Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 釈尊の修行過程  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
1  ビンビサーラとの会見
 野崎 釈迦は六師外道といわれるような、新しい思想家群がたむろするマガダ(摩伽陀)国を修行の地に選んだわけですが、彼は、はたして事前に、そうした思想家の存在を知っていたのでしょうか。
 池田 それは確証する資料は、見当たらないようだ。また、釈迦が、マガダ国で、そうした六師外道と直接会ったという記録も残っていないようだ。
 ただ釈迦の故郷であるカピラヴァストゥ(迦毘羅衛)は、教育にかなり力を入れていたという形跡はあるね。宗主国であるコーサラ(拘薩羅)の部族の子息たちが、文武の二道を学ぶため、カピラヴァストゥに習いに行ったということがいわれている。こうしたことから考えてみると、釈迦族は、軍事力は弱くてコーサラの属国になっていたが、部族の気質は、なかなか気骨があって、教育にも、非常に熱心であったと推定できる。
 だから、おそらくしっかりした教育機関的なものもあったと考えたい。釈迦についていえば、四期のうち最初の学生期の時に、バラモンの学問を学んではいるが、特定のバラモンの師匠について学んだということは記されていない。したがって、多分、釈迦族の、こうした教育施設のようなところで学んだか、あるいは、王宮にバラモンを呼んで学んだか、そのいずれかであったのではないだろうか……。
 野崎 釈迦の幼少のころの教育は、一般のバラモンの子息などと同じく、学堂のようなところでおこなわれていたとか、また父シュッドーダナ(浄飯)王が太子のために造った遊園地でおこなわれたとかいわれています。伝説によれば、就学してまもない幼少の釈迦が、すでに文字においても、算数においても、驚くべき博識で教師を仰天させたということになっています。
 池田 、なるほど。そこで、はたして釈迦が、そういう知的な環境のなかにあって、マガダ国に興っている新文化、新思想というものに触れていたかだが、私はあまり強い接触はなかったと思う。ただ鋭い英知の持ち主だから、風聞として、そういう新思想の鼓動といったものは、自然に知っていたのではないだろうか。
 というのは、釈迦族を統括しているコーサラにあっても、マガダ国ほどではなかったにせよ、比較的そのような新しい動きというか、息吹がみられる。だから、そのようなことが釈迦自身の周囲にすぼやく伝わったともいえる。
 たしかに、当時は現代のような著しい情報化社会ではないから、すぐ新文化の擡頭が釈迦族に伝わったとはいいがたいだろうが、一方、ある面では非常な激動期であったし、そうした時の動き、時代の推移というものは、釈迦にも敏感に伝わっていたにちがいない。
 野崎 その釈迦の内面に刻印された一つの新思想の芽ばえに対する予感のようなものが、釈迦が成人するとともに大きくふくらんでいった。それがマガダ国への訪問を促すことになったということですね。
 そこで、マガダ国に入った釈迦は、まず何をしたのか。おそらくラージャグリハ(王舎城)を中心に、集まっている出家者の様子をつぶさに見聞したと
 思われます。そして、その姿がマガダ国の国王ビンビサーラ(頻婆沙羅王)の目にとまった……。
 池田 あれは、たしかマガダ国にいる多くの出家者を、城の高楼に立って見ていたビンビサーラ王が、そのなかで釈迦が常人でないことを知り、どこへ行
 くか部下に命じて跡をつけさせたということになっているね。
 野崎 ええ。それで部下が、ラージャグリハの西のパンダヴァ山麓に釈迦が入るのを見届けて報告すると、ビンビサーラ王が自ら臣下を引き連れて山麓に休息している釈迦のところへ行ったということになっています。ラージャグリハというのは古代インド最大の都市ですが、周囲はこのような山で囲まれでいたようですね。とくに有名な山が霊鷲山(山頂が鷲に似て、鷲が多くいたのに由来する)で「グリドゥフラクータ」といわれ、ラージャグリハの近郊にあります。
 ところで、この部分の記述がもし事実であるとすれば、釈迦は数ある出家者のなかで、やはりひときわ光彩を放つ存在として映っていたということになりますね。
 池田 そう。やはり、普通一般の出家者とはどこか違ったものがあったのだろう。それがビンビサーラ王の目にとまったものと思われる。
 野崎 ビンビサーラ王の洞察眼も鋭かったということですね。釈迦が、マガダ国でひとり托鉢している、その姿を見ただけで、ひとかどの人物であると判断しているわけですから……。
 池田 並みの指導者ではなかったにちがいない。当時は、部族国家が強大国に併合されていく過渡期である。また激動期だから、その時代の激流を乗り切るためには、国王として、さまざまな角度から、国を強化することに思いを凝らしていたにちがいない。ビンビサーラ王の率いるマガダ国は、その奔流のさなかで勢力を伸長してきた国だ。ビンビサーラ王が凡庸であれば、そこまで強大国にはけっしてならないであろう。その意味で、非常に傑出した国王であったと結論しても、あながち過言ではないと私は思う。
 野崎 そのビンビサーラ王と釈迦の初めての出会いについては、この対話の最初にも出てきたところです。それをもう少し詳しく述べますと、パンダヴァ山麓に着いたビンピサーラ王は、そこに釈迦が安息している姿を見ると、つかつかと近づいて次のようにあいさつをした。
 「あなたは若くて青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生れ貴いクシャトリヤのようだ。
 象の群れを先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受なさい。わたしはあなたの生まれを問う。これを告げよ」(『仏典』中村元編、筑摩書房)
 ビンビサーラ王は釈迦の出身地を尋ねた。これに対し釈迦は、自分がコーサラ領に属する釈迦族の王子であることを述べたあと、王の申し出た軍隊の指揮について「王よ、わたしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。もろもろの欲望には患いのあることを見て、また出離は安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです」(前出)と断ったとされている。これは『スッタニパータ』(経集)といわれる最古の経典にある一節ですが、ビンビサーラ王が、初めて会った釈迦に自国の軍隊の指揮まで申し入れたとあるからには、よほど第一印象で釈迦にほれこんだ(笑い)といえますね。また、釈迦が単なる哲学青年ではなく、指導者の風貌をもちあわせていたことも裏づけられます。
 池田 ビンビサーラ王は自国の繁栄のため、ぜひ人物が欲しかったのだろう。わかるような気がする。けだしいずれの国でも、また時代でも、指導者というものは、四六時中、未来のために人材を望むものだ。
 そうしたときに釈迦が、電流に打たれたように目にとまった。それで”自国の将来のためには、この人物以外にない”と考えたのではないだろうか。
 ビンビサーラ王が釈迦に軍隊の指揮まで申し入れたのは、彼があらかじめ、釈迦がマガダ国の強敵国であるコーサラの属国の太子であると知り、この際、釈迦をマガダ国に引き入れようという政治的意図があったと推定する向きもあるが、真実はどうだろうか。
 野崎 『経集』ではこのあと、釈迦から申し出を断られたビンビサーラ王は、やむなく自分の願いを撤回し、今度は逆に、釈迦が出家の目的を果たした暁には、自分に第一番目に説法してもらいたいと懇望したということになっています。事実、釈尊は成道後、最初ではなかったけれどもマガダ国を訪れ、ビンビサーラ王はその時、釈尊に帰依しています。
 池田 このビビサーラ王は仏教の経典の各所に出てくる。われわれにとっても、なじみの深い人物だね。ただ、彼の晩年は不遇であったようだ。息子のアジャタシャトル(阿闍世)王の反逆にあい、幽閉され、殺害されている。もはや、使命を達成したともいえるし、宿命の打開ということの厳しさも考えねばならないところだね。
2  バラモンの二仙人
 野崎 文献上の資料によれば、ラージャグリハ(王舎城)西の山麓でビンビサーラ王に会見したあと、釈迦は、数多くの出家者のなかからバラモンの二人の仙人につき、そのもとで修行したということになっています。
 その二人とは、アーラーダ・カーラーマ(阿羅茶迦蘭摩)とウドラカ・ラーマプトラ(欝陀羅迦羅摩子)の二人です。
 池田 そう、仙人というのは、わが国では久米の仙人などがよく知られているが(笑い)、まあ非常に東洋的な風土から生まれたものですね。中国では道教における理想的人間像とされているし、インドでも、バラモン以来、人里離れた山林、森林で、道を究め、ある程度の徳を有したものを「仙人」といっていたようだ。
 インドにあっては、バラモンの修行者のなかで、かなりの境地に達した者に名づけられていたと思われる。
 野崎 つまり、バラモンの最高の権威者ですね。釈迦は、その、いわば当時のオーソリティーに師事したわけですが、この二人をよくみてみますと、さきに出てきた六師外道などとは、たいへん違ったタイプの修行者ですね。釈迦はなぜ、この二人を選んだのか……。
 池田 その理由は、あまり明確ではないようだ。ただマガダ国に入って、六師外道などのことについては、釈迦は十分耳にしていたにちがいない。しかし、どうも、その極端な思想と修行の実践に、なじめなかったのではないだろうか。
 そこで、さまざまな出家者の様子をまのあたりにした。そのなかから、この二人が浮かび上がってきたと想像される。何故に釈迦が師事してみようと思ったかは、今ではまったく推測するしかないが、この二人は、禅定の大家だね。
 野崎 ええ、そうです。アーラーダ・カーラーマは「無所有処」という禅定の境地、ウドラカ・ラーマプトラは「非想非非想処」という境涯を得たということで知られていた禅定家です。
 池田 その禅定ということだが、これは、苦行とともに、当時の出家修行のなかで、とくに優れた修行法と考えられていた。この禅定が、いつごろから始まったか……。おそらく当初は、バラモンの、例の四期の林棲期にあたる人の修行法であったようだが、釈迦の時代に下ると、もっと哲学的な意味から、禅定が考えられるようになってくる。
 野崎 哲学的な意味といいますと、心を統一するとか、自己の内面を省察するとか……。
 池田 そういうこともあるが、精神の作用、働きによって、肉体の束縛を離脱するというような考え方が生まれてくる。つまりバラモンの哲学、とくにウパニシャツドの哲学では、精神と物質・肉体とは相対立するものとみられていた。そして、この物心の二つの対立から、幸・不幸が生ずるという思想がある。
 それを解決するのは、人間の本来のものである精神の無垢清浄な働きを促進し、物質的なものを、このもとに包摂する以外にないというような考え方が出てきたのだね。それがヨーガといわれる禅定で、釈迦時代の出家者に流行していた修行法であった。
 野崎 現代の先進文明圏でヨーガや禅に関心が寄せられているのは、精神の荒廃という現実に対する一種の反省からですが、やはりこれと共通する背景が当時もあったわけですね。
 池田 そうですね。それと、釈迦の時代において禅定が流行したのは、この現実の人間存在にともなう苦悩からの解脱ということが、根本的な考え方としてあった。
 解脱ということは東洋独特の言葉で、西洋で、しいてこれに類似する用語を探し出せば「自由」ということになるが、やはり解脱と自由とは違う。これは、換言すれば東西の「自由観」の相違ともいえるが、西洋流の「自由」という言葉は、制度的な社会
 原理として考えられている。それに対して、解脱という東洋的な自由観は、どのような社会、体制にあっても、本年的につきまとう人間の生死の苦悩をつきつめて考えてい。そして、その根源の事実からの解放を強く希求していますね。
 野崎 それが、あまりにその根源の深みに沈潜しすぎて、つい現実の社会の問題を等閑視してしまった(笑い)。その点、西洋の「自由」観は、人間の社会的権利としての側面の追求であったため、社会制度上の数々の進展と変革がおこなわれましたね
 池田 それが、近代に入って東洋精神文明が、西洋文明に支配されていく一要因となったとも考えられる。これは、どちらがいいという問題ではなく、両面を考えていかなければいけないが、現代という時代のおかれた状況からみれば、東洋的な解脱観が、今こそ必要だといえるのではないだろうか。
 野崎 話がだいぶ飛びましたが、その解脱を図る修行として、禅定があったということですか。
 池田 そうです。だから、人間の「生老病死」という、生死の問題の大いなる解決のために出家した釈迦が、その禅定に心をひかれたのは、むしろ当然であったといってよい。
 野崎 ところで、釈迦が師事した二人の仙人をみていきますと、まず最初についたといわれるアーラーダ・カーラーマは、マガダ国から少し離れた都市ヴァイシャーリー(毘舎離)にいたとも、またヴィンディヤ山脈に住んでいたともいわれて、居住地が明らかでないのですが、約三百人ぐらいの弟子をもっていたと伝えられています。そして体得した境地が、「無所有処」であることを宣言していた人物といわれています。この「無所有処」が、どのような悟りなのか。文字どおりいえば「所有がない境地」ということですが……。
 池田 この「無所有処」だけでなく、ウドラカ仙人の「非想非非想処」、つまり「想うに非ず、想わざるに非ずという境地」のいずれも、後年、仏教の境涯論のなかに組み入れられているものだ。「無所有処」というのは、すべて自身の執着を離れた境涯ということになるのだろうけれども、釈尊が、このバラモンの理想の境地を、自己の教義のなかで位置づけているのは、釈尊の悟りからみれば、天界の一つで、声聞、独覚にも及ばない、いわんや菩薩、仏界からみれば、はるかに低い、三界流転の境地ということになる。
 野崎 つまり、打ち破ったうえで、十界の境涯論の中に位置づけているわけですね。
 池田 そういうことです。釈尊は即座に「無所有処」は、めざすべき目的にはなりえないことを見破ったと思われる。
 野崎 アーラーダ・カーラーマにあっては、それ自体が目的であった。釈迦は、このアーラーダについて師事し、たちまちのうちに、このアーラーダが体得したという「無所有処」という禅定の境地に達したが、それではとうてい満足することができなかった。この間の事情について、経典では、アーラーダを訪れ、その実践法を聞いた釈迦が、即座にアーラーダと同じ境涯を得たため、アーラーダが驚き、そして「この門下にとどまって、二人で弟子を統率しよう」と呼びかけたのに対し、釈迦は「この法は厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、知に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ無所有処を獲得し得るのみ」(前出)と述べ、そのもとを立ち去ったと記しています。
 池田 釈尊にあっては、正覚、つまり人間の生死の苦悩を解決する悟りが目的であった。しかし、バラモンのアーラーダの説く「無所有処」は、その悟りにいたる段階の境涯である。「何物にも執着しない」といったところで、現実の人間の苦悩は解決でき
 ない。故に釈迦は、それに満足できないで立ち去ったと、私は考えたいのだが……。
 野崎 これは、釈尊の悟りの内容と関連してくるわけですが、釈尊の悟りは、万物の生滅の真相を直覚したものですね。そういう釈尊の悟達からみると「無所有処」ということは、たしかに一分の真理ではあっても、それ以上のものではないということになりますが……。
 池田 このことはアーラーダを去って、次のウドラカ・ラーマプトラのもとを訪れたときにも共通することです。
 野崎 そのウドラカ・ラーマプトラですが、この人物は、マガダ国にいた仙人とされています。彼は「非想非非想処」という境涯を得て、ラージャグリハの近くに七百人の門人を従えていたといわれています。
 さきほどの経典では、アーラーダのときと同じように、釈迦がウドラカ仙人を訪れ、たちまちのうちに、「非想非非想処」なる境涯に達したけれども、正覚におもむかない故に立ち去ったと叙述されています。「想うに非ず、想わざるに非ざる境涯」というのは、なんとなく抽象的で、つかみにくいのですが、思惟や理性をこえた生命の実感というか、そのようにも受け取れるのですが。
 池田 そうですね。一概には断言できないが、想念とか、思惟というのは、まだ観念の範疇といえる。真の悟りというものは、そうした観念の殻をこえた、生命に刻印された実体です。しかして、その実体をつかんでいる自己自身は、やはり思惟する自身であるというような意味のようにも解釈できる。
 野崎 話がかなり難しくなってきましたが、ここで大事なことは、いずれにしても、出家者・釈迦は、当時の最高の禅定家二人に師事し、その禅定の理想を体現したが、自らの出家の目的を満足することはできなかったという点にあると思います。そこで釈迦は禅定を捨て、次に苦行に入っていく……。
 池田 結局、それは当時の禅定家は、禅定それ自体が目的であった。禅のための禅であった。何故に禅定に入るかの第一義の命題を忘却していたともいえよう。
 野崎 このような傾向は、現在の安易な禅ブームにも、見受けられますね。ただ坐禅を組んで思いを凝らすだけでいい(笑い)というような姿勢も、一部にはみられるようです。
 また意地悪な見方をする人からいえば、その禅だけを目的にすると、たとえ、そこで得た境地といっても、ただ精神が朦朧とした状態が(笑い)高い境涯であったりされかねない。
 池田 そうだね。ヨーガや禅定は、東洋哲学の優れた実践法であるが、それは、真実妙なる「法」を把むための修行法であって、それ自体が目的ではないことを、釈尊が自身の体験を通して、後世に残しているとも、私は受け取りたい……。
3  苦行との対決
 野崎 マガダ国で当代一流の禅定家に師事したものの、そこで自身の求める悟りに達することのできなかった釈迦は、次に意を決して苦行に入ります。この苦行の期間が、六年とも、あるいは十年に達するともいわれるほどかなりの長年月になっています。
 釈迦が苦行した場所は、マガダ国のラージャグリハから少し西方のウルヴイルヴァー(パーリ語はウルヴェーラー)地方のセーナー村の近くの林であったとされています。この村は、ナイランジャナー河(尼連禅河、パーリ語はネーランジャラー)という河に沿った村であったといわれている。ナイランジャナー河は、ガンジス河の支流で、釈尊が悟りを開いたブッダガヤー(仏陀伽耶)もこの河の流域になっています。
 経典では、釈尊がいかなる環境のなかで修行に励んだか、次のような生き生きした筆致で、釈尊の回想として綴られています。
 「かくてわたくしは善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガダ国の中を遊歩しつつ、ウルヴェーラーのセーナー聚落に入った。そこに愛ずべき地域、うるわしの森林、流れ行く(ネーランジャラー)河、よく設けられた美しい堤、四囲豊かな村落を見た。そのときわたくしはこう考えた――実にこの地域は愛ずべく、森林はうるわしく、河は流れ行き、堤はよく設けられて美しい。実にこれはつとめはげもうと欲する良家の子が修学するのに適している。そこでわたくしはそこに坐した――『ここは修学に適する』と考えて」(前出)
 ところで、このセーナー村の林というのは、一種の苦行林といわれ、バラモンたちが集まって苦行に励んだ村であったと伝えられています。このようなところからみますと、苦行というのも、当時出家修行者に、たいへん広く実践されていたということですね。
 池田 苦行も、さきほどの禅定と同じように、インド哲学の修得法として、よく用いられたものです。ここにも物心二元論ならびに解脱の思想が流れている。つまり、何故に苦行するかというと、肉体を苦しめ、苦しめ抜くことによって、精神の自由を獲得しようとする思想があるわけだ。
 野崎 苦行には、いろいろの種類があるそうですが、いま、それらの一端を水野弘元氏が『釈尊の生涯』(春秋社)で記された分類によって並べてみますと、心を制御するもの、呼吸を止めるもの、断食によるもの、食を減ずるものなどに分かれています。
 そして、それらの苦行の一つ一つに、じつに詳細なパターンが挙げられています。たとえば、心を制御する苦行についていえば、端座して上下の歯を合わせ、舌を上顎につけ、その姿勢のままで、じっとわが心を統制する。
 これだけ読めば、なんでもない行にも思えますが(笑い)、実際やってみると、短時間ならたいしたことはないのですが、長時間やっていると、次第に呼吸が苦しくなり(笑い)、両脇から汗が出てくるといわれています。いってみれば、頭の上に、何か重しをのせられて、じっと歯を食いしばって頑張る(笑い)というような修行ですね。
 また、呼吸を止める苦行などになると、これは大変で、まず最初に、鼻や口から息が通るのを止めることに専心するのだそうです。鼻や口から息を止めると窒息するのではないか(笑い)とわれわれは思うわけですが、そういう鼻や口の呼吸が止まると、実際は耳から息が出入りするようになるらしい。しかし、それは激しい耳鳴りがして、その苦痛は耐えがたいものだといわれています。
 それで、この呼吸を止める苦行は、次いでその耳から出入りする呼吸も止める修行に入るらしいのです。すると今度は、頭に響いてきて、頭が砕かれるような苦痛が生ずる。それから、やがて下腹部へと続けられ、最後に全身に進むという次第が決められているようです。
 このほか、断食のほうでは、一昼夜や一週間などは、まだまだ序の口で(笑い)、一カ月、二カ月、場合によっては六カ月に及ぶといわれている。とくにジャイナ教の断食行は有名で、これを苛酷なまでに実践したため、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプトラ)の弟子の十一人のうち、九人までが断食により、生命を絶ってしまった。しかし、それが解脱とされていたようですね。
 このような記述をみていますと、なんと残酷で非人間的な宗教かとも思えるとともに、宗教、思想は、徹底して実践すると、きわめて恐ろしい結果を生む場合があることを、改めて思い知らされた気がします。
 池田 まったく、今日のわれわれでは、考えられないことだね。宗教、思想というのは、それを実践すれば、その一念によって、必ず結果が生ずるから、ある意味では、非常にこわいといえる。
 まあ、ジャイナ教の場合は、極端で徹底した苦行主義を貫いたわけであるが、苦行そのものの本意、真意というものは、けっして哲学的な意味がないわけではない。
 苦行という言葉は、原語でいえば「タパス」ということで、その文字どおりの意味は「熱」ということだといわれる。すなわち、炎熱、酷暑の太陽熱を裸身に受け、身、つまり肉体を焼け焦がすという修行だね。
 そんな修行が何故あったかは、さきほども述べた、肉体は汚れあるものであり、精神こそ清浄なものだという根強い思想がある。だから、肉体をいじめ抜いたその地平の彼方に精神の安らぎがあり、それを解脱とする思想があるのだろう。
 したがって、苦行は、当時にあっては、悟りを得るための、重要な修行法であったわけだろう。どのような出家者も、一度は、その苦行の体験の門をくぐらないと、真に事象の真相に迫っていけないという伝統的考え方があったとみていいのではないか。
 野崎 釈尊も禅定で得られなかった悟りを得るためには、やはりその道をとらざるをえなかった……。
 池田 それと、釈尊の姿勢のなかには透徹した悟達を得るためには、やはり自己自身との厳しい対決がなければならない。だれびとも、その時代の外には出られない。だから、釈尊もその苦闘、葛藤を経ずして、地についた自身の悟達は望めないという信念
 があったのではないかと思う。
 それは、歴史を変革する発見や、真理を体得したすべての人物に、いい得るのではないかと思う。安易な実践の中には、大衆をリードし時代を先取りする思想や知恵は、けっして生まれてこないものです。だから、釈尊も、苦行を自身の体験の年輪に加えることにより、また、それと真っ向から対決することにより、独自のものを把もうとしたと、私は考えたいのです。
 野崎 そうでなければ、釈尊の修行の過程の大半が苦行で占められていたということが、納得できませんね。『大智度論』にいう、十九出家の説をとれば、十一年間、原始経典の説をふまえても、六年の長きにわたり苦行していたという真意は、そこにあるとみていいですね。
 池田 今の言葉でいえば、その時代の思想と本格的に、そのなかに入って実践、対決したということになる。何事も、とくに宗教や思想というものは、その内に入っておこなわなければ、真髄は体得できない一面がある。
 現代は、科学精神という客観的尺度ですべてを外側からみる傾向が強いので、こうした考えは、なじめないかもしれないが、大悟に通ずる道というもの
 は、けっして冷ややかな傍観の態度ではなく「そのもののなかに入る」ことによって達する場合が多いことも、忘れてはならないと思うのです。
 野崎 それで、セーナーの苦行林に入った釈迦は、おそらく当時のそうした苦行の数々に取り組んだ。それもかなり徹底して……・
 池田 その通りだと思う。けっして中途半端ではすませていないだろう。だから経文にも、釈迦があまりに激しい苦行をおこない、周囲の人は、その激烈
 さに驚き、釈迦は死んだのではないかと思うところがあるでしょう。
 野崎 ええ、それは後年、釈尊が自分の修行中の体験を回顧して語る一節に出ています。
 「、およそ過去の沙門あるいは婆羅門の中で、どれほど激しい苦痛を受けた者があったとしても、自分が受けたものほど最高の、これ以上のものはなく、未来の沙門、婆羅門で激しい苦痛を受ける者があったとしても、自分が受けたものほど最高の、これ以上のものはない。現在の沙門、婆羅門で、激しい苦痛を受ける者があっても、自分以上の者はない。しかしながら自分はこのような酷しい苦行をなしても、いまだ人法を越えた最高の悟りに到達し得なかった」(『南伝大蔵経』第九巻下、参照)
 池田 そう。これは堂々たる釈尊の確信だね。つまり、釈尊は、当時にあってはいかなるものよりも、苦行の極致を実践した自負がある。その自負のうえ
 から、苦行ではダメだという結論が生まれている。これは非常に強い……。
 釈尊には、過去、現在、未来の、いかなる修行者よりも、自分は、徹底的に苦行を実践したという自負があるのです。いわば、苦行の真髄まで体験した。しかし、それでもなおかつ、自身の目的とする悟りが得られなかった。ですから、最終的に、釈迦は苦行を放棄するわけですが、その放棄は、途中の挫折ではなく、真髄を把んだうえでの放棄であるわけです。
 ここのところは、仏教の悟りというものが、いかに道を求め抜いた者の、厳しい体験の試練のうえに得られるかを示している点で、ふまえなければならない個所ですね。

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