章 法の宣行を増長すべきことを述べる。
  第五章 法大官を設置する。
  第六章 上奏官に迅速な政務の処理を命ずる。
  第七章 一切の宗派が一切処に住することを希い、克己と心清浄を強調する。
  第八章 過去の諸王の慣行であった娯楽の巡行を廃して、法の巡行を始める。
  第九章 法の祈願と、その功徳を説く。
  第十章 法柔順と、法実行することと、それによる名声と栄誉を説く。
  第十一章 法の布施、法による親善、法の分与、法による結縁を、優れた布施であると説く。
  第十二章 一切の宗派相互の寛容を説き、切の宗派の本質増長を、優れた布施または崇敬であるとなし、法大官、監婦大臣、飼畜苑官に管掌せしむ。
  第十三章 カリンガ征服による惨状を述べ、その悔謝として、法に対する愛慕および法の教勅を行なう。法による征服を最上の征服となし、帝国の諸隣邦へ使臣を派遣する。五人のギリシア玉名を挙げる。
 第十四章 結びの言葉。領土内に銘刻せしめた法勅は、場所の如何によって、簡潔なもの、中庸なもの、詳細なものがある。
 野崎 その他、アショーカ王の法勅には、別刻摩崖法勅、小摩崖法勅、七章石柱法勅、小石住法勅、洞院刻文、皇后法勅などがあり、マウリヤ王朝の版図であったインド亜大陸の各地から発見されていますね。
 池田 当時は、テレビや新聞があったわけではないから、施政の方針を伝えるのに、石や崖を磨いて銘刻したわけだね。そこには、二千年以上の歳月を経て、今日生きいきと現代人に語りかけてくるものがある。残念ながら現代世界の政治家にして、アショーカ王の治世に恥ずべき人が、あまりにも多すぎるのではないだろうか。
3  政治と宗教の関係

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