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日蓮大聖人・池田大作

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1 釈尊の青春  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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1  野崎 仏教というと、だれもの脳裏に浮かんでくるのが、釈尊です。とくにわが国では「お釈迦さま」の愛称で親しまれるほど、釈尊の名は有名です。まさしく仏教とは、釈尊が説いた教えを源として始まっているわけですが、この釈尊が、どのような生涯を送り、また何を悟り、人びとに何を説こうとしたのかとなると、残念ながら意外に明確な史料がないというのが実情ですが……。
 池田 そうですね。釈尊について、正確な史料や伝記がないのは、やむをえないともいえましょう。すでに二千数百年も以前の人物を正しく復元するということは不可能に近い。また、釈尊のように偉大な宗教人になると、その人格を慕う後世の弟子が、尊敬賛美のために誇張する。また、伝説を作り上げて神格化してしまうことが避けられない。それがかえって釈尊の真実の像というものを歪めていることも否定できないでしょう。
 だいたい、釈尊の生きた年代そのものの確定にも困難をきたしている。釈尊の生まれたインドでは、元来が歴史を記録するという習慣をもたなかったともいわれている。歴史や、移り変わる社会の記録よりも、むしろそれらの事象の意味するものや、永遠なるものへの探究に最大の関心事があったといえるのではないだろうか。このインド人固有の民族性というものが、釈尊という最大の注目を集めた人物に対しても、その思想や教理は残したが、正確な記録はとどめなかったという結果をもたらしたのではないかとも指摘されている。
 野崎 たしかに、そういう面はあると思います。これは本論から少し離れて余談になりますが、インド人の民族性として、『未聞の顔・文明の顔』(中根千枝著、中央公論社)という書物に興味ぶかいエピソードが紹介されていたのです。それは、インドを訪れた紀行随筆ですが、著者はいたるところでインド人の時間に対する感覚が、日本人などとはまったく違うということに唖然とさせられてしまったというのです。
 たとえば、時間の約束をしてもインド人は平気で遅れてくる。それも十分や二十分ではない。三時間、四時間も、ときには半日以上も待たされることがあるそうです。著者はある高官と約束して、じつに一時間以上も待ちぼうけをくった。それで、忘れてしまったのかと思って、やむなくホテルに引きこもっていると、なんとそれから四時間も経た後に、その高官はやってきた。それで著者が時間の約束を破った非を責めると、その高官はなんら悪びれず、むしろけげんな表情で「どうして待ったといって、そんなにお怒りになるのでしょう。待つということほど楽しいことはないのに。その時がくるまで、いろいろ想像して楽しいではありませんか。(以下省略)」と言ったそうなのです。
 普段、それでなくとも時間に追われ、忙しい日本人にしてみれば、こういったインド人の感覚は想像を絶するものがあるようです。インドではこういう話は日常茶飯事で、列車の出発時刻にしても、五分停車のところが数時間になったりするケースもあり、日本の目の回るようなダイヤなどはまったくないといった現状のようですね。ですから、こういった時間、歴史というものに対する感覚が仏教というものの正確な歴史をとどめることを妨げたともいえるのではないでしょうか。(笑い)
 池田 面白い話ですね。しかし、もう一面からいえば、時間にとらわれない風土、すなわち、一つの立場に深くとどまって、環境の変化の本質を見極めていくという体質が仏教のような深遠な哲学、宗教を生み出したとも考えられる。いま、インドの高官のエピソードが出てきたけれども「その時がくるまで、いろいろ想像して楽しいではありませんか」という話は、なにかインドの人たちの体質を象徴的に示しているのではないだろうか……。
 それは非常に内省的、哲学的ということです。仏教にしても、またそれ以前のバラモン哲学にしても、全体的に思弁的であり、哲学的には高度なものが多い。それはおそらく当時の世界にあっても、群を抜く水準だったとも考えられる。
 ですから、歴史や記録を追究する人たちにとっては、インドは非常に理解しにくいけれども、思想・哲学という面からいえば、まことに取り組みがいのある国と思える。
 野崎 このインドの民族性を理解しておくことは、このあと出てくる仏教の種々の問題を考えるうえでたいへん重要な手がかりになってくると思います。
 それらを念頭に入れておくと、案外、霧に包まれた部分に照明をあてることができることも少なくないのではないでしょうか。
 池田 いま、釈尊について明確な史料がないといったが、まったくないわけではない。仏伝として、その生涯を扱ったものもアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の『ブッダ・チャリタ』(漢訳『仏所行讃』五巻)など幾つかある。ただ、それらは相当年代の下ったものであり、伝説的要素がかなりあるようだ。しかし、その仮説要素をすべて捨ててしまうのでなく、なぜそのようなことがいわれるようになったのか、その背景をたどっていけば、かなり真実に近づけるのではないかと思う。
 また、釈尊の思想を残そうとした経典の中に釈尊の姿が説かれているものもある。これらを拾い上げてみると、釈尊という人間性の確かなる一つの輪郭もわかってくるでしょう。
 野崎 そうですね。さきほどもいわれたように、仏教を開いた釈尊がいつごろ誕生し、入滅したのかは、学者のあいだでもさまざまな異論があって、今日でも統一した見解があるわけではありません。これも、インド固有の民族性と関連している問題の一つですが、まず、釈尊という仏教の開祖がいかなる人間像であったか、その輪郭に焦点を絞って話を進めてみたいと思います。
2  名前の呼び方
 野崎 最初に名前ですが、一般的には「釈迦」とも呼ばれていますが、じつは、これは釈尊が生まれた部族の名前ですね。
 池田 そうです。釈尊は、シャーキャ(釈迦)族という部族国家の王子として生まれたというのが定説だね。ですから、正確には「釈迦」よりも「釈尊」のほうが適切ということになる。釈尊となると「釈迦族の聖者」という意味になりますから、より具体的に仏教の開祖の名をさしていることになります。
 野崎 そのほか「ブッダ」(仏陀)と呼ぶこともありますね。古くからインドでそう呼ばれていた事実がありますし、また南アジアや西欧諸国でも使われています。
 池田 わが国ではそれを「仏陀」と書いているが、これは、中国に仏教が伝わったとき、「ブッダ」をそのまま音写して漢字を当てはめたものでしょう。ただ、この仏陀の意味は「覚者」「真理を悟った人」ということで、仏教の理想的な存在を示す尊称として用いられた傾向が強く、固有名調ではないという説もある。それから、「ゴータマ・ブッダ」という名もかなり使われている。
 野崎 これも古い仏典にみられるほか、今日のスリランカやタイ、インドネシア等に伝わった南方仏教では、一般に釈尊のことを、こういっているそうです。
 池田 ゴータマというのは釈尊の姓でしょう。
 野崎 そうです。漢字では「瞿曇」と書きますが、これは釈尊の生まれた釈迦族を構成していた一つの氏族の名というのが定説のようです。
 池田 よく歴史の教科書などに出てくる「シッダールタ」(悉達多)というのは、幼名とか個人名とかいわれているが、これも意味は「目的を達成せる」とか「義を成ぜる」ということであるようだ。馬鳴の『ブッダ・チャリタ』では、釈尊が生まれてからは父、シュッドーダナ(浄飯)王の願いがことごとく達成し、国も豊かになったことから、このように名づけられたとされている。また岩本裕氏は『悌教入門』(中公新書)のなかで、釈尊の実名ではなく、むしろ釈尊が成道し、その人格の偉大さを慕う尊称として、後代の人が仮託したのではないかともいわれていますね。
 野崎 そのほか釈尊のことを「シャーキャムニ(釈迦牟尼)」とも言いますが、この牟尼とは聖者の意味で、釈尊と同じ言い方だと思います。ですから、われわれが呼ぶ場合は釈尊もしくは釈迦牟尼が一番妥当ということになりますが、特別に学術的に限らない場合は、通称として「釈迦」または「釈尊」でもいいのではないかと思われます。
 (以下、本文はとの通称「釈迦」または「釈尊」を使用する)
3  釈迦族について
 野崎 ところで、釈尊の生まれた釈迦族についてですが、よくカピラヴァストゥ(迦毘羅衛)が出てきます。それがどのあたりに位置していたか、一つ
 の問題になります。ヒマラヤの南麓で、その南にガンジス河流域のデルタが開けていたとよくいわれていますが……。
 池田 それについて最新の考古学的研究では、今のネパール国のタライ地方だという見方をしているね。ただ、釈尊の生誕地はカピラヴァストゥではなく、ルンビニー(藍毘尼)ですね。
 野崎 ええ、カピラヴァストゥから二十四キロほど離れていたといわれています。ところで釈尊が生まれた当時は、すでに各地に都市があったといわれています。それがカピラヴァストゥの場合、町であったということから、あまり大きな都市ではなかったという説があります。
 池田 なるほど。王舎城はマガダ(摩訶陀)国の首都だね。それらと比較すると、やはり小規模であったのかもしれない。当時の生計はやはり農業でしょう。七世紀に唐の玄奘がとの地を訪れたときの訪問記『大唐西域記』では、釈尊の生国である劫比羅カピラ伐堵ヴァストウ国の気候は温暖で土地もやや肥沃であったという記録がある。経典等にはお米の話がよく出てくるので、多分、農耕を主体とした生活を営んでいたのでしょう。ともあれ、かなり平和で穏やかな田舎町であったと推測される。人口はどのくらいだったのかね?
 野崎 それが少し意外なのですが、釈迦族とコーリヤ(拘利クリ)族全体を合わせて百万ほどだと伝えられています。町自体の人口についての資料はありません。もっとも、百万という数も正確な人口調査をしたわけではないでしょうけれども……。
 池田 百万というと、かなりの数になる。小さな氏族ということから考えて、少し多過ぎる数のようにも思える。それはいいとして、釈迦族の人種は何系だったか、これがまた一つの問題ですね。西洋の学者の中にはモンゴル(蒙ず)系という説を唱えた人もいたようだが……。
 野崎 人種が何系だったか、諸説紛々としてはっきりしていません。モンゴル系という説は、中村元氏が『ゴータマ・ブッダ』(法蔵館)の中で「イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、『釈尊は生れは蒙古人であったらしい、すなわち蒙古人の特徴を具えチベット人に似たグールカ*Gurkha*のような山岳民であったらしい』」と紹介されているように、そこから生まれた説であるようです。これは、ヒマラヤ山脈の麓一帯にかつてチベット=ビルマ語族系の民族が居住していたことから言われだした見解のようです。
 池田 でも実際に釈迦族等にまつわる話などを総合てみると、やはりインド・アーリア人であったのではないかという説も多いようだ。
 野崎 ええ、それは、一つには釈迦族が自らを「太陽のすえ」といって自負していたと伝えられていますが、この太陽の裔ということを誇りにする習慣は、インド・アーリア人に非常に強い。ヴェーダなどをみても、彼らの信仰は、最初は太陽神であったようです。漢訳では釈迦族のことを「日種」族とも表現していますが、釈迦族がこれを自負していたことから考えて、多分にインド・アーリア人種に近かったのではないかと推定されています。
 池田 太陽を崇める信仰というだけではインド・アーリア人とはいえないと思うが……。当時はインドだけではなく古代人の一般の習慣とされていたからね。たとえば日本でも天照大神があるが、このように特定の王家が太陽の子孫という説き方が昔は多い。いわば、太陽は古代人の等しく尊敬する対象だったわけだ。釈迦族が「太陽の裔」を誇りにしていたというのも、そういった時代で最も畏敬されているものを自らの祖先としたとも考えられるのではないだろうか。
 野崎 そうとも思われます。また経典で釈迦の先祖とされているオッカーカ王もしくはイクシュヴァーク(甘庶)王は、プール族の王家の祖であり、ヴェーダでは、そのプール族はインド・アーリア人の敵とされていることから、もしオッカーカ王が本当に釈迦の先祖であれば、釈迦はインド・アーリア人ではないという人もいます。
 池田 二千数百年前の種族の人種がどうであったかということは、よくわからないのが本当だと思う。日本人にしても、祖先が何であったかいまだに判明していない点が多い。しかし仏法のいろんな物の考え方などにかなりアーリア系の特色が強くあらわれているのは否定できないと思えるし、その意味では、仏教もインド・アーリア文化圏で育ったといっても間違いないのではないだろうか。
 それから、古代インドの情勢だけれども、一般に「十六大国」とあるように、いろいろな部族国家が競合していたと考えられるね。
 野崎 もちろん、これは釈尊の生きた年代にもよるわけですが、仏伝などによると、その十六の大国が互いに覇を競っていた時代だったのではないでしょうか。その十六の国のなかでも有名なのはマガダ国、コーサラ(拘薩羅)国、ヴァッジ国、ヴァンサ国、アヴァンティ国で、十六大国以外の部族としては、バッガ族、ブリ族、モーリア族、マッラ族、コーリヤ族、シャーキャー(釈迦)族等の名がみえます。
 池田 これらの中で、プラセーナジット(波斯匿はしのく)王のコーサラ国とビンビサーラ(頻婆娑羅)王のマガダ国が強固だったようだ。このマガダ国が将来マウリヤ王朝を築き、その第三代に有名なアショーカ(阿育)王が出現し、古代インドを統一する……。
 野崎 ええ、ただ釈尊の当時は、どちらかといえば新興勢力で、ビンビサーラ王の即位以後、急激に力を増した形跡があるようです。マガダ国はガンジス河中流に位置し、ガンダク河、ソン河の三つの河が合流する一帯に勢力を張っていたようです。
 池田 そういう十六大国の時代で、釈迦族の位置はかなり弱かった。もちろん、カピラヴァストゥを独自でもっていたわけだが、これも現在でいう城のようなものではないともいわれている。西隣のコーサラ国の属国のような立場で、自立の部族国家とは少しニュアンスが違うようだといわれているね。
 野崎 それは原初の経典である『スッタニパータ』(経集)によれば、釈尊がガンジス河を南下し、マガダ国のビンビサーラ王に会ったとき、王の質問に「(ゴータマが言った、〕『王よ、あちらの雪山(=ヒマーラヤ)の中腹に、一つの民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈サーキヤ族〉(釈迦族)といいます。王よ、わたしはその家から出家したのです』」(『仏典1』中村元編、筑摩書房)と答えたことによるものでしょう。これらから考えるに、釈迦族は弱小部族の一つで、当時コーサラ国の属国であったといってよいのではないでしょうか。
 池田 コーサラ国の都はシュラーヴァスティー(舎衛城)であるが、釈迦族がここの属国のような存在でありながらカピラヴァストゥをもっていたということは、今でいえば自治領のようになっていたのかもしれない。
 それから、よく釈迦族では十人の指導者のなかから一人を互選し、それを長に立てて政治を運営していたといわれるが、そうなると一種の共和制のようだったということになる。
 野崎 当時の部族国家の政治体制がどのようなものであったか、これも学者によって種々の見解が述べられています。たとえば赤沼智善氏などによると、釈迦族は貴族的共和制で、少数の支配者による合議で統治していたとあります。しかし、これも異説があって、岩本裕氏は、当時は諸々の部族国家を強大な専制国家が統一し支配しようとする過程であり、専制政治の少数寡頭の政治支配であったろうと推定しています。
 池田 いずれにしてもここで大事な点は、釈迦族はそうしたなかで弱小部族として、いずれ強大国に併合される運命にあったということだ。ともかく厳しい四面楚歌の運命の国であったことは確かです。釈迦は、その斜陽部族の王子として生まれた。弱小部族の暗い前途を背負って立つ薄運にあったわけだね。だから、逆に釈迦に大きな期待がかけられたということもあるだろう。
 こうした彼の立場に対して釈迦自身がいかに考えていたか。それが、後に彼が、城も太子の地位も捨てて、出家する背景の伏線になったとは十分考えられる。

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