Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 現代語のルーツ「法華経」  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
1  人間のための宗教
 ―― まず、前章のつづきである、「宗教」の意義からお願いできればと思いますが。
 屋嘉比 私もちょっと、うかがいたいことがあったのです。この「宗教」という意義について、ヨーロッパなんかでは、どうとらえられてきたのでしょうか。
 池田 英語の「宗教」(リリジョン)という言葉は、もともとはラテン語の“Religio^”が原語となっている。このラテン語は「畏怖」の念をさしていた、という学説があります。
 屋嘉比 すると、仏法上の「宗教」の意義とは異なるわけですか。
 その人間が抱く「畏怖」のなかでも、根本は「死」という問題なんでしょうね。
 池田 そう思います。
 ―― 英語の「宗教」の語源は、神と人間を「再び結びつける」ことだと、なにかで読んだ記憶がありますが。
 池田 一般的には、そういわれてきたようです。ただ、これはどうも、後代のキリスト教的解釈であるというのが、現在の通説となっているようです。
 屋嘉比 しかし、このヨーロッパの“神と人間の結合”という宗教観も、時代とともに変遷してきているようですが……。
 池田 ヨーロッパの宗教観は、どうやら近代になって、キリスト教神学から離れ、どんどん開かれ、深められていったようです。
 屋嘉比 だれか、そうしたことについて、はっきり指摘している人物はおりますか。
 池田 その有名な先駆者がカントでしょう。
 ―― カントこそ、独立した自由な人間を志向した、近代哲学の祖といわれますからね。
 屋嘉比 まえに先生が、カントは法華経の存在に注目していたと言われましたが。
 「宗教」について、たとえば、カントは、どんなことを言っておりますか。
 池田 有名な著作である『宗教論』のなかでは、彼は、「理性に対して無思慮に戦いを宣する宗教は、長くはそれに対抗し続けるわけにはいかない」というのです。
 つまり、真実の信仰というものは、理性を否定しない。また、そうでなくてはならないということでしょう。
 屋嘉比 ほかにもおりますか。
 池田 有名な言葉ですが、「信仰は理性の延長である」。これは、十九世紀のアメリカの作家ウィリアム・アダムスです。
 私は、青春時代、この言葉がたいへんに好きでした。
 ―― 私も好きです。初めは信仰と理性は別個のものと思っていたが、たしかに、このとおりですね。また、そうでなければならないと思います。
 池田 また、いわゆるマルクス、エンゲルスに最大の影響をあたえたといわれるドイツの哲学者、フォイエルバッハも有名ですね。
 彼の宗教観は、唯物史観を台頭させる引き金にもなっている。
 屋嘉比 たとえばどんな考え方がありますか。私は、そちらのほうはあまり強くないもので。(笑い)
 池田 たとえば、「人間が宗教の始めであり、人間が宗教の中心点であり、人間が宗教の終わりである」(『宗教の本質』)と、人間のための宗教という視点を打ち出している。
 仏法を基準としてみれば、たしかに正しいと私は思います。
 屋嘉比 当時としては、革命的な発言だったのでしょうね。
 池田 時代環境からいえば、そうなるでしょう。ですから私たちは幸せです。日蓮大聖人の教義、学会の理念というものは、人間から出発し、人間に帰着していることが最大の強みです。
 ―― 彼は人間を、神への服従者と位置づける宗教観から、解放しようとしたのでしょうね。
 屋嘉比 ヨーロッパはキリスト教の独壇場でしたからね。
 ―― 宗教ほど、わかったようでわからないものはない。宗教ほど、人を救うと同時に、人々を現実から遊離させ、盲目的にさせるものはない。であるけれども、宗教は存在する。
 池田 歴史的にみても、人間を軸にすえることによって、より柔軟な、より本質を突いたものの見方、価値観が展開されていったのは事実でしょう。
2  仏教は「唯心」「唯物」を超克
 屋嘉比 そこで、まえからうかがいたいと思っていたのですが、仏法は「唯物論」と「唯心論」をどうみますか。
 池田 大乗仏法の極理は、「唯心論」でもない。また、いわゆる「唯物論」でもありません。
 結論から言えば、そのどちらにも偏せず、両面を止揚し、「中道法性」という、生命の真実にして、不変の実相を明かしているということです。ただ、そうした次元にいたる過程では、当然、さまざまな価値観の展開をふまえているわけですが。
 詳しく論ずるには、時間がかかってしまいますので、これも結論から申しあげますと、小乗教においては、「物」と「心」の現象論が説かれております。
 また大乗教にも、「心法」を中心に立てる経典もあります。
 屋嘉比 重層的な法門の展開がなされているわけですね。
 池田 しかし、大乗仏教の真髄たる法華経に入ってからは、「色心不二」という生命の実相を明かしているわけです。
 ―― すると、「唯物論」は小乗教の部分観となりますか。
 池田 多くの場合、宗教は「唯心」中心であり、科学は「唯物」から出発していると思われてきた。
 しかし生命は、「唯物」でもなければ「唯心」でもない。「色心不二」が生命の実相である。
 要するに、偏った思想、哲学であっては、「生命」の全体観はとらえきれない。
 また、正しき人間観、社会観も確立できない。必ず行き詰まりがあるものです。
 それに対し、「中道一実」の妙法とは、生命を「一念三千」として完璧にとらえた「法」である。ゆえに、善の価値、幸の価値を無限につくりゆくことができると、私は思います。
 ―― トインビー博士も、“人類は自己を見つめ制御する知恵を獲得しなければならない。そのためには「中道」を歩む以外にない”と、名誉会長との対談で論じておりましたね。私はたいへんに印象的でした。
 そこで、こうした宗教観の変遷とともに、西欧の「生命観」も、大きく変化していったわけですが。
 池田 そうです。こうした、人間へ、生命へという、新しき時代の勢いを大きくとらえていった一人に、十八世紀のドイツの大文豪ゲーテがいるでしょう。
 屋嘉比 たとえば、彼はどんなことを……。
 池田 ゲーテは、「なぜ、人間こそ宇宙の究極目的だと考えてはいけないのか」(『形態学』)という鋭い問題提起をしている。
 屋嘉比 「神の意志」という大義名分から、ようやく解放された自由な人間の叫びが、私にも感じられますね。
 池田 そのとおりです。いわゆる近代西欧における生命観の淵源は、十七世紀のデカルトから始まったという説があります。さらにその後、唯物的な立場を徹底したラ・メトリー、ラボアジエなどがこれを受け継いでいます。
 これは人間を“動く機械”と同じような存在とみなす考え方です。
 ―― そうですね。しかし、これにはどうしても矛盾がある……。これらと対峙したのが、十九世紀末の生物学者、ハンス・ドリューシュの「新生気論」です。
 彼は、人間には“機械論”では説明しえない生命力があると考えたわけです。
 このへんは、池田先生の『生命を語る』に詳しく述べられていますので、省略させていただきますが、これらが出発点であったことは事実と思います。
 池田 まあ、むずかしくなるから、この論議はこのへんにさせていただきますが、やはり、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて新たな生命観の展開がなされております。
 屋嘉比 この時期、微生物研究草分けのパスツール、“生の飛翔”のベルクソン、深層心理学のフロイト、ユングが登場しています。
 池田 おもしろいことに、これは仏教がヨーロッパに影響を与えた時期と相前後しておりますね。このへんは、今後の興味深い研究課題のひとつと私は思っております。
3  現代科学も「生命」に接近
 ―― 現代科学の最高峰といわれるアインシュタインも、仏教に深い関心を示していましたね。
 池田 そう思います。彼の仏教観は有名です。彼は、「宇宙そのものの理性的構造に対する、なんという深い信仰」(『宇宙的宗教』)という次元を志向していたわけでしょう。
 ―― ただ、彼らと仏法の出合いは、まだ入口みたいなものだった。大乗教もあったが、いわゆる小乗教を中心とした“ロンドン仏教”の限界もあるのではないでしょうか。
 そうした事実に気づいていた人はおりますか。
 池田 大乗仏教に着眼したトインビー博士はその一人でしょう。
 屋嘉比 ほかにはだれか有名な……。
 池田 イギリスの世界的文明批評家、H・G・ウェルズもそういっていいと、私は思います。
 彼は、二十世紀に原子爆弾が出現することを予言したことでもよく知られている。
 ―― 日本でも全集が出ています。「E.T.」の映画を作ったアメリカの監督が、最近、彼の名著『タイム・マシン』を、再び映画化したようです。
 池田 じつは、このウェルズにも、「仏教論」があるんです。
 ―― それは知りませんでした。
 池田 私も最近知りました。さっそく英文を訳してもらいました。
 屋嘉比 学生のころ、ウェルズの『生命の科学』という論文を読んだことがありますが、仏教については彼は、どんな……。
 池田 たとえば、「世界が始まって以来、仏教が最も深遠な倫理であることはだれも異存がない。釈尊の滅後、その教えは、精密巧緻な思弁哲学になり、煩瑣哲学という安価な地上の電灯のために、肝心な釈尊の教えという星の光は、おおい消されてしまった」というような内容も、論じていたと思います。
 ―― 釈迦仏法を「星の光」にたとえるなんて、なかなか的を射ている。(笑い)
 池田 ともかく仏法は、「大乗」と「小乗」、「実教」と「権教」、「本門」と「迹門」、そして「下種」と「脱益」、「文底」と「文上」という相対の規範のうえから、厳密にみていくことが肝要であることだけは、申しあげておきたいですね。
 ―― わかります。
 屋嘉比 すると、法華経以外の経典は、完全に否定されるわけでしょうか。
 池田 いや、そうではありません。その点についても、明快に御文にあります。
 「所詮しょせん成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」と説かれているとおりです。
 「大綱」とは、根本、基本となるもの。「一切経の根本」という意義です。
 「網目」とは、いわゆる細事網目ということでしょう。妙楽大師はこれを、「円教(法華経)の行理骨目自ら成ず、皮膚毛綵衆典に出在せり」(『法華文句記』)と論じています。
 つまり、「生命」の全体観、「成仏」の法門は法華経である。文底から拝すれば、「事の一念三千」の法門である。
 こんどは、その文底の法華経からみれば、すべての衆典は、その法門の証明としての「序分」「流通分」となり、分々の理が明かされている、というわけです。
 屋嘉比 仏法は広い……。ある物理学者が言っていた。それは、“現代科学の進歩以前に、宗教の直観は「生命」の本質に関して、重要な点を洞察していた”と……。
 この学者は、とくに仏教について詳しく考察しておりました。
 池田 謙虚な言葉です。しかし、実感でしょうね。

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