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日蓮大聖人・池田大作

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4 釈尊の教化活動  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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1  民衆の中へ
 ブッダガヤー(仏陀伽耶)の菩提樹下で、人間の真理について”大いなる解脱”を得た釈尊は、以後、五十年に及ぶ後半生を、この悟りのもと、衆生教化のために費やすことになります。こうして「仏教」という、全世界に開かれた新しい宗教が誕生していくわけですが、その間には種々の経緯があったといわれています。
 まずその第一は、悟りを得た釈尊が、果たしてその法を全人類に説くべきか否かについて、当初、逡巡した形跡がみられるということです。この点については、この対話のなかで一度触れたことがありますが、それによれば釈尊は、人間の問題について確固たる洞察の眼を得んがため、王位を捨てて出家した。そのため、六年あるいは十余年の間、自己に苛烈ともいうべき苦行を課して実践した。
 そしてついに、菩提樹下で大悟を開いた。しかし、ここまでのあいだには、その得た法をもって衆生を済度するというような目的意識はなかったのではないか。故に明悟の後、その未聞の法を説くべきか説かざるべきか、非常に煩悶したのではないか等、うんぬんされたりしています。
 このことは、釈尊は衆生救済のため出家したのであるとの一般的な見方に反論する議論として興味ある問題ですが、これはどのように考えるべきでしょうか。
 池田 たしかに「阿含部」経典に出ている悟達直後の叙述をみていくと、菩提樹の下で悟達した釈尊は、以後、しばらくその法楽にひたっている。そしてその後、自分の知悉した法を説くか否かで、心中深く悩んだことが記されている。
 それが、悪魔の誘惑と梵天の要請という部分ですね。つまり、当初、悟達した法を説く必要はないという生命の動きが、悪魔という形で綴られていて、それを釈尊自身が打ち破り、やはり人びとにこの法を説こうという生命力が活現したことが、梵天の要請ということになっているのでしょう。
 ですから私は、釈尊は当初から民衆救済をめざそうという目的意識があったというよりも、とにかく自身で大地に根をおろした確たる真理がつかみたかった。この内的衝動が、やはり釈尊の出家の動機であったと思うのです。
 このようなことは、普通一般にいっても、よくあることではないだろうか。当初は純粋に真理を求道するうちに、自分でも想像もつかないような大法理をつかんだ。そしてその結果、自己の使命が明確にわかり、残された生涯を、その法理を説くことに全カを挙げ、偉大な宗教家、思想家として、後世に名をとどめることになる。
 おそらく釈尊の人生の軌跡も、そのように考えていいのではないだろうか。それが、いちばん自然のように思えるが。
 野崎 すると、民衆救済という目的が出家当初からあったとするのは、後世、釈尊を慕う弟子が付託したということになる……。
 池田 そう考えてもよいでしょう。しかしまた、釈尊に当初から民衆救済という目的がまったくなかったかというと、これもやはり極端な見方でしょうね。出家する、また出家したということ自体、日ごろから人間の姿に心を痛めていたことを物語っているし、その問題を解決したいという強い情熱は当然、民衆救済という願望をはらんだものであったともいえるでしょう。したがって、衆生済度という意識がまったくなくて出家したというのも妥当ではないと考えたい。
 野崎 ところで釈尊が、自身の得た法をすべての人に開くべきか否かで悩んだことについて、一般的には、釈尊が悟りを得て法楽にひたっている段階が、いわゆる独覚(縁覚)で、それ以後、自己の内面で説法するか否かで悩み、ついに一大決意をして民衆の中へ入っていった、とこで釈尊は菩薩になったという見方もあるようですが……。
 池田 そういう立て分けもあるかもしれないし、出家以後、真理を求めて苦行していた、その実践を積み重ねていった段階が菩薩で、ついに未曾有の法を悟った、正覚を得た、それが仏であると、こういう見方もできますね。それらは考え方の角度が違うからだろうが、悟りを開く以前の修行期が菩薩、正覚を得たのが仏というのが一般的のようにも
 思える。
 ただ、正覚を得て法楽を享受しているのが独覚で、民衆の中への実践が菩薩であるとする考え方は、私の推察になるけれども、仏法は実践が第一である。法を得ることだけが目的ではない。その法のもとに、いかに人びとを救済していくかの実践が大事なのであるとの後年の大乗仏教の実践的立場との対比において生まれたのではないかと思われます。
 野崎 仏教学者の増谷文雄氏は『仏教の思想〈ブッダ〉』で、釈尊が説法することに戸惑ったことを”正覚者の孤独”といった表現であらわしています。つまり、釈尊が到達した法は、あとにもさきにも釈尊自身しか知らない。故にその法の悦びを全身でうけたわけであるが、一面それは、いまだだれびとも知らざる境地であった。おそらく、そのことを通俗一般の言葉であらわしても、即座には納得できないであろうが、しかし彼に刻印された生命の法理は、彼自身が知るところであって、まぎれもない実像である。彼の内なる光輝の世界と一般の世界との、あまりにも隔絶したギャップ――ここに釈尊は未聞の法を得た者のみが知る孤独感に襲われた、これが説法について逡巡した彼の心の軌跡ではなかったかという見解です。
 池田 なるほど。悟達者には悟達者自身の苦悩がある。それは、畢竟するに悟達者自身しか悟達の内容はわからないからです。これはつねに人類の先覚者、教師が肌身で感じた問題でしょう。獅子は孤独なのです。それは、獅子のみが法と使命を知っているからです。ここにいいしれぬ孤独がある。しかし獅子は伴侶を求めずで一人決然と立ったとき、その孤独は払われ、彼の胸中の世界は全世界の人びとの普遍と共感の真理となって伝播されていく。
 その意味で、悟達を得た直後の釈尊の心境は、偉大なる真理と法を発見しえた者のみの知る胸中であったといえるでしょう。
2  初転法輪
 野崎 それが結局、悟達後、初説法をヴァーラーナシー(植民地時代、英語流に「ベナレス」と呼ばれた)の北六キロにあるサールナート(梵語ムリガダーヴァ、漢訳して鹿野苑)でおこなうまで、かなりの期間を要したともいわれる背景でしょうね。だいたい、釈迦が悟りを得て後、初説法まで一カ月余りが経過しているともいわれますから……。
 池田 なるほど。ウルヴィルヴァーのブッダガヤーからウァーラーナシー(ベナレス)のサールナートまでは、どれくらいの距離ですか。
 野崎 約二百十キロといわれており、現在、列車で行けば四時間かかるそうです。徒歩だと、十日間は優にかかると考えられます。
 池田 釈尊が、マガダ国ではなく、そこからかなり離れたヴァーラーナシーを初めての説法の地に選んだのは、一般に、彼の苦行期間中にともに生活した五人の比丘がそこにいると聞いて赴いたといわれているが……。
 野崎 ええ。ウルヴィルヴアーのセーナー村の苦行林で修行に打ち込んでいたとき、その苦行の真剣さに感動した五人の比丘がいた。彼らは釈迦の、あまりにも厳格な苦行の姿を見て、きっと釈迦がその苦行のなかから悟りを得るにちがいないと確信して、釈迦とともに修行していた。
 ところが実際の釈迦は、苦行の無益を知って放棄し、体力を回復しようとして乳糜をとった。この釈迦の転向を見て五人の比丘は失望し「釈迦は贅沢になった」といって、セーナーの苦行林を去っていった。
 池田 五人の氏名や人物がいかなるものであったかは詳らかではないようだが、そのなかにはわれわれも知っているアージュニャータ・カウンディニヤ(阿若陳如)が入っていたことは事実であるようだ。その五人の比丘は、苦行林を離れてヴァーラーナシーに行った。それが説法を決意した釈尊の耳に入った。そこで釈尊は、彼の人生においても、また世界の思想史においても、非常に重要な意味をもつ初めての説法の対告衆として、その五人の比丘を考え、ヴァーラーナシーに赴いたのであろう。
 ところで五人の比丘がヴァーラーナシーに行ったということは、マガダ国が新興思想家のアジトであったように、やはり古来からそういう宗教的、思想的な雰囲気をもっ聖地と考えられていたからでしようね。
 野崎 ええ。釈尊が初めて説法したサールナートというところはヴァーラーナシーの郊外といわれていますが、そこは漢訳で、「鹿野苑」とあるように、釈尊在世当時は鹿が自由に遊んでいたところであったといわれています。そして「鹿野苑」は一般に「仙人が集まるところ」とも呼称されていたといわれるところからみても、当時にあって、名だたる宗教家が一度は集まってきた場所であったと想像されます。
 池田 なるほど。五人の比丘がサールナートへ行ったのも、そこで修行者の現状をつかみに行ったのかもしれない。また釈尊がそうした聖地で弘法の第一歩を踏み出したのも、意味が深いことだね。
 ところで釈尊が五人の比丘を初説法の対告衆にしたのは、曲がりなりにも旧友であり、釈尊にとっては思想を語る相手としては身近であったからとも考えられます。――かつては自分とともに苦行をした修行者たちに、まず彼自身が開いた正覚をわからせよう。そこから出発しよう。どんなに壮大な構想をもっても、身近な人を納得させずして弘教の輪は拡大できない。その身近な人物の認識転換の波動が次の波動を呼び起こしていく――これはあくまでも想像ですが、かつての法友であった五人の比丘を対告衆に選んだことに、釈尊の冷静な人間性がにじみ出ているように私には感じられます。
 野崎 釈尊が苦行時代の仲間を化導しようとしたことに対して、仏教というものが、いきなり全民衆に拡大されたというより、むしろ道を志す修行者のあいだに根をおろし、広まっていったという説もあるようです。
 さて、釈尊が五人を追ってサールナートに近づいてくるのを見たアージュニャータ・カウンディニヤ(阿若陳如)らの比正たちはどう思ったか。これについては、仏典には、大要、次のような叙述が出ています。
 それによれば、五人は釈尊が近づくのを見て「聖者よ、道の人ゴータマがあそこにやってくる。贅沢で、つとめはげむのを捨て、贅沢に赴いた。かれに挨拶すべきではない。起って迎えてはならない。かれの衣鉢を受けてはならない。しかし座を設けてやらねばなるまい。もしもかれが欲する、ならば、坐し得るであろう」(『仏典』中村元編、筑摩書房)と述べたとあります。
 これからみると、明らかに五人の比丘たちは、意識的に釈尊を冷淡に扱おうとしたことがうかがわれます。
 しかし経典の記すところによれば、実際、釈尊が近づいてみると、彼らは当初の態度を貫くことができず、結果的には釈尊をかなり丁重に迎えたようです。
 だが、釈尊が悟りを得ているなどとは、もとより思っていない。だから釈尊を呼ぶ場合にも、日本でいえば「君」ぐらいに呼んだのでしょう。それに対して釈尊は、正覚を得た覚者、如来を呼ぶのに「君」とは、なんだ(笑い)、ふさわしくない、自分は正しく悟りを得たのだから私の教えに耳を傾けよと、かなり高姿勢(笑い)で、自信に満ちた言い方で述べたとあります。
 池田 実際の説法で釈尊がそのように高飛車に出たかどうかは疑問だが、確信をもって五人に接したことは十分想像できますね。
 野崎 しかし比丘たちは、釈尊が悟りを得たと高言しても、なかなか納得しない。それどころか、以前、釈尊は苦行を捨て、贅沢になってしまったではないか、その堕落した修行者に、どうして悟りが得られるかということで反詰したとあります。
 この詰問に対し釈尊は、自分は正覚を得た、そしてその教えを説く、とさらに述べます。仏伝ではこんなやりとりがかなり続いたあとで、釈尊はその両者の平行線に終止符を打つべく、自分がかつてこのように光輝な姿であるのを見たことがあるかと問い、ついに五人も納得し、教えを聞くことになったとあります。
 池田 五人は、色心ともに確信と自信に満ちた釈尊の現実の振る舞いに、最終的には心を動かされたということでしょう。ところで、この五人に対する説法だけれども、釈尊の教えを聞いて即座に納得したわけではないといわれているのが興味ぶかい。
 かつて読んだことがあるが、釈尊を含めた六人はサールナートで一種の共同生活を営み、釈尊が二人の比丘に説法するあいだ、他の三人は托鉢に出かけたりして、互いに共同生活を支えたという話があるね。
 野崎 ええ、釈尊の説法を聞こうということで、彼らはかなり腰を落ち着けて取り組もうとしたといわれています。それが、三人が説法を聞いて、あとの二人は六人の生活を支える托鉢、次は二人が受講し三人が托鉢した、というエピソードになっているのではないでしょうか。
 池田 こうしてかなり長いあいだ、釈尊と共同生活をし説法を聞いているうちに、まず仲間のカウンディニヤが悟りを開き、次々に釈尊の説くところを領解し、彼らは全員釈尊の門人となり、弟子の第一号となった。
 ところで、このとき釈尊が説いた法の内容について、普通一般には阿含部の四諦の理、八正道を説いたといわれているが……。
 野崎 まず自分の説こうとする仏法の立場が快楽主義と苦行主義の両極端を離れた中道の立場であることを明かしたあと、四諦もしくは八正道を説いたとなっています。しかしこれらについては、研究者のあいだでもかなり異論があって、単に八正道だけだと考える人、また中道や八正道は後年整えられたものであって、このときはただ生老病死を克服する智と見が生じたとする説、さらには四諦の理であるなどと、さまざまな見解があります。
 池田 どれが真実であるか推測のほかはないわけだが、ただいえることは、彼の得た菩提樹下での悟りというものと、この最初の説法のあいだには、かなり釈尊自身が、具体的に説法をする段になって論を周到に組み立てていたであろうことは推察できます。彼の知悉した秘奥の境地を実際に理解させるためには、かなり一般化した次元で話を進めないと、容易に理解できないからです。
 そこで当然、彼の生命に刻印された原点の悟りを、一般的に納得させる論理の組み立てがおこなわれたにちがいない。
 たとえば苦集滅道のいわゆる四諦の理が初説法の内容であったと仮定しても、この四諦の理というものは、人間が何故に苦悩するかの原因は欲望にあるとして、それを滅するところに真の解脱があるというきわめて実践的な説き方をしている。また八正道にしても、解脱するためには何をなすべきかの、きわめて具体的にして平易な実践項目を立てています。
 だから、比較的容易に五人の比正が釈尊の教えを納得できたといえるわけですが、ここに後年、大乗仏教の側から、阿含部や初説法の内容が人びとに仏法を理解させるための誘引として、かなり民衆の機根に合わせた随他意の説法であったとされる所以も潜んでいるといわねばなりません。
 そして私個人も、おそらくこの最初の説法は、悟りの本質そのものに肉薄した内容というより、そこへ人びとを入らしめるために、かなり平易な実践論を説いたのではないかと推察しているのです。
 野崎 いずれにしても釈尊は、このサールナートで弘教の第一歩を示した。振り返って考えると、この釈尊の初説法は仏教の誕生を世界に告げる意義をもったわけで、その意味を含めてこの初説法は「初転法輪」といわれています。
 池田 古代インドにおいては、理想の人格者たる聖者が宇宙の輪円を回して最高の法を説くという思想があったようだ。転法輪というのも、このインドの故事にならって、最高の覚者が宇宙、人生の真理を説くことをあらわしているのでしょう。
 話は変わるが、転輪聖王というのも、このインド的な発想から生まれた言葉ですね。
 野崎 「輪を回す」ということは、それによって時代も社会も新しく変わるという意味があったのでしょうか。事実、人間の真理の法を説いた釈尊の出現によって、新しい時代の思想が高まっていきます。
3  弟子の帰依
 池田 この第一回の説法以後、釈尊の教化活動はどのように進められていったのであろうか。記録を読むと、初説法後数年のうちに弟子が千人以上に達したとあるが、これによれば、かなり急テンポの伸び方だけれども……。
 野崎 ええ。釈尊の弟子がかなり急速に増えていったのは事実であるようです。それで、釈尊の弟子の系譜で特徴的と思われるのは、当時のインドは現代社会のように個人主義ではないですから、一家の息子や主人が帰依すると、それを契機にその一家中がこぞって帰依するというケースが多かったのではないかということです。
 また、かなり宗教や思想に強い関心を示していた独特の風土から、一人の青年が仏法に帰依すると、その青年を取り巻く友人たちもともに釈尊の説法を聞きに行き、そして門人になるというケースも少なくなかったと思われます。おそらくそんな具合で、弟子の数が増えていったのではないでしょうか。
 池田 王族、家族一同というケースも多かったのだろう。だからこそビンビサーラなどの国王、スダッタ(須達)長者などの富豪階級の人たちも、かなり初期に釈尊に帰依しているわけだ。
 ところで初説法の後、釈尊は、しばらくその鹿野苑にとどまって法を説いたわけだね。
 野崎 五人の比丘が釈尊の弟子となって、しばらくのあいだは、ヴァーラーナシーに根拠を定めて化導していたようです。
 さきほど出てきましたが、ヴアーラーナシーはマガダ国よりさらに西北、インド全体からみれば中インドにあたりますが、この付近は、やはり強国で有名であったカーシー(迦戸)国に属します。ヴァーラーナシーはその首都で、経済活動もかなり盛んで、当時にあっては水陸交通路の要衝地にあり、他国との貿易も活発におこなわれていたようです。
 だからマガダ国のラージャグリハ(王舎城)と同じように、富裕な長者階級も出現していた形跡がある。釈尊の初説法後、最初に弟子となったのが、やはりとの富豪の息子であったという記録が残っています。
 池田 長者の息子ヤサが帰依した話だね。この話は、物質的環境がいかに恵まれていても、人間は精神的に充足しなければいかに空しいものであるかを示唆する話として興味ぶかい。現代にも通ずる側面がありますね。
 仏伝では、このヤサにまつわるエピソードは、釈尊の出家前と同じような象徴的な形で綴られています。ヤサは、商業都市ヴァーラーナシーのなかで富を貯えた資産家の息子であった。彼を取り巻く環境は雨期、寒期、暑期と気候の変化に合わせて作られた三つの立派な家に住み、物質的にはまったく何不自由ない環境であった。侍女もたくさん控えて、なにかあると歌舞音曲の宴が設けられ、歓楽の極にあった。
 しかしそのなかにあって、ヤサの心は一向に晴れない。歓楽の生活に、いつしか空虚を感ずるようになっていたからです。周囲の賑いが続けば続くほど、彼の心に鬱積された憂いと悶えは深まる一方であった。
 それで、ある夜こっそりと家を抜け出し、精神的な安らぎを求めて、さまよい歩いていた。このときに釈尊に会った……。
 野崎 釈尊がちょうどサールナートで安息しているときだったのでしょう。向こうから「心苦しい。つらい」といって叫んでくる若者がいた。
 そこで釈尊は、その若者すなわちヤサを呼び止め、自分のいるところは悩ましいことはないからきなさいといってそばにすわらせ、法を説いた。精神的に空虚を感じていたヤサは、この釈尊の言葉に喜んで、法を聞いたとなっています。
 池田 このときヤサのために説いた法は、当時のインドにあって常識的な通念となっていた業報思想を引いて、仏法の因果律、出離生死の必然性などを説いたとなっています。
 これらから判断すると釈尊の説法は、その人に合わせてかなりインドで育った哲学を用いながら、因果の理法から人生の生き方を教えたという感じが強い。非常に穏当で妥当な一般論を用いて、仏法に入らしめる門としたようだ。
 野崎 釈尊は一般思想、とくに当時の思想界にあって支配的な哲学であったウパニシャッドの哲学に対し、それを全面的に否定するという立場はとらなかったようですね。できるだけその哲学の成果として一般化された理念や思想を論証の根拠として、それを仏法への接点として説き起こそうとしたところに特徴があるようです。
 池田 もちろんそれだけではなく、自ら一般思想との根本的な立場の違いを明らかにして、独自に説いたこともあるだろう。それは、後でナーガールジュナ(龍樹)によって、仏の説法は四つの方式、すなわち四悉檀があると定式化されて整理分類されたわけですが……。第一義悉檀、対治悉檀というのは仏法独自の思想を第一義に、また他の思想を破折して説いた方式ですね。それに対して世界悉檀、為人悉檀は相手の立場、思想、心情を理解し、一般論を用いて仏法へ入らしめる説き方であった。
 釈尊の四十五年あるいは五十年といわれる説法、教化活動は、この四悉檀を奔放に駆使したといってよい。ヤサなどへの説法は為人、世界悉檀的な説き方であったと考えられる。
 野崎 それでヤサは、この釈尊の教えを聞いて自分自身の人生を強く反省したのでしょう。心が洗われる気持ちになり、ついに釈尊の弟子になり、出家することを決意したといわれています。これで釈尊の門人は先の五人と合わせて六人となった……。
 池田 ヤサにまつわるエピソードは、これだけにとどまらない。このあと出家した息子の安否を気づかった父親が、やはり釈尊のところへきて法を聞き、在俗信者として信仰に励むことを決意するとともに、釈尊もヤサ家へ招かれて、そこでヤサの母と妻が帰依するようになる。
 さらにそれだけでなく、聡明の誉れの高かった青年ヤサが釈尊のもとで出家したことを聞いた友人が、次々と釈尊の教えに感嘆して出家した。この友人の数は五十四人を数えたといわれる。
 一人の英知ある青年の信仰が、家族に、また同時代の若者にいかに大きな影響を与えるか、ヤサの出家はそれを物語って余りあるね。
 野崎 そうですね。こうしてともかく、釈尊の弟子は五人の比丘に加え、ヴァーラーナシーの豪商の息子ヤサの帰依を契機として、一挙に五十人以上の出家者が加わり、小さいけれども一つの教団を形成するにいたった。
 そして釈尊は、この意義あるヴァーラーナシーの教化を終えて、次に悟りを開いたウルヴィルヴァーへ向かい、本格的な布教を展開するようになります。
 ところで、ここで注目すべきことは、教団を形成したからといって、この六十余名が一群となってウルヴィルヴァーへ向かったということではない。むしろ出家者一人一人が、互いに各地で民衆を独自に化導することを命じていたということです。
 池田 なるほど。すると釈尊も、弟子をもっていたが、連れ立って行ったのではなく、一人で向かったわけだね。
 野崎 ええ。その点について仏典『マハーヴァッカ』では、諸君も最高の悟りを得たのだから世の人びとの平和のため、幸福のため、諸地域を遊歴し、優れた教えを説き、実践法を示すがよい。……自分はウルヴィルヴァーのセーナー村に行く。諸君も思い思いに遊歴しなさい。二人いっしょに連れ立つのではなく、必ず一人ずつで歩き、なるべく多くの人びとを指導教化しなさいと命じた、とあります。
 池田 それは非常に興味あるところですね。釈尊の教えを聞き、そこで仏教の理を獲得し、出家するとすぐ人びとを教化させた。それが出家者の実践であり、使命であったことがうかがわれる。「世の平和のため、人の幸福のため」仏法を説き、民衆を指導教化せよ、というのが、やはり仏教の根本的な実践の精神であったことを、それは物語っている。
 考えようによっては、出家すると、釈尊とともにというより一人で巡教するのだから、これは随分厳しいもののようにも思えるが、おそらく釈尊は、自分の弟子には、仏教者としての厳格な指導と教育を施したのでしょう。
 この仏教の出家者に対する厳格な指導と実践への教示は、今日、われわれが、仏教の精神はいずこにあるかを知るうえで貴重な手掛かりと考えねばなりません。
 所詮、仏教とは、単なる哲学でもなければ、瞑想の世界に静かに身を横たえることでもない。道を求めてその理を体得したならば、自己の人生の使命を、その法の流布と弘通にかけて衆生を教化していく、その実践のなかにあることを忘れてはならないし、それが釈尊から現代にいたるまで、一貫して続いているということです。
 野崎 「連れ立たずに、必ず一人で遊歴教化せよ」というところは、またある意味では、仏教が信仰者一人一人の自律性と主体的な実践を、なによりも大切にしたということもあらわしているのではないでしようか。
 池田 そうです。出家者は、単に仏教を与えられたものという受動的な受け止め方ではなく、教示された法を今度は一人で、自身が主体的に友に語りかける実践という場を通して把握させるという、能動的な受け止め方をさせようと、釈尊は考えたともいえるのではないだろうか。
 ともかく、帰依した一人一人に独自に法を説かせて民衆のなかへ入らしめた釈尊の教育は、実践宗教としての仏教の特色を、じつに鮮明に示しているでしよう。

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