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日蓮大聖人・池田大作

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5 弟子の群像  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  シャーリプトラとマウドガルヤーヤナ
 野崎 マガダ国での布教では、この国王ビンビサーラが帰依したほか、後の仏教教団に大きな影響を及ぼした有力な弟子や信徒が次々と出現しています。
 池田 とくに有名なのは、釈尊十大弟子のシャーリプトラ(舎利弗)とマウドガルヤーヤナ(目連)。それと釈尊滅後の教団を統率したマハーカーシャパ(摩訶迦葉)。この三人は、いずれも、この初期のマガダ国教化のときに、釈尊に帰依したことになっていますね。
 野崎 そこで、この三人と釈尊との出会いをみていきたいと思います。まずシャーリプトラとマウドガルヤーヤナについてですが、これはさきにも出てきた通り、この二人は、六師外道の一人であったサンジャヤの門下であった。
 池田 サンジャヤ・ベーラッティプトラは、六師外道のなかでも、懐疑論者として異色の存在であったわけだが、マウドガルヤーヤナは、この門下の代表的弟子とされている。二人ともマガダ国のバラモンの家に生まれ、幼少のころから親交があり、互いにバラモンを修得した秀才の誉れも高い青年であったと記されている。
 その後、二人は、形式的なバラモンの学に飽き足りず、真理を求めて、師を尋ねた。そこで耳に入ったのが、ラージャグリハ(王舎城)で二百五十人の門下を率いていたサンジャヤであった。二人は、よきライバルとして、このサンジャヤのもとで修学し、たちまちその抜群の素質をあらわし、二百五十人の頭目的存在になったといわれる。
 野崎 師のサンジャヤも、この二人には、とくに目をかけ、自分の後継者に見込んでいたようで、門弟の指導を任せていたようですね。しかし、二人は、サンジャヤの主張する懐疑論に、どうも満足できなかったのでしょう。
 日ごろは、弟子の指導をおこなうかたわらで、もっと力強い法を希求して、二人で諸地方を回っていた。そこで、二人のうち、最初に、偉大な法と師を見つけた者が、必ず知らせると約束をしていたとも仏伝は綴っています。
 池田 より優れた哲学を求めようとする、その情熱と努力は、いかにも秀才青年らしいところですね。
 野崎 それで、最初に仏法に触れたのがシャーリプトラのほうで、その契機は、釈尊直接ではなく、釈尊の弟子のアッサジ(阿説示)という比丘が、ちょうどマガダ国のラージャグリハ(王舎城)を托鉢しているときであったといわれています。
 池田 そのアッサジ比丘は、通常、釈尊の初説法の対告衆であった五比丘の一人とされているね。
 原始経典『マハーヴァッカ』の伝えるエピソードによれば、托鉢して歩くアッサジの態度が、当時の出家者のなかでも、一際、清潔で、気高いため、シャーリプトラが、心を動かされたとあります。
 あの比丘は、何かを把んでいるに違いないと確信したシャーリプトラは、アッサジが郊外で少憩しているところを訪れ、だれを師匠とし、何の教えを学んでいるかを質問した
 。
 野崎 シャーリプトラとアッサジの、この間のやりとりは、たいへん面白い部分ですね。というのは、シャーリプトラから質問されたアッサジは、釈尊を師としていることを述べたあとで、釈尊がどのような法を説いているのかとの質問に、自分は出家して間もないので、師の教えを十分に伝えることはできないと、一度述べています。
 それに対して、シャーリプトラが、その一端でもいいから教えてもらいたいと再度懇望し、そこでアッサジは、釈尊の教えのうち、自分が理解している一端を述べた。
 それが経典では「諸法は因から生ずる。如来は、その因を説きたもう。諸法の滅をもまた大なる修行者はかくのごとく説きたもう」(中村元著『ゴータマ・ブッダ』法蔵館)とあるところです。
 池田 なるほど。アッサジは、釈尊の教説のなかの骨格ともいうべき、諸法の因果、起滅の一節を展開したようですね
 このエピソードに見るかぎり、アッサジは、たいへん正直で、清廉潔白な印象をうける。通常ならば、法を求める修行者に、自己の奉ずる哲学を、生かじりでも説きたいところだが、出家して間もないから、十分把握しきれていないと告げている。
 これなどは、如来の教説を、誤って伝えてはならないという、思想に対する厳格な姿勢がにじみ出ているといえるのではないだろうか。また仏法とは、出家したから、また道に入ったからといって、すぐ把握できるものではない。たえざる修行のなかで、自身で体得していくものであることを物語っているともいえます。また、シャlリプトラほどの英知の人の心を動かしたものは、単なる理論だけではなく、やはり信仰者の態度、動作からにじみ出る品格であったということは、法を弘めるにあたっての弘法者のあり方をあらわしていると考えたい。
 ただ、まだ未熟な弟子であっても、諸法の因果、起滅の法だけは把握していたということは、仏法思想の柱というものが、この諸法の解明、生命の法にあるということを示しているともいえるのではないだろうか。
 野崎 この諸法の生滅に関する法説を聞いて、シャーリプトラは、アッサジの師である釈尊の偉大さを、ただちに認識したということになっています。そして、これこそ自分が求めていた法であるに違いないと確信したとありますから、思想家、哲学青年シャーリプトラの面目も十分うかがえます。
 池田 シャーリプトラは、『法華経』にある三周の声聞のなかでも、法説周であるといわれる。すなわち、仏法の法理に関する説を聞いて、悟りを得た声聞であるということです。今のエピソードは、その法説周たるシャーリプトラ、智慧第一といわれたシャーリプトラの人間性をいみじくも物語っているといえるでしょう。
 野崎 さて、アッサジ比丘との一件があったあと、約束により、シャーリプトラは法友であるマウドガルヤーヤナに、その経緯を話した。するとマウドガルヤーヤナも、仏法の偉大さを知り、二人して釈尊の弟子になる決意をした。
 ただ二百五十人ものサンジャヤの弟子を預かるうえから、その決意を、それらの弟子たちに話さねばならない。そこで、その決意を伝えると、二百五十人も、こぞって釈尊の弟子になることを申し合わせた。六師外道の一人サンジャヤの門下は、師のサンジャヤを除いて、全員釈尊の弟子になるというわけです。(笑い)
 これを聞いて、サンジャヤは、極力、二人の翻意を促し、阻止しようとした。しかし、シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの決意は固く、ついに二百五十人の弟子ともども、仏法の門に入ることになった。杖とも柱とも頼んでいたシャーリプトラ、マウドガル
 ヤーヤナを失ったサンジャヤは、失意のあまり、血を吐いたという伝説まで残されています。
 池田 そう。たいへんな出来事だったね。実質的には、当時の有力な思想家集団のうちの、一つの集団が崩壊したわけだし、六師外道という、当時の新興思想界に、もう一つ新しい潮流があらわれたことを意味するとともに、真の新しい哲学、宗教の到来を、民衆に明確に認識させた事件であったともいえますね。
 野崎 仏教史研究者のあいだでも、このシャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの釈尊への帰依が思想史上、重要な事件であったという見解をとる人が多いようです。それは、一つには、仏教というものが懐疑論という一つのニヒリズムを克服して、民衆に受け入れられたということをあらわしているというわけです。仏教の本質というと、とかく諦観や虚無主義的なものにみられがちですが、シャーリプトラをはじめとするサンジャヤ門下の仏法への帰依は、民衆自体に、仏教がニヒリズムという形で受け止められていなかったことを示す出来事と考えられるからです。
 池田 シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナが、懐疑論に飽き足りず、その求道の果てに仏法を見いだしたということは、非常に大切なポイントですね。それともう一つ、シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの二人の帰依は釈尊の教団の形成にとって重要な影響をもっ契機であったことも、この出来事の大きさをあらわしているともいえます。
 なぜなら、シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナの指導によって、随分、仏教教団は、理論的にも整備、発展していった形跡があるからです。二人が、釈尊生存中において、教団でも卓越した弟子として重きをなしていた事実は数多くみられます。そのなかでも、この二人が、サンジャヤ門下二百五十人を引き連れて、初めて釈尊を訪れたとき、その二人を見た釈尊が、自分の弟子のなかで、最上の弟子になると門下にもらしていたというエピソードもあるほどです。
 釈尊は、一見して、シャーリプトラ、マウドガルヤーヤナのぬきん出た資質を洞察していたわけでしよう。それを聞いた弟子たちが、その二人に嫉妬を抱いたということまでいわれているから、釈尊もこの二人に相当期待をかけたことがわかります。
 野崎 それから、懐疑論、ニヒリズムを克服した果てに、仏法が受け止められたことを示す例として、釈尊の門人となったシャーリプトラが、阿羅漢果を得る、つまり声聞の悟りを得る契機となった出来事が、伝えられています。
 それは、シャーリプトラが、自分の縁者のバラモンに説法している釈尊の話を聞いたことです。シャーリプトラのその縁者は、やはり懐疑論者であったといわれ、真理といわれるものは、すべて相対的なものであって、客観的に絶対的な真理というものはない。その意味ではいかなる思想、哲学といえども、主観的なものにすぎないという主張を展開していたといわれる。
 それに対して、釈尊が説いたのは、すべてのものが主観的で、相対的で、疑わしいとする、このバラモンの主張自体矛盾している――というのは、相対的、主観的と判じている自己自身が、すでに何か絶対的な基準と範疇を設定している証拠ではないか。もし、そのような基準を設けるならば、それ自体、すでに懐疑ではなくなっているではないか、というものです。
 当時、一つの流行であった懐疑論に、釈尊は、このように論駁した。非常に明快な切り返しであるとともに、この反駁のなかに、見事に仏法の本質、ものの観方というものをのぞかせていますが、背後でこれを聞いていたシャーリプトラは、これにより明知を得たといわれています。当然そのバラモンも、釈尊に帰依するにいたったわけですが……。
 池田 思想戦において、釈尊が真っ向から対決し、次々と打ち破っていることがよくでている。ウルヴィルヴァーのカーシャパ三兄弟をはじめ、このシャーリプトラ、マウドガルヤーヤナなど、ほとんどが知識階級であったことが、それを示している。
 新しい思想が擡頭するときには、旧い思想は消滅するものです。これは、思想史の必然的な結果であるが、当然その過程では、旧思想の側からの反撃も起きてくるでしょう。釈尊の場合も、そうした反撃をうけていますね。
 野崎 ええ。マガダ国のラージャグリハ(王舎城)を中心に、次々と地元有力バラモンや秀才青年が釈尊に帰依していく姿を見て”釈尊は、父母から子を、妻から夫を奪い、家庭を断絶に導いている……マガダ国の有名な良家の青年はすべて釈尊のもとで修行している”と嘆き、サンジャヤ門下を誘ったあと、次はだれを誘うのかと、非難まじりに攻撃したとされています。
 池田 いかにマガダ国において仏教が浸透したか、釈尊の教説が伝播していったかを物語って余りありますね。民衆の目からみれば、また旧来思想家の側からみれば、一種の脅威としてみられたのでしょう。大きな宗教革命の波が、マガダ国に押し寄せていたわけです。この波は、庶民が願う平穏無事な生活というものを揺るがし、崩壊させるのではないかと当時の人びとは危惧したわけでしょう。
 しかし、じつは、仏法とは、そんなものではない。仏法は精神次元に対して本源的な変革を及ぼすが、それによって、そこから不壊の家庭の連帯、社会の構築を図っていくととろに目的がある。しかし、表面的なことにしか関心が示せない大多数の民衆からみれば、家庭を断絶させ、夫や子を奪うものとしかみえないのです。だから釈尊も、そうした苦悩を味わわなければ、ならなかったのでしょう。
 野崎 しかし、釈尊は、そうした一般人の非難に対し、そういう声は一時的のものにすぎない。やがて消え失せていくであろうとして、あまり問題にしなかったといわれております。事実、釈尊のいうとおり、やがて釈尊の名声の高まりと、彼の真実の姿にうたれた尊敬の念の強まりとともに、消え失せてしまったということです。
 池田 ゆえなき批判と中傷は、正法を流布する過程で必ずつきまとってくるものです。釈尊は、優れた正覚者として、生存中、多くの人の尊崇を一身に集めたが、彼を批判する勢力も、けっして少なくなかった。よくいわれる「九横の大難」も、そうした批判者の怨嫉が因となっている。このマガダ国での弘教以来、四十余年ずっと周囲の偏見と誤解をうけていたことが推測される。しかし、釈尊は、そのような怨嫉に対し、自らの姿と態度で、さらには力強い教法によって一つ一つ打ち破っていった。そして、仏教を、普遍的な宗教の次元まで高めていったのです。
2  マハーカシャパ
 野崎 ところで、もう一人の有名な弟子であるマハーカーシャパ(摩訶迦葉)についてですが、彼は、同じく釈尊十大弟子の一人で、頭陀第一といわれるように、非常に厳格な修行態度、峻厳な求道生活を貫いた人として有名でした。釈尊入滅後は、教団の長老として、第一回の仏典結集の座長を務めた、文字どおりの重鎮ですが、釈尊に会う以前は、やはりバラモンの学徒であったようです。
 いつごろ、釈尊に帰依したかは不明ですが、一般の見方では、初期、それも、この最初のマガダ国教化の時代ではないかと推定されています。
 池田 マハーカーシャパと呼ばれたのは、釈尊の教団に入ってからのことでしょうね。マハーとは、大という尊称ですね。さきほど出てきた、ウルヴイルヴァーのカーシャパ三兄弟と区別する意味で用いられたものらしい。
 このマハーカーシャパについては、非常にエピソードが豊富だ。それも峻厳、厳格なことについてのものが多い。
 たとえば、マハーカーシャパはあまりに厳格主義であったので、教団内では畏敬されている反面、非難もかなりうけていたようだ。その人となりをあらわす話としては、マハ−カーシャパが釈尊に帰依して後、阿羅漢果を得たとき、感謝の意を表して、釈尊に自分の袈裟を供養し、自分は釈尊の着古した袈裟をもらった。彼は、その釈尊の袈裟がすり切れるまで着用していたといわれる。
 これなどは、たいへん篤行心の厚い人間性を示しているが、他の門弟には、みすぼらしい姿でいるマハーカーシャパが理解できない。それで、随分、皆から侮辱をうけたという説話もあるようだ。
 野崎 それに類する話として、記憶しているのですが、マハーカーシャパは、当時出家者の修行であった托鉢の態度が立派だった。というのは、托鉢は、出家者の食を支える修行であるとともに、それにより、仏縁に触れさせるという意味があったと聞いていますが、出家者としては、他人の家から供養された食については、身分の別なく食さねばならない。
 ところが、やはり、そこが、人間性のゆえんか(笑い)、そうはいっても、なんとなく貧しい、うす汚れた家から供養された食物については、気味悪がるというか(笑い)、とくに出家者のなかには、生活にまったく不自由しなかった良家の青年が多数いたため、どうしても、そういう気持ちになりがちな場合が多い。
 そこで門構えの立派な家の前では、わざとゆっくり歩いて、家人に知られるように振る舞い、貧相な家のところは、すぐ小走りで(笑い)かけ抜けてしまうというようなこともあったようです。
 しかし、マハーカーシャパだけは、釈尊の教えをそのまま信奉して、絶対にそういう態度をとらず、身分の別なく、悠々と托鉢したといわれています。
 池田 修行ということについては、また釈尊の教えを実践するということについては、その姿勢において、だれにも真似のできないものを持ち合わせていたのでしょう。
 しかし、厳格な人、姿勢について厳しい人というものは、その人となりがわかれば尊敬されるが、それがわからないと、誤解をうけたり、怨嫉されたりする場合が、よくあるものだ。マハーカーシャパの場合も、例外ではない。
 それに、マハーカーシャパが、一部に反感をもたれた要素として、説法等が不得手であったともいわれる。おそらく、これは私の推測だが、その地味な性格からいって、シャーリプトラやマウドガルヤーヤナのように、表面で華々しく釈尊の教団の理論的リーダーとして活躍するというより、純粋篤厚に、釈尊の教えを守り、実践した修行者であったのではないか。
 だから、あまり爆発的な人気を博する人物ではなかったようだが、教団の維持、統括、修行の方向に関する裁定等には、なくてはならない人物であったとも思われる。教団が、釈尊滅後、こうした厳格な修行者たるマハーカーシャパを中心に維持されていったということも、けっして歴史の偶然ではないでしょう。
 ただ、釈尊は、マハーカーシャパが、弟子間で、さまざまに怨嫉され、非難されていることを知りつつも、一目も二目も、その存在の大きさを鋭く見抜いていたようだ。
 野崎 ええ。たしか、マハーカーシャパに対する他の弟子の非難の声が高まったときですが、釈尊は、一座の弟子大衆を全部集めて、マハーカーシャパについていろいろ言っているが、この人は大切な人なのだと言って、彼のために半座を分けて、坐らせたという説話も伝えられています。釈尊の弟子中、釈尊と並んで坐ったというのは、後にも先にも、このマハーカーシャパだけであったともいわれていますから、釈尊が、マハーカーシャパの優れた特質を生かし、それを伸ばしていとうとした配慮と信頼が、そこにうかがえますね。
 池田 そう。釈尊は、このマハーカーシャパのエピソードにもみられるように、また十大弟子という、それぞれに異なった個性と力量を発揮する多様な弟子がいたという事実が示すように、どのようなタイプの人間も、その個性と特質を見抜き、毛嫌いせず、令法久住のために包容し、擁護して指導していったのでしょう。それは、じつに鮮やかな人材の教育・育成であったと想像される。そういう面でも、人間の指導者としての釈尊の見識の深さ、人間性の大きさ、広さがにじみ出ていると思われる。
 また、そのことは、仏法というものが、何か固定した人間像をつくるというものでもなければ、型にはまった人間を要求するものでもない。それぞれが、根本の使命感をもとに自分の能力、個性、特質を存分に発揮していくためのものであることを示す好例といえるでしょう。
 野崎 マガダ国教化では、このほか、こうした有力な弟子の帰依とともに、マガダ国内の一般民衆の帰依も、増えています。このなかには、村長、家長、富豪の子弟、婦人もいますが、これは、やはり、マガダ国での釈尊の教化によって国王ビンビサーラをはじめ、ウルヴィルヴァーでのカーシャパ三兄弟、サンジャヤ門下といった有力者が帰依したのにしたがって、いわば一種の旋風となって迎えられたことによるものと思われます。
 池田 マガダ国全体が、釈尊の説く仏法によって、精神面で、大きく揺さぶられたことは、十分うかがえます。とくに、さきに出てきた、カーシャパ三兄弟が釈尊と一緒に国王ビンビサーラに会ったときには、群臣たちは「釈尊がウルヴィルヴァー・カーシャパの弟子であろう」と思っていたのが、逆に、カーシャパが釈尊の弟子であると聞いて驚き、改めて釈尊の偉さに感服したというエピソードがありますね。
 これからみても、釈尊の出現は、マガダ国の民衆に、旧思想を打破する新しい宗教の擡頭を、鮮烈に印象づけたにちがいない。それにともない、一般民衆の側からも、仏法を受け入れる雰囲気が急速に高まっていったのではないだろうか。
3  スダッタ
 野崎 釈尊在世中の弟子や信者の階層は、インド古来のカーストを超えて、すべてにわたっていた。したがって仏教教団にあっては、どんな社会的な名声の人も、一般の民衆も、何らの差別をうけなかったわけです。とくに、そのなかでも、仏教を流布する主軸となった階層については、旧来のバラモンに代わってクシャトリャ、さらには、この当時、擡頭してきた長者階層、いわゆる新興資産家であったとみる向きが多いようです。
 というのは、これらの新興資産家の人生倫理は、硬直した社会のいき方になじまないものがある。自由に活動し、自らの力で人生、社会を開拓していこうとする意欲がある。そういうことから、形式主義的に硬直したバラモンとは対照的に、包容性があり、かつ柔軟な発想にもとづく仏法が彼らの精神的支柱になっていったというわけです。
 池田 たしかに、そうした面はあります。仏法の説き方をみても、個人が、自分の家庭、眷属を支えるために、経済活動を営むことには、けっして否定的ではない。むしろ、その意義を積極的に認めています。
 もちろん、出家した場合、そうした経済活動とは絶縁し、托鉢修行僧となって、遊歴するわけだが、在俗信徒が日常の経済活動に励むことは、当然のこととして認山めている。
 これは、一つには、仏法というものが、社会のそうした諸活動をも貫く法理であって、しかも、そうした諸活動を推進する人間の存在にとって必要欠くべからざるものであるとの説き方をしていたからではないかと思う。
 これは、宗教は直接、社会諸活動を規定するのではなく、社会活動を営む人間に影響を与えていくのであるとの立場を明示したものとみていいでしょう。
 野崎 そのような説き方は、実際、めまぐるしく動く社会の新興勢力として擡頭してきた経済人の支えになっていったのでしょうね。これら富豪長者階級のなかでも有名なのが、スダッタ(須達)ですね。
 池田 スダッタ長者は釈尊の生国、カピラヴァストゥの隣のコーサラ国シュラーヴァスティー(舎衛城)に住んでいた長者だが、彼は、マガダ国で、釈尊の教化をうけたとされる。
 野崎 ええ。その経緯をみると、マガダ国のラージャグリハ(王舎城)の豪商の家に、あるとき、スダッタが宿泊した。多分、商用か何かで来たのでしよう。その豪商は、すでに仏法の帰依者であった。それで、そのスダッタが泊まった翌日に、じつは、釈尊および、その門下を招待することになっていたらしい。
 スダッタは、そのようなことは知らないが、豪商の家人が、何やら客人を招く準備に、大わらわな姿をみて、だれびとが来るのかと尋ねたところ、豪商は「仏陀が明朝来る」と答えた。スダッタは「仏陀」と聞いて驚いた。
 もともと、スダッタという人物は、富裕家であったが、シュラーヴァスティーでは、ア
 ナータピンダダ(給孤独ぎっこどく)と呼ばれ、貧しい庶民や恵まれない環境の人びとに手をさしのべて援助を与えたことで有名な慈善家でもあった。
 その彼が、今、自分の泊まっている家に、明朝、インドでは、永遠の理想とされてきた「仏陀」と呼ばれる人が来ると聞き、驚くとともに、心を躍らせて、夜が明けるのを待ったといわれる。
 そして翌朝早く、豪商の家を抜け出て、瞑想している釈尊のもとを訪れた。その際、釈尊は、彼のために一つの説法をし、それを聞いてスダッタは、仏法を信奉する決意を固めた、ということです。
 池田 このスダッタの帰依も、かなり大きな意味をもっている。というのは、おそらく、このスダッタによって、初めて仏法が北方のコーサラ国シュラーヴァスティーで弘通される素地が築かれたと思われるからです
 スダッタは、後にシュラーヴァスティーに、ラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎と同じく「祇園精舎」を建立し、寄進している。この精舎の建てられた土地は、コーサラ国のプラセーナジット(波斯匿はしのく)王の太子が所有していたのを、スダッタが買い取ったといわれていますね。
 野崎 『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声……」の「祇園精舎」の起源は、ここにあるのですね。
 池田 もっとも、釈尊生存中の精舎には、鐘がなかった(笑い)という説もあるが……。

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