Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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I 仏典の結集  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  第一結集の背景
 野崎 この「仏教対話」の第一部では、主として釈尊の生涯を中心に、対話を進めてまいりました。
 そこで今回の第二部では、釈尊の入滅以後を扱うことにしたいと思います。
 まず、釈尊が入滅してまもなく、弟子の僧侶たちが集まって、経典を結集したと伝えられています。ところが、なにしろ二千数百年以上も昔の出来事ですので、詳しいことはわかっておりません。経文に説かれた、いくつかの断片的な事実を検討し、それに想像もまじえながら、仏典結集の状況を再構成する以外にないと思います。
 池田 第一回の仏典結集は、釈尊入滅のその年、十大弟子のなかで「頭陀第一」と称せられたマハーカーシャパ(摩訶迦葉)を中心に、アーナンダ(阿難)やウパーリ(優波離)など五百人の比丘が集まって、ラージャグリハ(王舎城)の郊外、サッタパンニグハー(七葉窟)でおこなわれた、とされているね。そのとき、マガダ国の王アジャータシャトル(阿闍世)の援助があったともいわれる。これが、今まで伝えられてきた話ですね。
 松本 当時の遺跡が今も残っていて、写真で見ると、なだらかな山側に洞窟があり、その前に十段ほどの石段があって、さらに広場のようなものも見えます。そこで雨露をしのいで結集にあたったものと思われます。
 野崎 西洋の学者のなかには、この第一回結集自体を疑問視する向きもありますが、『五百結集度』や『集法毘尼五百人』など、南伝・北伝の両大蔵経とも、その事実を伝えています。経典の記述そのものを疑う立場に立てば別ですが、わが国の仏教学者なども、ほとんどが「第一結集」は実際におこなわれたものと認めています。
 池田 あれほど偉大な指導者が死んだのだから、直ちに弟子たちが集まって、釈尊の生前を回想し、その教法を誤りなく後世に伝えようとするのは、むしろ当然のことだね。
 野崎 南伝の『五百結集度』によれば、なぜマハーカーシャパが仏典結集を呼びかけたかについて、そのエピソードが伝えられています。
 それによると、ちょうど釈尊が入滅したころ、マハーカーシャパは多くの比正たちとともに、釈尊の一行に遅れて、パーヴー(波婆)からクシナガラ(倶戸那城)にいたる道を歩いていた。その途上、手にマンダーラヴァ(憂陀羅)の花を持った一人の邪命外道に出会った。マハーカーシャパが、その外道に、先行した釈尊の消息を訊ねたところ、すでに釈尊は、この世にいないことが知らされた。それを聞いて、比丘たちのある者は号泣し、またある者はじっと悲しみに堪えていた、という。ところが、なかに一人の年老いた比正がいて、考えも及ばないような暴言を吐いた。
 「友よ、憂うるなかれ、悲しむなかれ。われらは、かの大沙門より脱することを得たのである。『こは汝らに許す』『こは汝らに相応しからず』とて、われらは苦しめられた。だが、今や、われらは、欲することをなし、欲せぬことはなさぬでよいのである」
 その暴言を、こころよからず聞いたマハーカーシャパは、釈尊の遺骨の跡始末などが終わると、比丘たちに呼びかけて言った。
 「友よ、われらは宜しく教法と戒律を結集して、非法おこりて正法おとろえ、非律おこりて正律すたれ、非法を説くものが強く、正法を説くものが弱くなり、非律を説く者が力を得、正律を説く者が力を失うにいたることに先んぜねばならぬ」(『南伝大蔵経』第四巻、参照)
 こうしてマハーカーシャパは、仏典結集のために五百人の比丘を選び、釈尊の説法を集成する事業に取り組んだ、とされています。
 池田 ありうることだね。今の話は仏典結集の動機の一つとして、うなずけるものがある。
 というのは、人間の心ほど、わからぬものはない。普段は、いかにも釈尊を尊敬しているようでありながら、また法を厳格に修行しているようでいて、その内面では、自分のエゴや狭い視野が根本になっている場合がある。そういう心の本質が、釈尊入滅という場面に遭遇したとき、ふと無意識のうちにあらわれてきたのでしょう。いまの年老いた比丘の話は、それを物語っているね。釈尊は、当時の弟子たちにとっては、人生の教師であり、親のように慈しみ深い存在であると同時に、教団の統率者でもあったわけです。大勢の弟子たちは、畏敬と尊敬の念をもって随順したが、なかには出世間の厳格な修行に堪えられず、世俗の諸惑に負ける者もあったとされているから、釈尊の死によって、不断の精神の緊張状態から解放されたように錯覚した者もいたのでしょう。おそらくマハーカーシヤパは、一人の老比丘の暴言を縁として、釈尊入滅後の教団のなかに、そうした空気が漂っていることを感じ取ったものと思われる。
 ひとつの教団にとって、その最高指導者を失ったことは、重大な危機に直面したことを意味します。バラモン諸派が圧倒的に優勢な当時のインド社会にあって、なんといっても釈尊の教団は、まだまだ新興の宗団であった。その創始者が死んだのだから、教団は中軸となるべき心棒を失ったようなものです。弟子たちの多くは、深い悲嘆にくれたでしょう。彼らは、ぽっかりと心に大きな空洞があいたような、底知れぬ虚脱感を味わったにちがいない。
 釈尊の死は、また教団以外の人びとにも、さまざまな波紋を呼ぶことになる。意地の悪い見方をする者は、教団の自然消滅を予想したかもしれない。教団の創立者が、どんなに立派な人物であっても、後継者に人を得なければ、やがて内部分裂など、いろいろな問題が起こって衰微してしまう。とくにバラモン諸派は、その時が来るのを待っていたのではないだろうか。
 松本 たしかに、当時の釈尊の教団には、とくに傑出した人物はいないと一般には考えられていたようです。『瞿黙目連経』によれば、アーナンダが旧知のバラモンと会ったとき、次のように訊かれています。
 「尊者アーナンダよ、世尊が亡くなられてから、あとにはだれぞ、世尊に等しいような立派な方がおられるか」
 それに対してアーナンダは、このように答えた。「友よ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。かの世尊は、自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方であった。その弟子たるわれらは、世尊の教法と垂範に、後からついていくだけである。すなわち、法の所依がある」(『南伝大蔵経』第十一巻、参照)
 池田 つまり「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)ということだね。先のマハーカーシャパの話が、教団の団結と維持のために仏典結集を必要としたものとすれば、このアーナンダの場合は、信仰の依拠としての経典を必要としたものといえるでしょう。
 『大般涅槃経』によれば、釈尊は死の直前に、集まっていた弟子たちに呼びかけて言った。
 「おまえたちは、私が亡くなっても、指導者がなくなったと思つてはならぬ。私の説いた教えと掟とが、おまえたちの指導者である。おまえたちが今、もし疑いを持っているなら、たずねるがよい。後になって、私が生存中に聴いておけばよかったと、後悔するようなことがあってはならない」と。そして続けて「もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成させなさい」(『南伝大蔵経』第七巻、参照)という、この有名な最後の言葉を遺して釈尊は涅槃に入るわけだ。
 いわゆる「依法不依人」の原理は、ここから出ているわけだが、おそらく釈尊は、自身の死後にさまざまな人師があらわれ、勝手な己義をまじえることを警戒したのにちがいない。仏教学者のなかには、釈尊の生前中から経典結集を準備していた、とみる人もいるけれども、あるいは釈尊自身が、自らの言行録を、弟子に命じて記憶するようにしていたのかもしれない。十大弟子中でも「多聞第一」といわれたアーナンダを、絶えず釈尊に随行するようにさせていたのも、多分そのような意図があってのことでしよう。
 野崎 事実、アーナンダの記憶力は、多くの弟子のなかでも抜群であったようです。どの経典にも、最初に「如是我聞」(是の如きを我聞きき)とありますが、この「我」というのは、ほとんどの場合、アーナンダをさすといわれています。
 松本 また、ジャイナ教が教祖の死後、依るべき典拠がなかったために分裂してしまったことから、釈尊はシャーリプトラ(舎利弗)に命じて、仏教教団の教義を集成するようにさせていた、ともいわれています。
 池田 なるほど。おそらく釈尊は、生前から「令法久住」(法をして久しく住せしめん)との一念を強く持っていたにちがいない。卓越した指導者であれば、絶えず自身の死後の教団のあり方に、思いをこらしているからです。その証拠に、釈尊滅後直ちに弟子たちが集まって経典を結集し、その後も千数百年にもわたって、仏教教団が経典の結集と継承に全力を傾注してきたのは、生前の釈尊の「令法久住」の熱誠が反映したものと考えられる。
2  仏説を合誦した弟子たち
 松本 さて、第一結集の模様については、『集法毘尼五百人』をはじめ、いくつかの経典が伝えています。それによると、まず長老のマハーカーシヤパが議長席につき、アーナンダとウパーリの二人が涅槃経出者として選ばれます。アーナンダは長く釈尊の侍者をつとめていたので、釈尊がいつ、どこで、だれに対して、どのような教えを説いたかをよく知っていた。またウパーリは十大弟子中「持律第一」といわれたほどであるから、戒律については最も詳しい人物であった。そこで、アーナンダが「法」(後に「経」となる)を誦出し、ウパーリが「律」を誦みあげたといわれています。
 池田 アーナンダにしても、ウパーリにしても、単に記憶力が優れていたというだけではない。釈尊の教説が、そのまま二人の体内に血肉化していたのではないか。真剣な求道心をもって、一言一句を全身で受け止めていけば、それは終生、体から離れることはないからです。たとえ師が亡くなっても、体内に息づく師の声が聞こえてくる。「声聞」という言葉があるが、現実の釈尊の声を聞くことができなくなってからは、生命に刻印された釈尊の言説を思い浮かべながら修行したのでしょう。
 また当時は、今のようにメモやテープレコーダーがあったわけではないから(笑い)、弟子たちは釈尊の教えを全身で受け止める以外になかった、と思われる。しかも釈尊の教えは、学問的な知識などというものではない。人生いかに生きるべきか、人間の苦しみは何によって起こるか――そういった「智慧」を開発するものであった。だから弟子たちも、自らの実践をとおして、一つ一つの仏説の真実を確認していったのでしょう。
 あくまでも仏法の修得は、主体的・実践的な修得法によらねばならない。机上の学習や、書物による理解などではない。どこまでも生命と生命との交流のなかに、真実をつかむことができるのです。この点、西洋の、認識を主体とした学問習得法とは根本的に異なっていることを、われわれは忘れてはならない。そこにまた、仏典結集の一つの重要なポイントがあるのではないだろうか。
 おそらく「持律第一」といわれたウパーリの場合などは、彼の日常の振る舞いそのものが、すべて教団の戒律を自然に体現するものがあったのでしょう。いちいち釈尊の説いた戒律を想い起こしながら行動するのではない。彼の一切の行動のなかに、たくまずして戒律が肉化していたものと思われる。そこまで透徹していなければ、数ある弟子のなかで「持律第一」とまでは呼ばれなかったでしょう。
 またアーナンダにしても、体のどこを押しても、釈尊の教えが奔流のようにあふれでてきたのではないか。そうでなければ、あれほど膨大な経典が結集できるわけがない。
 野崎 いわゆる経・律・論の三蔵のうち、経だけでも、重複部分を除いて六千編を超えるといわれています。
 松本 そこで、経典結集の情景ですが、経典によれば、マハーカーシャパが次のように問いかけます。
 「僧伽サンガよ、わが言を聞きたまえ、僧伽にして時よろしくば、長老アーナンダに教法を問おう」
 するとアーナンダが答える。
 「僧伽よ、わが言を聞きたまえ。僧伽にして時よろしくば、わたしは、長老マハーカーシャパが教法を問うのに答えよう」
 続いてマハーカーシヤパが問う。
 「友アーナンダよ、ブッダの最初の説法は、どこで説かれたか」
 ふたたびアーナンダが答える。
 「友マハーカーシャパよ、わたしはこのように聞いた。あるとき、ブッダ(仏陀)は、ヴァーラーナシー(波羅捺斯はらなし)のムリガダーヴァ(鹿野苑ろくやおん)にあられた……」(『南伝大蔵経』第四巻、大正二十三巻448㌻、参照)
 このようにして、釈尊の最初の説法の場面が誦出されると、居並ぶ長老の比丘たちが、みな涙を浮かべ、その場にひれ伏してしまったといわれます。そらく荘厳な、感動的な光景であったと思われます。
 池田 釈尊に亡くなられた後の悲しみが深かっただけに、その説法がアーナンダによって再現されたときには、生前の釈尊の気高い姿が、それぞれの胸中によみがえり、みな感動に身をふるわせて聴いたのだろうね。
 松本 そのあと、アーナンダの誦出したものを皆で吟味し、間違いないものと確認されるや、全員で合誦がっしょうし、それぞれの脳裏に刻印していった、と伝えられています。
 池田 この「合誦」というのが面白い。おそらく、これは一人一人が生命に刻んで、人びとに伝えようとしたからでしょう。経典のなかで偈頌等の韻律を含んだところなどは、仏典結集に参加した者が、釈尊の言説を伝えやすいように配慮した結果だと一般的にはいわれる。また、いま出てきた吟味というととだが、第一結集の当時は、いちいち吟味をして、全員の意見が一致したところで、声をそろえて合誦したのでしょう。だから「第一合誦」とも「第一結集」とも呼ばれている。
 ところで、仏法では「身・口・意」の三業をもって経文を読むべきことが強調されている。それは、さきほども述べたように、西洋の知識中心の学問とは違って、仏説をいかに自分のものとして実践するかが重要だからです。
 同じ釈尊の説法を聴いても、たとえば第一結集の際に参加した五百人の比丘のなかでも、それぞれ受け取り方が違っていたであろうことは、当然考えられる。ある人は、自分に都合のよいように解釈していたかもしれない。あるいはまた、釈尊の説法自体が、相手の機根によっては正反対にとれるようなものもあったでしょう。だから、こうして五百人の比丘が集まって、一つ一つを慎重に吟味し、全員が一致したものを仏説として、教団の共有財産にしていったことは、非常に大きな意義をもつのです。
 つまり、この第一結集によって、釈尊なき後の教団の意思統一をはかったものと考えられる。そういった観点からいえば、現在の資料で推し量るかぎり、この第一結集では、釈尊の生涯にわたる全説法を集めるというのではなく、当時の教団を維持していくうえで、まず必要なものを優先させたものと考えられなくもない。ここは、仏教史のうえで、さらに研究を要するところですね。
 松本 さきほどアーナンダが、旧知のバラモンから、釈尊の教団に後継者がいないことを指摘された話を引用しましたが、それに続いて、マガダ国の大臣ヴァルシャカーラ(行雨)にも同様な質問をうけたことが記されています。
 「アーナンダよ、だれぞ彼の世尊によって、世尊なき後の比丘たちのよるべとして、指名をうけた方でもあるだろうか」
 「大臣よ、そんな者はない」
 「では、長老たちが認めて、だれぞ、世尊なき後の比丘たちの依りどころとして、推薦された方でもあるのだろうか」
 「大臣よ、そのような者もない」
 「それでは、アーナンダよ、比丘たちは、いったい、何に依り、いかにして和合していくことができるか」
 そのとき、アーナンダは毅然として答えた。
 「大臣よ、われらは、けっして依りどとろがないのではない。大臣よ、われらは依りどころがある。法が、われらの依りどころとしてあるからである」(『南伝大蔵経』第十一巻、参照)
 これは、釈尊なき後の教団が、第一結集によって集成された経典を、絶対の依りどころとしていたことを示すものと思います。彼らは、仏説「アーガマ」(阿合、すなわち「聖教」の意)と呼んで、非常に権威あるものとして大切にしていたようです。
 池田 一般に「阿含部」と呼ばれる初期経典は、非常に戒律的な要素が強いですね。学者によっては、このアーガマ全体が僧院の教科書用に編纂されたものではないか、とみる人もいるほどだ。
 なぜそうなったかは、今も述べた当時の教団の事情があるわけだが、さらにいえば、この第一結集に参加した人たち、なかんずく中心の座長になったマハーカーシャパ等の性格が反映していると思う。
 彼は「頭陀第一」といわれるほど、修行には厳格な人物であった。その点では、だれびとも真似のできない真価を持っていたが、全体的にみると、どちらかといえば地味な存在であって、教団内にあってもシャーリプトラやマウドガルヤーヤナのような爆発的人気を博する人物ではなかったらしい。多分、哲学的な深さにおいては、やや欠けるきらいもあったのではないかな。だから、シャーリプトラやマウドガルヤーヤナなどは、生前中には釈尊の後継者であると衆目も一致していたが、マハーカーシャパの場合は、今の話にもあったように、アーナンダでさえ彼の名を出さず、釈尊亡き後の教団に傑出した人物がいないことを認めざるをえなかったのでしょう。
 いちおう第一結集の際には、なによりも功労者であり、重鎮ということで、マハーカーシャパが長老を代表して座長になったが、こういう視点に立てば、五百人の比丘の選出基準自体にも、すでに問題を含んでいたといえなくもない。
 松本 実際、ある直弟子などは「自分は、仏から直接聴いたように、仏の説を修行したい」といっていたようです。また、釈尊の弟子たちのなかには、第一結集に参加できず、地方で独自の活動を展開していた人も、かなりいたようです。後に大乗経典が続々と生まれますが、それは教団の枠にしばられない地方の少数教団によって作られた、ともいわれていますね。
 池田 ですから、釈尊の存命中に、智慧第一といわれたシャーリプトラ、神通第一といわれたマウドガルヤーヤナの二人を失ったことは、やはり教団にとってはたいへんな痛手だったと思う。釈尊自身「シャーリプトラとマウドガルヤーヤナが死んでからは、この集会は、私には空虚であるように思われる」と述べていたほどだから、どんなに嘆き悲しんだか、計り知れないものがあるね。
 この二人が経典結集に参加していれば、あるいは初期経典も、もっと違ったものになっていたかもしれない。いまさら、そのような推測をしてみてもはじまらないが、彼らは釈尊の晩年には、釈尊に代わって法を説いたとされているほどだ。理論においても、実践においても、二人は教団にあって並ぶ者のない双壁であった。だから、この二人が釈尊なき後の教団の中心になっていれば、あるいは仏教の流れは変わったものになったかもしれない。
 ともあれ、その後の仏教の歴史的発展の過程は、マハーカーシャパやアーナンダをはじめとする五百人の比正たちが集まって結集した仏典が中軸となり、非常に重要な意義をもっていた。それが、たとえ不完全なものであったとしても、やはり彼らの「令法久住」の一念が、八万四千の法蔵を生んでいった因と考えられる。
 野崎 われわれ現代人が経典を読み、そこから仏の智慧に発する多くの教えを学ぶことができるのも、当時の弟子たちが直ちに結集してくれたからですね。その意味では、彼らに感謝しなければならないと思います。
 池田 そうです。マハーカーシャパやアーナンダが、釈尊の死後直ちに仏典結集に取り組んだのは、それなりに重要な意義をもっている。彼らの「令法久住」の一念があったからこそ、二千数百年後の今日まで、仏教は脈々と伝えられてきたのです。
3  偉大な宗教者の教え
 松本 一般に歴史上の傑出した人物の死後には、なんらかの形で言行録が残されます。ところが、釈尊にしても、ソクラテスにしても、また孔子やナザレのイエスにしても、みな生前には、なにひとつ著作を残しませんでした。彼らの場合、弟子が言行録を集成し、しかも、それが人類数千年の文明に欠くことのできない源流となっています。
 ところで梅原猛氏は、そのうちソクラテスとイエスの場合は、二人の悲劇的な死をめぐって、多分に弟子が脚色した面が強い、とみています(『仏教の思想』「知恵と慈悲〈ブッダ〉」)。プラトンが、死に直面したソクラテスの姿を描いた『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にしても、またイエスの死と復活を教義化した『聖書』の新約書にしても、歴史的事実と違う部分があることは指摘されてきました。
 その点、仏教においては、初期経典には釈尊の人間的な真実味が感じられるが、後代に編纂された大乗経典になると、いかにも文学的な表現が多く、西洋の学者などは理解しにくいところがある、といわれます。しかし、われわれ東洋の仏教徒からみると、やはり大乗経典のほうに、圧倒的な魅力を感じるのですが……。
 池田 欧米の実証主義を反映して、宗教学者たちの仏教研究も、歴史的事実を掘り起こすことに重点がおかれる傾向にある。もちろん私も、こうした研究が大いに進められることには賛成です。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、歴史的真実に迫るという名目で、現代人の持ち合わせている尺度や見方でもって、歴史上の偉人を裸にしていく、その方法論について一言したい。それが、かえって偉人の実像を浮かび上がらせ、現代の私たちのあいだに深い共感と感動を与えるものであればよいが、ともすれば偉大さの面を故意に無視し、欠点のみを強調することによって、並みの人間に引き下げようとする向きがないでもない。私は、そこに現代人の一種の倣慢さが潜んでいるのではないかと思う。
 いま挙げられた釈尊にしても、またソクラテス孔子やイエスにしても、その言行録には多少の脚色があったとしても、それは人間のあるべき理想を託したものであって、人びとにそれに迫ろうとする勇気と英知を湧きおこさせてきたのです。しかも、事実、そうした脚色をさしひいたとしても、彼らが人類三千年の文明社会にあって、類まれな偉人であったことに変わりはない。
 仏典にしても、『聖書』にしても、あるいはプラトンの著作でもいい、それは単に文学的作品であるのではない。そこには、汲めども尽きない人生の哲学と、偉大な宗教家、思想家の苦闘して得た知恵が、余すところなく語られているのです。もし彼らの言行録が、無味乾燥な歴史的事実の羅列であったとすれば、はたしてこれほど広く、かつ長期にわたって読まれたであろうか。
 とくに釈尊に関して、もう一つ忘れてならないことは、経文にもあるように、釈尊の説法は、すべて衆生をして仏道に入らしめんがためのものであったということです。したがって経典の結集者も、単に釈尊の言行録を整理するような心構えで取り組んだのではない。自ら「仏」と同じ境涯に立つのでなければ、釈尊の説法を理解できなかったであろうし、また後世に仏説を遺すこともできなかったでしょう。経文の一字一句が、すべて金文字の仏説であるというのは、そのような意義をもつことなのです。今われわれが、仏教徒として経巻を持ち、それをもって現代社会に挑戦しようとするからには、仏と
 同じ境涯、すなわち苦悩に沈む大衆に光を与え、真実の生き方を教えきっていける覚倍がなければならないと思う。

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