Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 「生命」と「環境」を考える  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  環境世界と人体の関係
 池田 それにしても暑い日がつづきますね。東大病院は、夏休みがあるんですか。(笑い)
 屋嘉比 ええ、交代で休みます。ただ例年、この時期は研究会がいくつかあります。そのための実験もあり、休暇はなかなかとれません。(笑い)
 池田 診療は毎日されるんですか。
 屋嘉比 一週間のうち、だいたい三日は、外来や入院している患者さんを診ます。
 池田 その他の日は、何をするんですか。
 屋嘉比 レントゲンや、内視鏡検査(胃カメラなど)を担当し、臨床検討会をやっています。
 池田 夜中でも、病院に呼ばれることはありますか。
 屋嘉比 担当している患者さんに急変があった場合、自分の車で駆けつけます。
 池田 たいへんですね。すると、その合間に、研究の時間を見つけるわけですか。
 屋嘉比 そうです。私はおもに、胃酸が分泌されるメカニズムの解明に取り組んでいます。
 池田 どういう実験をするんですか。
 屋嘉比 試験管の中で、胃の細胞を培養し、いろいろな実験を繰りかえします。
 池田 根気がいるんでしょうね。
 屋嘉比 ええ。失敗の連続ですから(笑い)、ヘタをすると、自分の胃がやられます。(笑い)
 池田 まえにも、人間の心と身体は密接不可分である、というお話をされておりましたね。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。
 池田 それと環境の問題も、たいへんに関連性があるようですが。
 屋嘉比 当然あると思います。ですから、天候や季節、また社会環境などが人体におよぼす影響もいろいろと研究されています。
 池田 そうでしょうね。そこでまず、この章では、環境世界と人体の関係を、医学ではどうとらえているか、ということから入りたいと思うのですが。
 屋嘉比 たいへんに重要な問題です。
 ただ結論して言えることは、これも密接不可分という考え方が確立しつつあることです。
 ―― 「気象医学」という分野もあると聞いたことがありますが、その点どうでしょうか。
 屋嘉比 ええ、すでに九州大学の研究所には、「気候内科」ができています。
 池田 よく新聞の天気予報のコラムにもありますね。
 「曇天の日が多いと、紫外線の刺激が少なくなり、気分がめいる」とか(笑い)、「低気圧が近づいてくると、傷痕がとくに痛む」といった記事を見かけますが。
 屋嘉比 これは医学的にも事実です。
 池田 外国ではどうですか。
 屋嘉比 とくに西ドイツでは、その日の気象と病気の関係を、毎日、天気予報のようにラジオで放送している地域もあります。
 池田 具体的には、どんな……。
 屋嘉比 「不安定な気圧の谷が近づいており、心臓、循環器系の障害がいちじるしく増加するから気をつけるように」とか、「気圧配置は北東風型で、冷却力のある乾燥した冷たい空気となるので、ぜんそくや偏頭痛の人は気をつけるように」といった内容です。
 これを「医学気象予報」といいます。
 池田 すると、転地療法の意義もわかりますね。これは、かなり具体的に進んでいく分野ではないでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 人間が生きぬいていくうえで、どれほど外界と微妙な関係になっていることが重要か。私なども、気象の変化が敏感に影響するのを、いつも体験してきた身ですから。
 季節的変化はどうですか。
 屋嘉比 たとえば、ぜんそくは秋が最も悪い。リューマチは、夏が少なく、冬が最も悪いようです。あるデータによれば、リューマチ患者の七四パーセントは季節の影響がある、といっておりますね。
 池田 では、季節の変化は、人間の心にも影響を与えるかどうか。
 屋嘉比 あると思います。ひとつの例として、十九世紀のフランスのエスキュロールという精神科医のデータがあります。それによると、入院患者の数は春に上昇し、初夏に最高になる。そして、その後は減少するとなっています。
 この点に関しては、他のヨーロッパ各国や、日本でも同様の報告がなされております。
 池田 これは多少極端な例でしょうが、一般的にも、なんらかの影響性があるということは否定できないと思います。
 屋嘉比 常人でも、気温が下がると、体内のアドレナリンの分泌が増加し、機嫌が悪くなる人がいます。(笑い)
 池田 アドレナリンというのはよく聞きますが、自律神経を興奮させるホルモンと考えていいのですか。
 屋嘉比 専門的には言い方がありますが、けっこうだと思います。
 池田 そこで、森林浴は健康によいだけでなく、頭の働きをよくするというのは本当ですか。(笑い)
 屋嘉比 そういわれています。樹木は「フィトンチッド」という微小の物質を空中に発散します。
 これを人間が吸うと、神経の活動が活発化し、脳の反射が速くなる、といわれております。
 池田 仏法では、いわゆる草木等を「非情」と説きますが、この「非情」と「有情」である人間との連関性も、医学の重要なテーマのひとつではないでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 これは屋嘉比さんの専門の分野と思いますが、日本人は一般的に胃ガンが多い。大腸ガンは少ないといわれている。ところが、アメリカに移住した日系人は、二世、三世、四世となるにつれ大腸ガンが多くなり、胃ガンは減少すると聞いていますが。
 屋嘉比 そのようです。先日、レーガン大統領が手術して話題になりましたが、アメリカ人は日本人と反対で、大腸ガンが多いそうです。
 これはおもに食事内容が原因と思いますが、環境による違いは、たしかにあると思います。
 ―― よく旅行すると、便秘になりやすいといいますが。(笑い)
 屋嘉比 いや、それは慣れないところに行くと、交感神経が緊張し、胃腸の運動を抑えるからです。帰宅すれば大半は自然に治ります。(笑い)
 池田 これらはほんの一例でしょうが、人間の「生命」と「環境」との関連性のバランスは、まったく微妙ですね。
 屋嘉比 同感です。アメリカのクッシングという有名な医学者は、「医師は、人間を、その人の世界のなかでとらえて認識しなければならない」と言っております。
 ですから私は、仏法で説く「依正不二」の法理をぜひ一度、池田先生におうかがいしたいと思っておりました。
 池田 いや、これはわかったような、わからないような、あまりにも深くして、広がりのある論議になるので、困っているんです。(笑い)
 ―― しかし、この対談の流れでもありますし、あるていどの次元まででけっこうですので、お願いします。
 池田 よくわかっています(笑い)。たいへんに深遠な仏法哲理の範疇となりますもので、ほんの常識的なところから論じさせていただきます。
2  仏法が説く「依報」と「正報」
 屋嘉比 まず「依正」とはどういうことですか。
 池田 「依」とは「依報」、「正」とは「正報」ということです。
 この「正報」とは、人間のような、生命活動を営む“主体”。
 「依報」とは、それがよりどころとする環境としての“客体”といえると思います。
 これが「不二」つまり、「二にして不二」という一体性の関連にある、ということです。
 ともかく仏法では、「不二」論ということが特徴なんです。
 これは他の西洋哲学とか、近代の思想には少ない。どちらかといえば、精神と肉体、人間と自然といった“主体”と“客体”を分離する構造であった。
 そこにやはり、現代の行き詰まりの根本的な問題がある、と私はいつもみております。
 屋嘉比 仏法の「不二」という概念は現実を厳しく凝視し、なおかつ広がりのある考え方というのがよくわかります。
 池田 たとえば「依正」が「不二」であるとか、「色心」が「不二」であるとか、さらに「仏と衆生」が「二にして不二、不二にして二」という、生命の本源的関連性をとらえたのが仏法なんです。
 ですから、いちおうは別々であるが、その究極の次元において両者は一体である、という意義になると思います。
 屋嘉比 肉体と心も、たしかに別々であるけれども、絶対的ともいえる連関性は否定できませんからね。
 ―― 「依報」「正報」の「報」とはどういうことでしょうか。
 池田 一般的には「報」という字は、「罪人を裁く」という字義がある。
 「報」の字の象形は“ひざまずいた人が、後ろで手かせをはめられた姿”です。
 ですから絶対的服従性とか、逃れることができないもようを象徴していると思います。
 ここから「むくいる」という意義も出てきたのでしょう。
 屋嘉比 すると、仏法では……。
 池田 仏法のうえでは、生命の瞬間の全体像を、法華経の方便品で「十如是」(如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等)と説いている。そのなかの、「如是報」の「報」が、「依報」「正報」の「報」となるわけです。
 屋嘉比 より深い、広義からの生命のとらえ方となるわけですね。
 池田 要するに、生命全体の働きに即し、姿・形にことごとくあらわれる結果を「報」というわけです。
 屋嘉比 なにか御書には、「依正不二」論について説かれておりますか。
 池田 あります。そのひとつとして、「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつく」とあります。
 屋嘉比 すると、この御文は、「主体と客体」、「人間と環境」の関係は、あくまで影が身に添うがごとく、人間があっての環境世界となりますか。
 池田 結論すればそうなります。
 また、それであって「正報をば依報をもつて此れをつくる」である。
 これは、われわれの身体の例をとってみても、よくわかることです。
 この自分自身を、ひとつの「正報」ととらえた場合には、それに相対する事象はことごとく別々のようであるが、関連性、一体性という面からみると、「而二不二」ということになります。好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに、相互の影響性は必ずあるものです。
 屋嘉比 いや、たしかにそうですね。
 「不二」というのは、一言にして、鋭く真理を突いた表現と思います。
 池田 一個のわが生命体だけをとらえた場合、「正報」は「一念」である。
 肉体である個々の細胞や分子の働きは「依報」となり、これも「不二」の関係になります。
 屋嘉比 たしかに個々の細胞や分子の働きをいくら組み合わせても、一個の人間としての働きはできませんからね。
 池田 ですから、主体である生命それ自体がもつ発動力というか、発現力というものに触発されながら、客体である細胞や分子が、調和された統合体として、生きいきと活動を持続している、ともいえるのではないでしょうか。
 屋嘉比 まったく、そのとおりです。医学的にみても、生きているとは、この相互の強い関連性の、絶えまなき繰りかえしの状態をさします。
 あくまで、人間なら人間という生命の主体が軸となって「生命環境」がある、ということが私はうなずけます。
 池田 さらに、人間の細胞を見たときも、六十兆ともいわれる細胞が集まり、組織体として、秩序ある運動を維持している。
 それであってせんじつめれば、別々の独立したものともとらえられる。
 屋嘉比 一個の細胞だけでも、産業複合体のようなものです。(笑い)
 池田 また、数えることもできないほどのわれわれの身体の分子は、その働きだけをとってみても、一つひとつが完璧に近いほどの、不思議な関連性を相互におよぼしている。
 その分子も、一つひとつ、別個のものである。
 この小さな世界にあっても、「依正不二」の姿がわかるものです。
 屋嘉比 そうなんです。
 池田 つまり、生命は「依正不二」で初めてとらえられるものである。
 ですからこんどは、自分自身の生命を「正報」とした場合に、「依報」であるすべての外的環境との関連においても、やはり「不二」的に広がっていくわけです。
 ひとつの例として……。
 青空であれば、さわやかになる。
 美しいものを見れば、心はなごむ。
 ウグイスが鳴けば、春の訪れを知る。
 小川のせせらぎを聞くと、平和を感じる。
 一家がなごやかであれば、幸せである。
 これは万人に共通の理でしょう。
 ―― 反対の場合も多い……。
 池田 そのとおりです。
 灰色の空であれば、心は重い。
 家庭が不和であれば、心は暗く閉ざされる。
 嵐や火事などになれば、修羅である。
 戦争であれば、地獄の「正報」となる。
 ですから、よい意味での「依報」である環境は万般にわたり大事となる。
 実りある環境であれば、生命は美しく輝くんです。
 屋嘉比 まったく同感です。
 池田 刹那、刹那、生命というものは「依正不二」として変化していく。この関連性は、一生涯つづいていくものである。多少、飛躍した論議かもしれませんが。
 屋嘉比 いや、わかります。健康という問題も、常に環境からの挑戦に適応できるかどうかである、ともいえますからね。
 池田 教育においても、青少年の非行化を防ぐために、「依報」はたいへんに重要な力である。ですから、哲学的にもこの環境論をどうとらえるか、ということが重視されなければならないでしょう。
 屋嘉比 これは大切な問題です。
 池田 要するに私どもの生命は、社会との関連もある。自然との関連もある。また当然、対人間との関連もある。避けようのない現実の職場にも、また生活にも、さらにすべての環境にも関連性があるわけです。
 それを現実的に把握し、いかによき方向にもっていくかが、信仰の本義なのです。
3  宇宙の運行も「わが身」に関連
 屋嘉比 たしかに現代の学問も、環境医学とか、科学の総合化とか、個々のものを、もういちど全体から巨視的にとらえることが志向されています。
 ―― そうですね。もはや、これは時代の趨勢です。
 屋嘉比 すると「依正不二」というのは、分子や細胞などのミクロの世界とともに、マクロの世界にも無限大に広がっていくことになりますか。
 池田 そのとおりです。宇宙大の連関性と無限大の広がりをもった法理です。
 そのひとつの証左として、あえて申しあげれば、有名な医学者のなかにも“地球の公転や月齢といった宇宙の運行が、人間の脳のある働きと関連する”と言う人がおりますね。
 屋嘉比 ええ。先月、東京医科歯科大の角田教授の実験が発表されています。
 教授は、「宇宙環境に同期する小宇宙である脳の変動」といった表現も使われています。
 池田 また科学的にも、私どもの身体は、はるか二百億年昔の、宇宙空間の簡単な構造の元素の渦に源があった。
 この事実ひとつをみても、宇宙全体の作用がさまざまな事象においてわが身に関連する、ととらえられてきているのはご存じのとおりです。それを反対に考えてください。(笑い)
 その「正報」から「依報」へ、つまり主体である人間の一念をいかに環境世界へと無限大に開き、「幸」と「充実」、「安全」と「平和」への広がりにもっていくか、ということが仏法の法理なのです。これは何度も申しあげる「一念三千」論に入ってくるわけです。
 「依正不二」の原理からみても、環境というものは、人間に重大な影響があることは論をまたない。しかし、その環境を人間が変革してきたことも事実である。
 ひとつの例として、北海道も何百年か前は、たいへんな荒野であったにちがいない。
 しかしいまでは、「正報」である人間が開拓して住みよい土地になった。
 これも「依正不二」で価値をつくったひとつの例である。このような歴史は、古今東西を問わず枚挙にいとまがないでしょう。
 ―― そうですね。
 池田 また個人にあっても、親が早死にしたり、貧しかったり、恵まれない環境に育った人のなかにも、社会に貢献し、立派な人間になった例はいくつもある。
 それらは、「正報」の強靭なリズムを自分自身で築きあげて、ひとつの環境をつくりあげた例といえるでしょう。
 反対に、裕福な家に生まれ、よい両親にも、環境にも恵まれ、なにひとつ不自由のない人であっても、その人生が最後はみじめな敗北となっていく場合も多々ある。
 これは本来、自身の向上のための環境であるべきものが、反対に環境に流され、敗北者となっていった例である。
 屋嘉比 なるほど……。
 池田 つまり“正報は体、依報は影”である。
 要するに、生命の主体は、いわゆる「正報」の健全なる「リズム」と「力」といってよい。
 さらに今度は、よき「依報」が、よき影響を「正報」にあたえる場合も、当然、多々ある。
 また反対に、悪しき「依報」が、「正報」の向上の因となるときもある。
 常に「依報」というものは、二面性を具しているわけです。
 ですから、相関連しながらも、その「依正」をよりよくする力は、つまるところ「正報」の一念に帰着すると、私は考えます。
 屋嘉比 これは人生万般に通ずることと思います。
 池田 しかし、いわゆる人間の力には限りがある。生命の力にも限りがある。
 そこに「正報」と「依報」を貫きゆく「南無妙法蓮華経」という宇宙そのもののリズムというか、力用を発現し、「依正」相調和させていくことが、いかに大切かということもよくわかるわけです。
 ですから、自分の身体を丈夫にしていくことも、わが生命のなかの「依正不二」のひとつの所作、力用であるにちがいない、と私は考えます。
 その「依正」ともに根本的に調和させながら、幸の価値、美の価値をつくりゆくことが、私どものひとつの信仰の目的と思っております。
 さらに、死後の生命にも、「依正不二」があるが、これは略させていただきます。
 屋嘉比 仏法では、ほかにも「不二」論はございますか。
 池田 あります。「依正不二」というのも、妙楽の説いた「十不二門」のうちの一つなのです。
 これはもう三十年ぐらい前になりましょうか。第六十五世日淳上人に、戸田第二代会長がお願いして、教えていただきました。
 ―― 要するに「十不二門」とは、どんな内容なんですか。むずかしいのですか。
 池田 いや、やさしくはないよ。(大笑い)
 理論的すぎるので、いまの人たちには、あまり勉強させてないんです。
 私どもは、あくまでも御書を根本としています。そのなかに全部含まれているからです。
 そこで、この「十不二門」を少し申しあげれば、「色心不二」「内外不二」「修性不二」「因果不二」「染浄不二」「依正不二」「自他不二」「三業不二」「権実不二」「受潤不二」があります。
 屋嘉比 壮観ですが、仏法はたしかに論理性をおびている。他の宗教はかないませんね。
 池田 いちおうの意味を申しあげれば、この「十不二門」とは、天台の明かした法華経の「十妙」を、さらに展開したものです。
 十種の相対する「法」が、「不二」の関係にあることを示し、「妙法」の絶対性を説いたものなんです。
 「色心」とは、色法と心法
 「内外」とは、一念の内境と外境
 「修性」とは、修行と諸法の本性
 「因果」とは、修行における因位と果位
 「染浄」とは、無明と法性 
 「依正」とは、依報と正報 
 「自他」とは、能化の仏と所化の衆生
 「三業」とは、身口意の三業
 となります。
 これらがすべて「不二」という関係になる、というのです。
 ―― すると「権実」とは……。
 池田 権教と実教です。権教も実教も、仏の一念においては冥合しているのです。それが、衆生の機根に応じて、それぞれ説かれるわけです。
 つまり、どちらも「妙法蓮華経」という一法より生じたということになります。
 妙楽の説の全体をみればわかるように、権教も実教も同じであることではありません。権教の「権」とは「かり」という意味です。専門的になりますが、権教も実教からみれば、それを説明し、通ずるものがあるという義なんです。
 この本義を知らずに、間違って解釈している宗派もある。ここらへんがむずかしいのです。
 ―― それは当然ですね。
 池田 最後の「受潤不二」とは、一言で言えば、仏の説法を受ける衆生も、衆生に利益を潤しゆく仏も、「妙法蓮華経」の当体にして差別がないという意義といえます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 さらに日蓮大聖人の重要な法門書である「百六箇抄」のなかでは、「日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり」とあります。
 屋嘉比 文相だけでも、この大聖人の「不二門」というのが、さらに深く、どれほどか極致の法門であるか、わかるような気がします。
 池田 この御文は、「久遠元初・自受用報身如来」即「末法の御本仏」たる日蓮大聖人御自身の、宇宙開悟の現実の原点より展開された、絶対の法理をさしておられる。これ以外に森羅三千の「不二」の真実相はありえない、という極理が秘められているわけです。
 屋嘉比 まことに深秘な意義をもっていることはわかります。
 すると「色心不二」と「依正不二」というのは、どういう関連になるのでしょうか。
 池田 これは、とらえる次元の問題なのです。
 「正報」にも、「依報」にも、「色心」が含まれます。「色心不二」もこれまた、生命の真実相だからです。

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