Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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7 釈尊の入滅  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  晩年の悲事
 野崎 釈尊の入滅前後の模様については、『大槃涅槃経』に詳しく述べられています。これは、成道前後のことが、主として釈尊自身の追憶という形で語られているのと違って、弟子たちの思い出として記録されています。
 ここでは、釈尊が、アーナンダ(阿難)をはじめとする五百人ほどの比丘を連れて、マガダ国ラージャグリハ(王舎城)郊外の霊鷲山を出発して、次第に北上し、マッラ族の住むクシナガラ(倶尸那城)の沙羅双樹の下で入滅するまでの最後の遊行と、その後の葬儀や遺骨分配など、約半年間ほどの事跡が詳しく述べられています。
 池田 この最後の遊行に入る前、釈尊の晩年の悲しい事件が、相次いで起こっている。それは、一つは、釈尊の教団内の双壁であったシャーリプトラ(舎利弗)、マウドガルヤーヤナ(目連)の二人が、ともに死ぬという計報にあったこと、二つは、釈尊の故郷のカピラヴァストゥ(迦毘羅衛)ならびに釈迦族の滅亡ですね。
 シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの二人は、すでに、しばしば出てきたように、教団を支えた二つの柱であった。智慧第一、神通第一と、それぞれの個性は異なっていたが、互いに無二の法友として、相手の長所を認め合ぃ、固い友情で結ばれていたことも周知のとおりです。
 ジャイナ教の記録では、仏教教団は、釈尊ではなくシャーリプトラが統率しているとの一節もあるぐらい、二人の存在は大きかった。いわば、ともに釈尊にとっては、法を嗣ぐべき、最も優れた弟子たちで、釈尊の晩年においては、釈尊に代わって、二人が、それぞれ経を説いたことが、諸々の経典にも出ている。
 さきほどの話にあったように、デーヴァダッタの叛逆で、教団に分裂の危機があったときに、真っ先かけて防いだのも、この二人ですね。
 釈尊は、彼らの生存中、自己の法と教団を継ぐべき人を明確に指定はしなかったが、智慧の面においても、実践、功労の点でも、一際高く輝く指導者であったことは、衆目の一致するところであった。
 ところが、惜しいことに、その二人が相次いで、釈尊よりも早く、世を去ってしまった。
 野崎 シャーリプトラは、病を得て故郷のナーラカ村で死に、ついでマウドガルヤーヤナは、羅閲城で托鉢の行をしていたとき、外道の難にあって没したと説かれています。ほぼ期を一にして、逝去したというのも、不思議な宿命のようなものを感じますが、この二人を同時に失ったことに対する釈尊の心境は、いかばかりであったろうか。――シャーリプトラとマウドガルヤーヤナが死んでからは、この集会は、私には空虚であるように思われる、という意味の経文の一節がありますが、その一端を述べているように思われます。
 池田 たしかに、死期が近づきつつあることを察知している釈尊にとって、二人の死は惜しみでもあまりあるものであったにちがいない。
 この言葉は、それをあらわしているが、もう一面から考えれば、他の弟子が死んでも、彼は同じ気持ちで接したともいえるのではないですか。一人一人の弟子への釈尊の思いやりというものが、にじみ出ている言葉ですね。
 杖とも柱とも頼む愛弟子に先立たれた釈尊の心中は、察するにあまりあるが、さりとて、それで動揺し落胆してしまう釈尊ではない。その悲しみを乗り越えて、さらに教団の転換と発展のために、晩年の生涯を全力を傾けて尽力していったのでしょう。
 ですから、シャーリプトラが亡くなって、失望に暮れている弟子に対し、何を悲しむことがあるのか、汝は、シャーリプトラの死で何を失ったというのか、と厳しく激励している一節も、経文には残されていますね。
 おそらく釈尊は――教団にとって、今後、さまざまな事が起こってくるであろう。世間の姿は、無常である。有為転変、絶えざる変化相が、如実の世間の相である。
 故に、どのようなことがあっても、それに動かされて、自己を見失ってはならない。大切なことは、どんな事象にあっても、その真相を深く把握し、乗り越えていくことのできる、金剛不壊の汝自身の確立である。ここにこそ、仏法の本質があるのであり、世間の無常を知って出家した仏法護持の者にとって、それは百も承知のことであるはずではないか――といった気持ちで、弟子を叱責したのでしょう。ともに、これは、暗に自身の滅後にあっても、動揺することなく、法のもとにあり、自身の確立に励むべきことを説いた遺誠とも考えられます。
 野崎 シャーリプトラとマウドガルヤーヤナの二人が亡くなったとほぼ同じころに、釈迦族の滅亡という衝撃が、釈尊に押し寄せています。
 成道後の釈尊の人生は、けっして平穏ではなかったが、晩年の釈尊の生涯も、波瀾の連続であったことがわかります。
 釈迦族を滅ぼしたのは、宗主国コーサラの新しい国王ヴィルーダカ(波瑠璃)王であった。
 彼は、プラセーナジット(波斯匿)の王子であったが、プラセーナジットが、釈尊の生国に立ち寄って釈尊を訪問している際、王位を奪ってしまった。熱心な仏教の保護者であったビンビサーラ(頻婆裟羅)、プラセーナジットの運命も、激動の波に翻弄されてしまったわけですが、失脚した時のプラセーナジットの寿命は、八十に達していた、とあります。その後、このプラセーナジットは、マガダ国のアジャータシャトルに保護を頼んで、ラージャグリハに向かおうとしたが、その途中で、倒れてしまったといわれています。
 池田 ヴィルーダカ王が、釈迦族を攻めた背景には、父王時代からのいわれがあるといわれている。新興国であったコーサラは、釈迦族が由緒正しい種族であり、学問的にも優れた土壌をもっていることをみて、王室の権威を高めるため、プラセーナジットの妃として、釈迦族の王女を迎えようとした。
 ところが釈迦族には、自尊心があり、成り上がりのコーサラ国王に、王女をそのまま嫁がせることは、プライドが許さない。さりとて武力の点では、コーサラに屈服せざるをえない。当時の釈迦族の王は、そこで一計を練って、自分がかつて婢女に産ませた娘を、王女であると称してさし出した。その婢女とプラセーナジット王のあいだに生まれたのが、ヴィルーダカであった。
 ヴィルーダカは、学生時代に武芸を磨くため、カピラヴァストゥで学んだこともあったが、生来、粗暴で残虐な性質の持ち主であったため、釈迦族の人びとは、彼を憎み、時には公然と、彼の出生の秘密を口にし、婢女の子と軽蔑したこともあったといわれる。
 彼としては、その恨みが積もり積もっていたのであろう。だから王位につくや否や、大軍を率いて釈迦族を攻撃したわけです。
 野崎 九横の大難の一つ「瑠璃殺釈」が、これですね。ただ釈迦族攻撃にあたっては、一挙に進軍したわけではなかったようです。文献にしたがえば、釈尊がそのとき、カピラヴァストゥに滞在して、ヴィルーダカ王を制止したので、いったんは退却したと記されています。
 そして、その後、数回、そうしたやりとりが繰り返されているうちに、釈尊としても、祖国の衰運を知り、次の弘教地に向かっていったといわれています。
 はたして、釈尊の去った後で、ヴィルーダカ王はカピラヴァストゥに攻め入り、ほとんど全滅させたといわれています。こうして、釈尊を生み出した釈迦族は、釈尊の晩年、滅亡したわけです。
 池田 釈尊の晩年は、なんとなく淋しい色調に包まれているね。彼自身が覚知し、彼自身が説いて、人びとを、その酔いから醒まさせた、人間社会を貫く無常が、はからずも釈尊の周辺で立証されるという、皮肉な巡り合わせになっている。
 しかし、そうであればこそ、釈尊は、ますます真実不動の境地の世界を人びとに教示すべく、弘教の旅に出かけていったのでしょう。それは最後に安祥として逝去する寸前まで、いっときも、止まることがなかった。
2  最後の遊行地――クシナガラ
 野崎 釈迦族滅亡のあと、釈尊は一度、マガダ国のラージャグリハ(王舎城)に戻り、そこにしばらく滞在しています。ラージャグリハにいるあいだは、竹林精舎等を根拠地としていたようですが、雨期でない場合は、しばしば郊外のグリドゥフラクータ(霊鷲山)に登り、そこで過ごしたことも記録されています。そして、釈尊最後の遊行も、このグリドゥフラータから出発しています。
 池田 グリドゥフラクータは、法華経の会座の一つとなっているが、このような山で、説法をしたこともあったのだろうか。
 野崎 ええ、いろいろな文献から判断しますと、釈尊は、マガダ国にあっては、このグリドゥフラクータが好きであったのではないでしょうか。それでよく多数の比丘と連れ立って、霊鷲山に登ったといったことが伝えられています。
 ですから、そこで機に応じ、時に感じて、法を説いたという事実も、十分あったと思われます。
 池田 グリドゥフラクータそのものは、そんなに高い山ではなく、だれでも登ることができたようだ。全体に岩山で、『大智度論』によれば、その頂上の岩の形が鷲の形に似ているところから、霊鷲山とつけられたようです。近くには、インドでは珍しく湯も出ており、頂上から見下ろすと、眼下にうっそうとした森林が広がっているそうですね。
 そんなところから出家者にとっては、理想的な場所であったのであろう。そして、ここでも、多数の弟子が釈尊の教えをうけ、それらが後年、数々の経典としてまとめられていったのでしょうね。
 野崎 ええ、最後の遊行のときも、釈尊は、このグリドゥフラクータで疲れをいやし、それから北の方向をめざして、進もうとしています。当時、すでに八十歳。
 しかし、なお民衆化導のため、高齢を顧みず、遊行の旅に出た、その姿は、後人の感動を呼んでいます。
 池田 真の殉教者の実践です。最後の瞬間まで、民衆を忘れず、法のために、布教を貫き通していますね。そして自身の生命も躍動させきっている。精神的には、依然若々しい、清水のような清浄で闊達な境地に住している。
 しかし、肉体的には、かなり衰弱のあとがみられたのはやむをえません。旅の道中に、おいて、侍者アーナンダに、次のように語ったことが『大般涅槃経』には説かれていますね。
 「わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)
 これで見る限り、釈尊は、肉体の衰えをはっきりと自覚している。それで、最後の遊行はクシナガラで終わっているが、地図をみると、ガンジス河を渡って、自身の故郷であるカピラヴァストゥの方向をめざして進んでいったのではないかと想像されます。
 老衰した自己を振り返って、もう一度、故郷の土を踏もうという心境が起こってきたのかもしれませんね。しかし、事実は、その途中のクシナガラで入滅したわけであるが……。
 野崎 最後の遊行の進路は、まずマガダ国のパータリ村からガンジスを渡って、ヴァッジ国に入っています。その途中で、例によって、さまざまな人に、さまざまな説法をしながら進んでいったことは、いうまでもありません。そして、そのつど、法を聞いた人びとに深い感銘を与えている。
 それは、これらの説法が、経典に数多く残されていることから明らかなのですが、いまさらながら、一瞬一瞬に全力を尽くして、人びとの心に覚醒の火を点じていった、この巨大な宗教者の、広く豊かな魂に、心を洗われる思いがしてきます。それはさておき、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリー(毘舎離)の郊外の林に、釈尊が着いたとき、有名な話が残っています。
 その林は、アームラリーという娼婦の所有する林であった。この娼婦は、かねてから釈尊に帰依しており、釈尊が自分の林圏に来ると聞いて、さっそく、釈尊のもとに駆けつけた。そして、そこで法話を聞いた感謝の意として、食事に、釈尊を招待することを申し出た。
 林では、このあと釈尊の来臨を聞き、駆けつけた貴公子たちで賑わった。釈尊は、これらの高貴な人びとにも、心から法を説き、彼らを感激させた。釈尊の説法を聞き、喜んだ彼らは、アームラパーリーと同じく、食事に釈尊を招待することを申し出た。しかし、この申し出に対し、釈尊は、すでに娼婦アームラパーリーとの先約があることを告げ、丁重に断ったといわれている。これは、釈尊が、どんな人にも、身分の隔でなく平等に対したことをあらわす有名な美談の一つですが、先約を守るという世俗のルールも、尊重していたことをあらわしています。こんなことは当然のように思われますが、釈尊は、社会人としては、ある意味では、最も常識的であり、人間的であったことを示す例ともいえると思います。
 池田 釈尊には、超人格的な形容がつけられて、われわれも、そうしたイメージでみがちですが、実際の釈尊は、一般的な次元においては、きわめて常識的で、温和な人格であったといってよいでしょう。
 「一切世間の善論は皆この経による」とか「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」等の経文がある。これらの意味するところは、仏法とは、最高の人倫の基となるべき道である。故に、俗世間の事柄とまったく相反するものではない。否、最高の社会での振る舞いや行動、態度というものをつきつめていけば、仏法の精神のなかに包含されてしまうということだ。
 このことは逆にいえば、信仰者は、その時代の最もよき社会人であり、常識人であり、見識をもった人でなければならないことも示しています。
 野崎 さて、貴族たちの申し出を断り、翌日、娼婦アームラパーリーの家に招待された釈尊は、そこで食事したあと、彼女のために法を説き、諭し、深い感銘を与えて、立ち去ったとあります。
 そして、このあと釈尊は、アーナンダと二人で、竹林村に止まり、最後の雨安居に入った。それまで従っていた弟子は、雨期をしのぐため、いずれも縁故を求めて四散した。
 池田 この最後の雨安居のときに、釈尊は大病を患うわけですね。その病名は定かでないが、相当激しい痛みをともなう病であったといわれる。しかし、ここでの病は、一応、釈尊は、自身の力によって克服し、苦痛を打開したことになっている。
 側に付き添っていたアーナンダは、釈尊の病苦になす術を知らなかった。しかし、釈尊が、われわれ弟子をおいて死ぬわけがないと思い、それほど憂慮していなかったとも伝えられていますね。
 いわば、弟子たちは、完全に釈尊に依存していたわけですね。安心して頼り切っている。このアーナンダの姿勢をみた釈尊は、言うべき時がきたことを知って、次のように述べたとされている。
 「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳にぎりこぶしは、存在しない」(前出)
 つまり自身は、すでに一切の法を説いている。自分の説いた法以外に、自分に何かを求めても無駄である。あとは、その法をもとに進んでいけばよいのである。このような意味あいが、この言葉には感じられるね。
 そして、さらに言葉を続けて、教団において自分がとってきた姿勢を次のように述べたといわれる。
 「『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない」(前出)
 すなわち、ここでは、釈尊は、教団の指導者であることを否定して、自分もまた、ともに法を求める人びとのなかの一人であったことを宣言しているわけです。釈尊が、いかに謙虚であったか、その人生のすべてをあらわしている言葉であるといっても過言ではない。
 つねに弟子に対しては、真実の人生を求めて、同じ思想と目的のもとに集まった同志として、法友として遇していたことを物語っている。この態度と姿勢が、じつは最も強い姿勢であるともいえますね。
 野崎 また、アーナンダらをはじめ、依然として釈尊に頼っている姿勢を、それによって打ち破ってもいるのですね。釈尊自身を頼るのではなく、釈尊が弟子とともに励み、説いてきた法をもとに、生きていくのだという教誠が、ここにも出ていますね。
 池田 そう。釈尊は、自身の入滅の近きを知って、入滅後の教団のあり方、弟子のあり方を、このあと、遺言している。
 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(前出)
 これが「法に依って人に依らざれ」をはじめ、有名な自帰依、法帰依の説法ですね。釈尊入滅後、頼るべきものは、何か。それは、己れ自身であり、釈尊の説いた法そのものである。それ以外にはない。
 己れ自身というのは、少し頼りにならないのではないかと思いがちだが、そうではない。ここに、釈尊が弟子に望んだ、最も厳しい修行者のあり方、主体的な責任というものが、よくあらわれているのです。
 ここにいう己れ自身とは、縁によって、すぐ改変してしまう自己ではなく、法によって、いつも不壊なるをめざす自己自身ですね。それが確立されれば、仏法の一つの本義は具現したことになる。あとは、民衆救済のための実践と、法の久住のための努力のみである。
 仏法の求めるものは、他者の依存でもなければ、他者からの救済を待ちうけることでもない。己れ自身に、曇りなき鏡を確立し、それを、一切の伴侶として進んでいくところにある。法とは、まさに、そうした自己を構築せんがための、拠り所である。しかも、その法とは、また自己の外に存在するのではなく、自身の生命の内にあるものなのです。
 野崎 後年、中国の天台大師の『摩訶止観』中にある「己心の中に行ずる所の法門を説く」(大正四十六巻1㌻)という言葉も、このことですね。
 池田 そうです。こういう仏法のあり方は、最も個人の尊厳と主体性を重んじた宗教であるといいたい。他の、いかなる宗教とも異なる点ですね。他の宗教では、自己の外に絶対者を設定する。
 しかし、仏法では、そうした絶対者の存在はない。絶対なるものは何かといえば、生命の法であり、その法は、自己自身の内にあるものそのものですね。
 あとは、それを個人が、いかに自覚して、引き出すかの問題である。法と冥合した、あるべき自己に信をおき、その昇華された次元から現実の自己を変革していく。そこに、人間主義、人間変革の宗教の真髄があらわれています。
3  鍛冶工チュンダ
 野崎 この雨安居うあんご期が明けて、チャーパーラという霊樹の下に休んでいたとき、釈尊は「この世界は美しく、この世に生きることは楽しいことだ」という感懐をもらしたことが伝えられていますね。
 池田 これは、いささか文学者的な眼があるようにも思えるが、釈尊の生涯を振り返っての、偽らざる実感として、滋味あふれる言葉ですね。人間、死期を感じたとき、この世界を、どのような心境でみられるか、これは芥川龍之介が、自殺の直前に「自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。(中略)僕の末期の目に映るからである」(『芥川龍之介全集』8、筑摩書房)と言い残しているが、おそらく釈尊の、この言葉には、惜別する現世への感傷ではなく、所願満足の、充実した自己の境涯への感慨が込められていると私には感ぜられます。
 野崎 美しい眺めのヴァイシャーリ(毘舎離)に別れを告げ、釈尊は、アーナンダ(阿難)と連れ立って、なお、法の旅を続ける。その間、いくつかの村を皆、その場所ごとに、法を説いたあとで訪れた先は、パーヴァー村であった。ここで釈尊は、この町の鍛冶工チュンダ(純陀)から手厚いもてなしをうけ、チュンダの所有するマンゴー林に、しばし滞在した。
 池田 チュンダというのは、まったく名もなき鍛冶工であるが、この人物が、釈尊の入滅に直接かかわることとなってしまった。チュンダは、釈尊から種々の説法を聞き、また自らも質問して、数々の教えをうけた。
 それで感動したチュンダは、釈尊に、真心からの食事の供養をした。この食物は、きのこ料理であったといわれるが、おそらく喜びに打ちふるえたチュンダの、誠心誠意の供養であったのであろう。
 釈尊も、このチュンダの純粋な心をうけ、彼に、王族やバラモンたちと何ら変わることのない丁寧な言葉と礼儀をもって接した、といわれる。
 野崎 しかし、不幸なことに、身体の衰弱していた釈尊にとって、チュンダの捧げた食物が、かえって病を誘発する原因になってしまった。釈尊は、食事後、ふたたび激しい苦痛を覚え、重い病にかかってしまった。
 ここでも、病名は明らかでないのですが、赤い血のまじった下痢といわれているところからみても、赤痢では、なかったかと考えられています。
 池田 しかし、釈尊は、けっしてチュンダをとがめることはなかった。否、むしろアーナンダに、チュンダを恨んではならないことを述べ、彼の真心の供養の姿勢を、称賛したとされています。、おそらく、これは、本当の釈尊の気持ちであったにちがいない。
 名もなき庶民が、純粋一途の気持ちから、供養したのです。それがもとで、病気が再発したとはいえ、それは一つの縁であってチュンダ自身に責任があるのでは、もとよりない。ともすれば、チュンダを責めようとする人間の心の機徴をとらえて、釈尊は、このように諭したのでしょう。

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