Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 釈尊の成道  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  ブッダガヤー
 野崎 徹底して、当時のありとあらゆる苦行に取り組んだあと、それでもなお悟りが得られなかった釈迦は、ついに苦行を捨てます。そしてまず苦行によって表弱した体を回復しようとした……。
 伝説によれば、そのあと、苦行で垢のついた身体を浄めようとして、付近を流れるナイランジャーナ河(尼連禅河)で休浴したといわれる。そのとき、身体の衰弱が甚だしく、河岸に上がる力もなかったとされています。
 池田 仏像彫刻などを見れば、枯れ木のようにやせ衰えた釈尊の姿が示されている。彼の苦行が、どれほど苛烈であり、かつ身体を痛めたものであったか
 がうかがいしれるようだ。
 また、いま沐浴の話が出てきたが、この沐浴というのも、インド的風土から生まれた独特のものだね。聖なるガンジス河の流れの中に、汚れた身体を洗い落とそうとする風習は、現在でも根強く残っている。このあいだ、たまたま現代インドのスライドを見る機会があったが、今もなお、ガンジス河で体
 を洗う人の群れが象徴的に出ていた。ガンジス河は、今ではけっしてきれいな水とはいえないが、これらの人びとにとっては、そこで身を浄めることが、輪廻の業から脱れる尊い行為であるといった信仰があるようだ。
 釈迦時代にあっても、水浴、沐浴は、出家者のなかで盛んにおこなわれていた形跡がある。
 野崎 そういう信仰があった背景に、インドには古来から、土地には地神、樹木には樹木の神、河川には水の神といったものが宿っているという、一種の民俗信仰のようなものがあったとも考えられますね。
 池田 現実的に考えれば、苦行を捨てたのだから、一つの区切りをつけ、未来へ新たな出発をする決意のうえから、色心を、もう一度調えようとしたと推測しても、間違いではないだろう。
 野崎 ナイランジャー河で身を洗うと、今度は、今まで断食行をおこなっていたのをやめて、食事をとった。この食事は、セーナー村に住むスジャーターという若い娘の供養した「乳糜にゅうび」であったといわれています。
 池田 乳糜というのは、乳粥だね。
 野崎 ええ、牛乳をまぜて炊いた粥といわれています。このスジャターという娘については、種々の伝説がありますが、釈迦の修行した村の村長の娘であるともされています。その娘が、どういう契機で釈迦に供養しようとしたのか定かではありませんが、とにかく諸伝の一致するところでは、釈迦は、そのスジャータの捧げる乳糜をとって体力を回復し、また新しい生命の息吹で、悟りに入ったとなっています。
 池田 その悟りの道に入った場所が、ブッダガヤー(仏陀伽耶)ですね。釈迦が苦行していたところからは、そんなに遠くはないでしょう……。現在は、たしか、そのあたりが寺院になっている。
 野崎 そうですか。文献では、ウルヴィルヴァー地方にあるガヤーであったとなっています。
 池田 なるほど。釈尊がそこで悟りを開いたから、ブッダガヤーになったのでしょう。
 そしてその地には、菩提樹があった。この菩提樹も、釈尊が成道して以後「菩提樹」と名づけられたということだが……。
 野崎 それまでは、アシュヴァッタ樹ともビッパラとも呼ばれていたそうです。このウルヴイルヴァー地方だけでなく、インドの諸地方には、このアシュヴアツタ樹が多かったようです。
 池田 一般に、樹の下で瞑想するということも、インドの出家者がよくおこなっていたといわれる。静寂な樹木の陰で、内なる自己、事物の真相を把握する修行が、仏典などにしばしば出てくる。そのなかでも、菩提樹は昔から「不死」を観想する場所として、尊敬されていたようだ。由緒のある樹だったのだね。
 私もかつて見たことがあるが、葉や根が広がっている。それが不思議な霊樹と人びとに映ったようで、聖者が最高の悟り、究極の悟達を得る場所と考えられていたということだ。釈尊も、その菩提樹の下に坐した。もっとも、いま、ブッダガヤーにある菩提樹は、釈尊が坐した樹そのものではないらしいが……。
 それはさておき、そのときの釈尊の身なりは、どのようなものであったのか……。
 野崎 そのとき、釈尊の着していた衣は、糞掃衣ふんぞうえでは、なかったかといわれています。当時の修行者に最もふさわしい衣とされていたのが、この糞掃衣で、墓場で不用になった衣類の屑切れを寄せ集めて作った衣であるようです。ただ、実際、釈尊がこの種の衣をまとっていたかどうかは、推測のほかはありません。
 池田 菩提樹の下には、むしろのようなものが敷かれであったともいわれているが……。
 野崎 ええ、それは、付近の農民が供養したもので、ムンジャ草という柔らかい乾草であったようです。
2  降魔について
 池田 そういう情景のなかで、釈尊は趺坐して思念を凝らした。この趺坐というのは結跏趺坐のことだが、これは、禅定やヨーガにおける一般的な坐り方であった……。
 野崎 左足を曲げて、右足のモモのあたりへもっていき、右足も同様に左のモモの上におく(笑い)という坐り方ですね。坐り方としては、最も安定した形になるそうですが、なにか柔軟体操のような感じがします。(笑い)
 池田 まあ、当時はそれが最高の正座だったのでしょう。ナーガールジュナ(龍樹)の著といわれる『大智度論』には、これについて「もっとも安穏なるがゆえに、手足を摂持せつじして心散ぜざるがゆえに、魔王怖るがゆえに」(大正二十五巻111㌻)と、この正座の利点を挙げている。「魔王怖るがゆえに」とあるのは、面白い表現だね。(笑い)
 野崎 そういえば、あらゆる経典に、釈尊が菩提樹下で結跏趺坐したとき、魔が襲いかかったことが、詳細に綴られております。そして釈尊が、この魔を駆逐した暁に正覚を得たことになっています。『大智度論』の釈も、こうした釈尊の成道前後を考えてのこととも受け取れます。
 池田 ところで、いま出てきた魔の問題だが、これは仏法というものを理解するうえで興味ぶかい問題の一つです。釈尊の成道も、この魔との戦いに打ち勝った果てに得られたわけです。いわゆる”降魔成道”といわれるところです。
 野崎 釈尊の成道直前にあらわれた魔について、経典から引用しますと、まず正覚をめざし修行に励む釈尊の前に、魔があらわれ、次のように述べた。
 「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
 あなたが死なないで生きられる見込は、千に一つの割合だ、きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそもろもろの善行をなすこともできるのだ。
 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行ないをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。〔苦行に〕つとめはげんだところで、何になろう。
 つとめはげむ道は、行き難く、行ない難く、達し難い」(『仏典』中村元編、筑摩書房)
 池田 ここに、魔というものの本質が出ている。普通、悪魔とか魔とかいうとなにか神秘的でもあり、また一種の童話的な感じで受け止められるが、仏法でいう魔とはけっしてそういうものではない。大宇宙に瀰漫する生命であり、またそれは、わが己心のなかに厳然と具わっている。そして、この魔の本性は「奪命者」という定義のように、人びとの生命力を根源から奪おうとする働きがあるのです。
 具体的な形においては、この経典の叙述のなかにもあるように、正法、正しい目的観に向かって歩み、努力しようとする者の生命のなかに湧き出でて、それを妨げようとしてくる。
 野崎 三障四魔のうち四魔とは、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔です。われわれの日常のレベルでは、この四つのなかにあらわれているわけですね。煩悩魔とは、自らの欲望のために身を滅ぼす結果にいたること、また陰魔とは病魔、死魔は文字どおり生命を奪おうとする魔です。しかし、そのなかでも天子魔は最も大きい魔で、元品の無明、つまり正しい人生観に立てない思想の迷いですね。
 釈尊は、その魔にあらわれたときに、一歩も後退することなく立ち向かった。
 さきほどの引用を続けますと、釈尊はその魔に対して次のように述べている。
 「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は[世間の〕善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその〔世間の〕善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
 わたくしには信仰があり、努力があり、また知慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?(中略)見よ、心身の清らかなことを。汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は愛執といわれる。
 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することは、ナムチよ、これらは汝の軍勢である。〈黒き魔〉の攻撃軍である。勇者ならざる者はかれにうち勝つことができない。〔勇者は〕うち勝って楽しみを得る。
 このわたくしがムンジャ草を口にくわえるだろうか?(=敵に降参してしまうだろうか?)この世における生は、いとわしいかな。わたくしは、敗れて生きるよりは、戦って死ぬほうがましだ。ある道の人・バラモンどもはこの〔汝の軍隊〕のうちに沈没してしまって、見えない。そうして徳行ある人々の行くべき道をも知っていない」(前出)
 このように、釈尊は、起こりくる魔との熾烈な葛藤を繰り返した。そして一歩も退くまいと決意したことがうかがわれます。ところで、一般的には、この魔の出現ということが、釈尊の悟りの模様をドラマチックに描写するための要素として、後世になって加えられたとの考え方がありますが、さきほどからの話のように、魔の本質を捉えるならば、けっして劇的効果を盛り上げるために付加されたものではないと思います。
 池田 そうです。単に厳粛な成道の場面を盛り上げるために挿入したということは間違いでしょうね。そこの描写の部分は、成道前夜の釈尊の己心中の境涯、己心に起こった波風を正確に表現したものといってさしつかえないと思う。偉大なる正覚を得るためには、甘美な誘惑や、自己の小さき欲望に翻弄されていたのではけっしてならない。ただ目的に向かつて、ひたすらに精進し、自己と戦うことにおいてのみ可能であると述べているのです。
 だから、眼前に、悪魔なるものが出現したというより、釈尊の己心のなかに明確に感ぜられたと解していいのではないかと思うのだが……。
 野崎 この釈尊の強い決意と姿勢の前に、ついに魔は、そこを立ち去った。
 「われは七年間も世尊に一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
 鳥が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって
 『ここに柔らかいものが得られるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』
 と言って、飛び廻ったようなものである。
 そこに美味を見出し得ずして、鳥はそこを飛び去った。岩石に近づいたその鳥のように、われらは厭いてゴータマを捨て去る」(前出)と。
 七年間つけねらってきた魔が、この成道直前になって、初めて正体をあらわしたわけですね。
 池田 結局、魔とは宇宙に瀰漫しているものであるが、本質的には、己心に具わっているのです。その、己心の魔の正体を見破ったときに、これを打ち砕くことができる。成道直前のこのときに魔が正体をあらわしたということは、釈尊自身が、己心の生命に魔の本体があることを看破したということと考えられる。
 野崎 魔といえば、この釈尊の成道以後にも経典には出てきます。そのなかでも最も有名な部分が、成道以後、初めて知り得た未聞の法門の喜びに耽ったあと、その正法を衆生に説くべきかどうかというときに、やはりこの魔が出現し、説くべきでないと述べている。これは初転法輪、つまり初の説法のところで触れたいと思うのですが、そのときは、結局、梵天の要請をうけて、釈尊が説法する決意を固めたとなっています。
 池田 釈尊が、説法を一度ためらったが、その後決然と民衆のなかへ入ろうと生命の姿勢を確立したとき、梵天の要請になったと考えられる。すなわち、魔の出現と梵天の要請という経過のなかには、釈尊の胸中に迷悟が交錯したことを象徴しているとみていいのではないか。
3  悟りとは何か
 野崎 さて、釈尊は、修行中いつも襲ってきた魔を打ち破ったあと、その夜ついに大悟を得たとされています。その成道の日がいつであったか、わが国や中国では、十二月八日、インドでは二月八日もしくは四月八日となっています。これは麿の関係でそうなっていると思われます。というのは、他の資料によると「ヴアイシャーカ月の満月の日」という記述もあります。太陽暦でいうと、これは五月になる。ところでインド暦では、この月は第二の月だそうで、それが漢訳されたときに「二月八日」になったというのです。
 しかし、中国の暦(周)によれば、この第二の月というのは、陰暦の十二月になるので結局、十二月八日となったとの説があります。季節でいえば、ヴァイシャーカ月というのは、インドでは春の季節をあらわしていますから、ほぼそのころではなかったかと考えられます。
 池田 釈尊が悟りを聞いたのは、その夜の明け方、普通いわれているのは「明星のいずる時」とされている。夜から明け方になる刹那、つまり「明けの明星」が中天に輝いている時と考えられる。菩提樹下で、ひとり坐して思念を凝らしているうちに、夜は深々と更け、ついに明け方近くなった。それにつれて、ますます釈尊の澄んだ英知の眼は、とぎすまされ、明けの明星が輝こうとしたとき、パッと電撃に打たれたように、自己の生命が開けるものを、しかと把んだ……。その瞬間に、出家者釈迦は正覚を得、その一瞬の開悟により、世界史に測り知れない影響を与えた仏教が確立した。
 野崎 この悟り、あるいは悟達という境涯というか状態というものが、どのようなものであるか、われわれにはなかなか理解しにくいのですが……・
 池田 非常に難しい問題ですね。ただ、現代の若い人たちには、そうした悟りなどについてなじめないものがあるかもしれないが、けっしてわれわれの日常の体験からかけ離れた状態ではないと思う。悟りを一言でいうのはたいへん難しいし、また不可能でしよう。たとえ説明したとしても、その場ですぐ納得できるものでもないでしょう。もし「あっ、そうか」とわかれば、仏だ。あるいは、よほど倣慢な人だ(笑い)ともいえる。
 しかし、人間生命のうえからいえば、けっして特別な状態ではないのです。なぜかといえば、大宇宙にも十界互具、一念三千の生命がある。またわが己心にもまったく同様の生命があるわけです。
 それが、釈尊の場合、その時、まさに夜がしらじらと明けようとした刹那、大宇宙の仏界と、自身の生命に厳存する仏界とが、境智冥合、感応して、大
 きく開けるものがあったのですね。釈尊の成道は、まさに、その仏界と仏界との感応であったと私は考えたい。そして、このような生命の状態は、なにも釈迦の場合だけが特例ではない。たとえばイエス・キリストにしても、悟りの内容の低さはあるにせよ、同じ状態を得ている。彼の場合は、ただ、仏界ではなく、大宇宙の菩薩界と己心の菩薩界の感応であったと考えられる。
 野崎 そうみていきますと、一般的にも敷街できますね。たとえば、デカルトの伝記を読んでいたときに、彼が一六一九年十一月十日、ドナウ河畔の寒村で思索に耽っていたとき、電流に打たれたように、はたと開けるものがあったというようなエピソードが出ていました。
 また十九世紀の実存哲学者キルケゴールも散歩しながら考察を進めていたとき、激しく彼の全身を震わすような、閃光のような一つの悟りが湧き起こったといわれています。
 池田 そう。それらは、西洋では「啓示」といわれ、究極神たる絶対神から啓示をうけたというように考えられているが、生命論のうえからいえば、一種の感応妙といえるでしょう。
 しかしその感応は、デカルトにしても、キルケゴールにしても、仏界や菩薩界ではなく、むしろ縁覚界の境智冥合ではないかと思う。というのは、縁覚というのは、独覚とも呼ばれ、一人で瞑想しながら、ある、ふとした縁にしたがって、ある悟りを得る人たちのことをいいます。花や葉等の自然風物の現象変化を観察しつつ、その縁にしたがって自分で宇宙の理法を分々に感得することがあるわけです。
 ですから、天才が、われわれ凡人では想像もできないような機縁から霊感を得て、そこに一つの独創的な発見や真理を把握するのも、広くいえばこの独覚に入るといってもいいでしょう。
 野崎 ニュートンが、リンゴが木から落ちるのにヒントを得て万有引力の法則を発見したという話や、ベートーヴェンが、田園を造遥したときの感懐をもとに田園交響曲を作曲したというような話も、広くいえば独覚の実証といえるわけですね。
 池田 生命論における独覚の覚という状態は、一つの境地に達したときの三昧境ともいうべきものです。それはまたあとに譲るとして、ここでは、悟りというものが、けっして神秘的な人間の経験能力を超えた次元のものではないことを述べておきたい。
 野崎 ただ、一般的には、そのように悟りに共通する境涯ということはあるにしても、釈尊等の仏法の、いわゆる「覚者」といわれる仏の場合と、他の宗教者、哲学者、天才などの悟りとは、質的に異なるものがあるのではないでしょうか……。
 池田 そうです。それは当然です。「但仏界計り現じ難し」で、大宇宙の本源の大生命に感応した悟りというものは、なかなか得られない。彼ら天才のみた世界も、その部分、部分の真理に達したものではあるが、いまだ本源の法そのものではない。ここに重大な、また根本的な違いがあります。
 ですから、たとえ偉大な真理を体得しても、その法により、自分自身の一個の不幸、宿命を転換することができないのです。ただ仏界の湧現のみが、それらを可能にし、無限に未来を開く唯一の生命の状態になるのです。
 だから、今、この釈尊の場合においても、自ら得た法それ自体が生涯を貫く不変の原理であったから、これほど最高の悟りはないのです。
 野崎 インドに生まれた釈尊は、あらゆる難行苦行、魔との戦いの末に、ついにその無上の悟りを得た。時に出家後十二年、あるいは七年とも六年ともいわれます。十九出家によれば三十成道、二十九出家にもとづけば三十五歳で「覚者」つまり「仏陀」になったことになります。ところで、この無上の悟りというのは「無上正等覚」と漢訳されていますが、経文には「阿耨多羅三藐三菩提」と出ています。
 これは梵語「アヌッタラーサンミャクサンポーディ」の音写ですが、無上の仏の覚知を意味し、悟りを得た仏の智慧が、一切諸法の義をことごとく照らし出し、完璧であることをあらわしています。では、その釈迦仏法でいう無上の悟りとはいったい何であったのか、また彼がその夜、深々と更けゆくブッダガヤーの菩提樹の下で覚知したといわれる本質、世界は何だったのか……。

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