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日蓮大聖人・池田大作

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第十五章 ストレスと「衆生所遊楽」の境…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  科学の進歩が仏法を証明
 屋嘉比 『「仏法と宇宙」を語る』の英訳本が出版されましたね。おめでとうございます。
 池田 いや、どうも。私は英語が苦手ですし、全部出版社の方にお任せしているんです。(笑い)
 屋嘉比 天文学では世界的権威のウィックラマシンゲ博士(イギリス)が、書評を寄せておられるようですが。
 池田 そううかがっています。
 ―― 私が英国の出版社の関係者から取材した話では、ウィックラマシンゲ博士を推薦したのは、ケンブリッジ大学のホーキング博士のようです。
 屋嘉比 ホーキング博士は、アインシュタインの再来といわれる、今世紀最大の科学者の一人です。
 ―― ホーキング博士は、自分は仏教を学んだことがないので、仏教に通じ、秀でた天文学者であるウィックラマシンゲ博士を推薦したそうです。
 屋嘉比 ウィックラマシンゲ博士も、「宇宙論、また物理学の成果と仏法を結びつけるなかに、明らかになってくる英知の輝きは、控えめに言っても驚嘆すべき素晴らしさである」と最大の評価をしておりましたね。
 私もあらためて日本語版を読み返しました。(笑い)
 ―― 国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ会長(ベルギー)も、「宇宙の問題はどの宗教にとっても挑戦不可能な領域でした。宇宙につきあたると宗教は限界にきてしまう。それをSGI会長が真摯に挑戦されておられる姿勢は誠に意義深く、時代の先端を切り開くものであると確信いたします」と語っております。
 私は、たいへんに印象に残った言葉です。
 池田 いや、浅学なうえ、多忙で体系的な論議もできず、もう少し時間があったならと思っているんです。
 それにしても仏法には、「やがて世間の法が仏法の全体」という御文があるんです。
 ここでいう「世間の法」とは、万般にわたる事物、事象の道理のことと思います。
 科学の進歩が、ますます仏法を証明していることを、私はたいへんにうれしく思いますね。
 屋嘉比 歴史的にも、仏法は、科学を柔軟に受け入れ、現実の学問として評価する合理性、実証性をもっている、という学者がおりますね。
 ―― 十七世紀、西欧でガリレオが「地動説」を唱えたら大問題になった。
 ところが江戸時代でしたか、仏教的土壌の日本に伝来したときは、自然な形で受け入れられていったのは事実ですからね。
 屋嘉比 「進化論」もそうですよ。
 池田 ましてや仏法の真髄においては、もっと徹底しております。
 ですから、もう四十年近くも前になるのでしょうか。戦後まもなくのころ、私の恩師戸田第二代会長が、よく、「科学が進歩すればするほど、何倍も仏法が理解しやすくなる時代がくる」と言われていたことは記憶に新しいのです。
 屋嘉比 たしかにいまになって考えてみると時代を先取りした言葉であったと思いますね。
 ―― 戸田先生は、政治、経済、科学等、本当になんでもご存じの方でしたね。
 池田 先生は数学の天才でした。いわゆる万般の道理に通じた大学者と私は思っています。
 しかも戸田先生は、なによりも「大法」のため、人々のため、稀有の実践者であったことはご存じのとおりです。
 先生の場合、思索即実践であった。いや、実践がそのまま生命への深き思索となっていた、といえるかもしれませんね。
 この偉大な人生の師をもちえたことが、私の人生のすべてであり、最大の誇りです。
 ―― たしかに理論はどこまでいっても理論です。そこに実践という画竜点睛がなければ、価値は生じない。池田先生もまったく同じですね。
 池田 いや、とんでもない。私と戸田先生とは天地雲泥の差です。
 屋嘉比 宗教は科学を重視する。科学は宗教を必要とする。
 この、人類の二つの知的遺産を結合する壮大な試みは、未来への重大な課題です。
 その意味でも、仏法のような、現実を重視し、かつ普遍的な哲理は、時代とともにますます光を放っていくと思いますね。
2  現実社会を変革しゆく本源の「法」
 ―― 「日本経済新聞」の今年(一九八六年)の元旦号にも、「ストレスと上手につきあう」という特集が出ておりました。今年は、カナダのセリエ博士がストレス学説を世に問うてから、ちょうど五十年目になるそうですが。
 屋嘉比 セリエ博士の論文は一九三六年ですから、そうなりますか。これは、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』に掲載された、わずか七十四行の論文だったのです。
 池田 前の章で、ストレスは病気の大きな要因であると言われてましたが。
 屋嘉比 アメリカのある調査では、家庭医に相談に来る人の症状の三分の二はストレスが関係する、というデータもあるほどです。
 池田 セリエ博士が、のちのち有名になったこのストレス学説の着想をはじめたのは、弱冠十八歳のときであったと聞きましたが。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。彼は、教授や先輩たちが関心を示さなかった、《まさに病気である》という身体の共通の反応に着眼したわけです。
 池田 素晴らしいことです。何事にあっても、若い新鮮な感覚、意見を常に大切にしなくてはならない。その一つの証左ですね。ともかく若い人の成長は早い――。
 余談になりますが、先日たまたま、私が創立した創価学園出身の二人の医師が、私のことを心配してくれて、「先生、その後、お体の具合はどうですか」と訪ねてきてくれました。うれしかったですね。
 ―― どこの病院の方ですか。
 池田 一人は成見君といって、慶応のお医者さんです。もう一人は藤乗君といって、東大です。二人とも本当に立派に成長し、驚いたんですよ。
 ―― 若い人にとって、自分の人生を本当に見守ってくれる人がいることは幸せですね。いまはそういう人が少ない……。
 池田 ところで、これは聞いた話ですが、ちょうど五年前(一九八一年)の二月、ギリシャでマグニチュード六・六の大地震があり、首都アテネではパニック状態になった。その直後から心臓病の発作発生率が急激に上昇したというんですが、こういうことは本当にありえるんですか。
 屋嘉比 考えられます。地震や戦争などの「死」の恐怖の下では、さまざまなストレス症状がおこるという報告が、現にいろいろあるんです。
 アメリカの『タイム』誌に載っていた例では、南北戦争当時、兵士のなかに、原因不明の動悸が頻繁におきたことが伝えられています。
 これは、あまりに多いので、“兵士の心臓”とよばれていたようです。
 また、別の研究書によれば、第二次大戦のとき、ドイツ軍の激しい空襲がはじまると、ロンドンの十六の病院で、消化性潰瘍が著しく増加したそうです。
 池田 たいへんな精神的重圧だったのでしょう。仏法では、その生命観のうえから、より深く、「軍起れば其の国修羅道と変ず」ととらえた御文があるほどです。
 ―― 戦時下でなくても、現代のようなストレス社会では、夜空を見ていると、ストレスのない宇宙空間に飛んでいきたい気持ちになるときもあります。(笑い)
 屋嘉比 いや、残念ながら、心身医学で有名であった、東大の故・石川中博士も言っているように、“孤独な宇宙飛行も、これまたストレス”なんですね。(笑い)
 池田 仏法ではこの私どもの世界を、「娑婆とは堪忍世界と云うなり」と説かれた御文もあります。
 「堪忍」とは、あらゆる苦難を堪え忍ばねばならない世界ということでしょう。
 その意味からもストレスということが、私は理解できる気がするんです。
 しかし「娑婆即寂光」というがごとく、この厳しき現実社会をば、変革しゆく本源の「法」を明かしたところに、仏法の仏法たる所以があると私は思っております。
 屋嘉比 「娑婆即寂光」とは、深義はわかりませんが、文相からでも、発想の大転換がせまられる気がしますね。
 池田 生きていれば必ずストレスはある。しかし、反対に、ストレスのない環境では、生命は十全には生きられないとも、読んだことがありますが。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。セリエ博士も、“すべてのストレスからの解放は死である”というとらえ方をしていたと思います。
 ですから博士は“ストレスを人生のスパイスに”と言っておりましたね(笑い)。広義のストレスは、適当な刺激という意味で重要です。
 池田 よくわかります。しかし、人間の宿命、運命といった次元は、また別問題でしょうね。
 ところで、ストレスを解明していくと、人間の脳の働きと密接に関係してくるといわれますが。
 屋嘉比 そうです。たとえば、ストレスがおこると、脳の内臓中枢の働きに“歪み”が生じ、自律神経の働きやホルモン分泌に変調をきたします。その結果、胃酸過多や高血圧などが生じるわけです。
 池田 すると、おおまかに言うと、人間の脳の働きはどうなっているんですか。
 屋嘉比 脳を系統的に大きく分けると、脳幹部と、左右の大脳半球に分かれます。
 大脳半球の表面はほとんど「新しい皮質」で覆われ、「古皮質」はその内部に押しこめられ、「旧皮質」はさらに「古皮質」の底へと閉じこめられています。
 それぞれの働きを一応、分類すると次のようになります。
 脳幹――呼吸、心拍、血圧、ホルモンの分泌等の、無意識に行われている生きるために必要な働き。(植物的生)
 旧・古皮質――本能的な欲求、情動などの座。(動物的生)
 新しい皮質――他の領域の働きを統合し、人間的な「知」「情」「意」にわたる創造性をもたらす精神活動。(人間的生)
 池田 よくわかります。この人間の脳の構造は、生物進化の歴史が刻まれているといいますからね。
 とくに「旧・古皮質」の“古い脳”に対して、「新しい皮質」の“新しい脳”は、過去五十万年に、爆発的なスピードで発達したともいわれますが。
 屋嘉比 そのとおりです。脳進化の研究で世界的に有名なポール・マクリーン博士は、人間の脳を比喩的に表現しております。
 それによりますと、「旧皮質」を“ワニ”(爬虫類)、その上に「古皮質」の“ウマ”(哺乳類)が重なっている。そして、その二匹に象徴される本能的な心の働きを、上位に位置する「新しい皮質」の“ヒト”がたづなをもって、暴走をコントロールしている姿になっております。(笑い)
3  「九識論」と大脳生理学の成果
 池田 素晴らしい科学の発見です。この大脳生理学は、客観的に大脳の仕組みや働き方を分析して、人間の感覚、感情、意識、記憶などの心の領域までも探っていくものである。
 それに対し、仏法は、どこまでも主体的に自己の内奥へ、内奥へと探究の視線を伸ばしていった、といえるかもしれませんね。
 しかし、その発想の基盤は異なっていても、また、その客観的分析と主体的探究の成果はただちに一致しないにしても、相互に連関しあうということは、当然いえると思います。
 その意味で、仏法で説く「九識論」などは、大脳生理学の成果をも大きく包み込んでいく、壮大な体系といえるのではないでしょうか。
 ―― 「九識論」については、『「仏法と宇宙」を語る』でも種々、論じていただきましたが。
 屋嘉比 私もたいへん勉強になりました。
 池田 これまでもさまざまなところで論じてきましたので、ここでは簡単に触れさせていただきますが、「九識論」は、私たちの物事を識別する心の作用を、仏法の生命観から掘り下げたものと思います。つまり、
 五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
 ――感覚器官である五官にともなう識。
 第六識(意識)
 ――  外界の情報を総合し、記憶とも比べあわせながら判断する思慮。
 第七識(末那識)
 ――「末那」とは“思い量る”という意。
  意識の奥で絶えず活動しつづけ、強く深く自我に執着する心の作用。
  また“真理”とか“美”の探究のような、人間の高度な精神活動の範疇。
 第八識(阿頼耶識)
 ――  “一切法”を含蔵するので「蔵識」ともいう。
 前七識の根底・基盤となる深層の心。
 「染浄の二法」を含む。
 第九識(阿摩羅識)
 ――「根本浄識」ともいう。
  生命の最も奥底にあって、一切の汚れに染まることのない常住不変の究極的実在。と一応、申しあげておきます。
 ―― そうしますと、「第六識」までは私どももよくわかりますが(笑い)、「第七識」のあたりは、脳のどの部分の働きになるんですか。
 池田 いや、大脳皮質の働きについては、種々の学説があるようです。一応、仏法で説く「第七識」の働きは、たとえば、「新しい皮質」のなかでも、主に前頭葉の働きとして顕れるとも考えられます。
 また、いわゆる右脳と左脳でいえば、無意識の深層から顕在化してくるので、右脳を場としても働くと考えられないこともないわけです。
 ―― 屋嘉比さん、最近では、脳は各部分が相互作用しながら全体として働くととらえる“ホログラフィ理論”というものが、注目されているようですが。
 屋嘉比 ええ、スタンフォード大学の神経科学者、カール・プリブラム(アメリカ)の提唱した理論ですね。
 これは、脳の一個の細胞にも全体の働きが備わり、“ミクロの脳とマクロの宇宙は同調する”ととらえてもいます。ですから、“星が爆発すれば、心は震える”と詩的にたとえられてもいるんですよ。(笑い)
 池田 このへんはじつにおもしろいところですね。
 今後も脳科学の発展につれて、ますます多くの理論が提出されることを期待したいですね。
 ―― そうすると、「第八識」というのは……。もちろん、こううかがうのは、あまりにも図式的すぎるかもしれませんが……。
 池田 おっしゃるとおりです。ですから、大脳生理学の成果と仏法の洞察は、それぞれの次元は異なってはいても、ともに「心」、つきつめれば「生命」というものが、表層から深層へ、さらに重層的かつ立体的な構造を成すことをとらえているといえる気がするんです。
 ただそれは、部分と部分とが一対一で、直接的に対応するということではないわけです。その点をご了解願いたいのです。
 それであってなお、両者が相互に連関することは、さきほど申しあげたとおりです。
 この点からすれば、「第八識」は生命全体を支えているといってもよいでしょう。
 屋嘉比 わかります。ともかく人間も、その大脳に、いわゆる本能的衝動が主体となる“ワニ”と“ウマ”がおり、“ヒト”との力関係の微妙なバランスによって、支えられている。このバランスはたいへんに崩れやすく、ここに、今日の人類の解決すべき最大の問題があると指摘する学者もいるくらいです。
 ―― しかし屋嘉比さん、いかに脳の構造がわかっても、肝心要の自分自身の「心」の苦悩や葛藤をどうするかという問題とは、別なのではないでしょうか。(笑い)
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。それが、じつはいちばん問題なんです。(笑い)
 池田 ですから私は、屋嘉比さんのおっしゃる“ワニ”“ウマ”をコントロールしていくというのでしょうか(笑い)、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)へ、とくに菩薩界へ、仏界へといかに上昇するか。さらにその菩薩界、仏界の境涯によって、いかに本能的衝動や情動を生かし、昇華しゆくかという哲理と実践とを完璧に明かしたところにも、仏法の卓越性の一端があると思っているんです。
 屋嘉比 その理論と実践の一つに「九識論」があるということですか。
 池田 そうとらえていただいてもよいと思います。
 さきほど屋嘉比さんも、“人間の脳は宇宙と同調する”とおっしゃっておられた。
 いわば「九識論」の要は、われわれ人間は本来、「宇宙即我」の巨大な領域(第九識)をみずからの心身のなかに有している。にもかかわらず、いまだ狭小というか、低い境涯というか、そうした自我意識(第七識)によって、自己を小さく限定して生きてしまうという点を鋭く指摘したところに、その一つの特質があるといえるのではないでしょうか。

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