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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 「半健康人」時代に考える  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  世界の縮図・ハワイで平和の祭典
 ―― ハワイでの第五回世界青年平和文化祭(一九八五年)、まことにおめでとうございました。
 連日の多忙なスケジュールのもようは、機関紙で拝見しておりました。
 屋嘉比 たいへんに盛大だったようですね。
 私も、行かせていただきたいと思ったのですが、遠慮しまして。(笑い)
 ―― 今回は、日系官約移民百年の記念行事ということで、アリヨシ州知事からの招待もあったようですが。
 池田 そのとおりです。
 知事夫人が実行委員長をしている、「アロハの木百万本」の記念植樹式にも出席してまいりました。
 ―― 七月四日の文化祭当日は、アメリカの独立記念日で、カラカウア通りでは一万数千人のパレードが行われ、たいへんに素晴らしかったようですね。
 屋嘉比 私も、テレビのニュースで見ました。
 アメリカ人はパレードが好きですね(笑い)。国民性の違いというのは、たしかにありますね。
 池田 歴史書によると、ハワイの中心である「オアフ」という島名には“人々が集まるところ”という意義があったそうです。
 だからかどうか知りませんが、ハワイにさまざまな民族が融合し、共存共栄している事実は、世界国家の縮図といってよいでしょう。
 ―― そのとおりですね。
 ともかく地元の新聞を見ても、相当数の市民が沿道をうずめ観覧していた。
 テレビも初めから終わりまで、パレードのもようを約二時間にわたり実況中継したようですね。
 池田 いや、私は見ていません。(笑い)
 ハワイの地は、日本との関係にあって、真珠湾の奇襲などで本当に不幸なこともあったが、私は好きです。
 ともあれこの移民百年祭は、過去の歴史の総括とともに、新しい百年に向かっての、ハワイの平和と繁栄への新たなる出発の意義がある、と私は思っております。
 ―― パレードや文化祭は、世界四十五カ国の代表が参加しての行事だったようですが。
 池田 そのとおりです。
 多くの著名人の出席もあり、ともかくなごやかで、うれしかった。
 ―― アリヨシ州知事夫妻のほかにも、ロスのブラッドレー市長夫妻など、また、ハワイ各界の多数の名士が参加していましたね。
 屋嘉比 東関親方(元高見山)もいたようですが。
 池田 ええ、参加してくれました。ハワイへ向かう飛行機の中でも、一緒になったのです。
 たいへんに純な、いい方ですね。
 ―― パンチボールの国立記念墓地では、第二次大戦でヨーロッパに遠征し、勇敢に戦った日系二世の“パイナップル部隊”(四四二部隊)をはじめ、戦没者への献花もされたようですが。
 池田 いたしました。彼らは、二つの祖国のはざまで、犠牲になって戦死していった。
 ハワイの日系人が、アメリカ社会において信頼を勝ち取っていくのに、彼らの存在は大きかったといわれる。
 ―― ブラッドレー市長らも参列しておりましたね。
 平和への厳粛な祈りに、私は深く感銘しました。
 池田 かつてのパイナップル部隊の方々も九名参列し、固い握手をしました。お一人は義手でした。
 ともかく、戦争は絶対にあってはならない。
 戦争は、国家の勝者と敗者はあっても、人々には、ただ悲惨と不幸しか残らないからです。
2  病魔との闘いだった青春時代
 屋嘉比 いつかおうかがいしたいと思っていたのですが、先生は、終戦の年はおいくつでしたか。
 池田 昭和三年生まれですから、十七歳です。
 屋嘉比 たいへんにお身体が弱かった、ということを読んだこともありますが。
 池田 そのとおりです。小さいころから病気がちで、健康な人がうらやましかった。
 屋嘉比 そのときは、どこにおられたのですか。
 池田 昔の蒲田区(現在の大田区)糀谷におりました。
 屋嘉比 お兄さんが出征されたようですが。
 池田 三人の兄が出征し、養子にいった兄も出征しました。
 屋嘉比 すると当時のお勤めは……。
 池田 若いものがブラブラしていると“非国民”と言われるので、兄が勤めていた、家の近くの新潟鉄工所に行きました。
 しかし身体が弱いので、なかなか満足な出勤もできず、ずいぶん悩んだものです。
 戦時中で、会社では、たまたま予防注射があった。ところが、注射を打つと、必ずといっていいほど四十度ぐらいの熱が出て、たいへん困ったものです。
 屋嘉比 どのような病気でしたか。
 池田 肺病です。肋膜炎なんかも、八回ぐらい繰りかえしました。健康でなくてはならない時代に、病気というのは本当につらい。風呂に入ると、あばら骨が見えて悲しかった。
 これでは現場はとてもムリだということで、事務のほうにまわされてしまった。現場がいちばん男らしい戦場であった時代でしたからね。
 屋嘉比 何を作っていたのですか。
 池田 当時はディーゼル・エンジンをつくっていて、現場は二交代、三交代のフル回転でした。ともかく活気があった。みんな“お国のため”死にもの狂いでした。
 屋嘉比 なにか思い出はございますか。
 池田 いつも自分の健康と病気との闘いだった。当時はいい薬もないし、栄養もとれない。そこで、いつも『健康相談』という本を読んだものです。そのとき、病気の知識もあるていど知ったのです。
 父親にも母親にも、ずいぶん心配をかけました。
 屋嘉比 医師はどういう判断でしたか。
 池田 肺結核です。
 数年間へていたもので、肺浸潤とか肋膜炎とか、いろんな症状の変遷もありました。
 屋嘉比 当時では、施設も不十分でしょうし、診断も、今日ほど精密にできなかったかもしれませんね。
 池田 いや、たいへんに親切なお医者さんで、よい人でした。
 屋嘉比 工場にも診療所はあったのですか。
 池田 ありました。
 屋嘉比 そこではどうでしたか。
 池田 やはり肺結核でした。
 寝汗はひどいし、血痰も出る。体力もない。そこで結論として、茨城県の鹿島のほうになにか養生先があったようで、そこに二、三年静養するように言われました。
 屋嘉比 そんなにひどかったのですか。
 池田 ところが、四月十五日未明の蒲田の大空襲で会社も爆破され、ほとんど再開不能の状態になったわけです。そのため、鹿島でゆっくり静養という状況も一変してしまった。
 屋嘉比 寝汗は、気持ち悪いらしいですね。
 池田 体験したものでなければわからないでしょう。寝汗は本当にいやなものです。
 しかし、寝汗で目ざめたとき、汗はまことにキラキラ光って、きれいなもんです。
 屋嘉比さんは、寝汗の経験はありますか。
 屋嘉比 ありません。
 池田 お医者さんだから、身体の管理はうまいわけですね。(笑い)
 そんなわけで、私の青春時代のはじまりは、病気との闘いだった。その近所の医者が私の母親に、あの身体では二十五、六歳までもつかどうかと、もらしていたようです。
 なにかのキッカケで、そんな話をちょっと耳にはさみ、いや、悲しかったですね。
 そんなこともあって私は、身体の弱い人、病人には敏感な反応をするようになった。
 本当に、その人の気持ちがわかる自分となることができた。
 屋嘉比 その後は、身体のぐあいはズッといいのですか。
 池田 いや、それからも十年、二十年と、自分と病気との闘いがつづきました。
 そんなわけで、戸田第二代会長にも、“三十で人生終わりかな”と、たいへんに心配をかけたこともありました。
 屋嘉比 大いなる精神力、また信仰力が、大きく身体を変革したひとつの証拠といえますね。
 たしかに人間は、医学的、科学的次元だけでは解決できない不可思議な存在と思います。しかし、私は医学者ですから、すべてを医学的にみますけれども。(笑い)
 ―― 現代社会は、完全なる健康体の人よりも「半健康人」の時代といわれていますね。
 屋嘉比 そう思います。ドイツのある学者も、「健康は現代の主問題である。しかしながら以前よりも患者数は多い。われわれは患者の時代に生を受けている」と言っております。
 たしかに、いろいろな病気をもっている人が、増えているのは事実です。
 池田 ですから仏法は、この厳しき人生の実相をとらえ、「三界之相とは生老病死なり」と説いている。
 これはつまり、「三界之相」とは人生の実相の表現である。この「三界之相」を如実に知見していくならば、「生」と「老」と「病」と「死」というものは、避けられない生命の理である。ゆえに、その現実を度外視しての幸福もありえない。この根本的次元から、真実の幸福を確立しゆく法が仏法と、私は思っております。
 屋嘉比 健康な人は、健康のありがたさはわからない。しかし、一度病気になれば、健康ほど大事なものはないと考える。私も、多くの患者さんを診て、いつもそう実感しています。
 池田 私も医者だったら、もっと仏法と生命の奥深い連関性がつかめるような気がしますが。(笑い)
 ともかく、たしかに健康な人でも、あるていどの年齢に達すれば多少の疲れも出る。
 ときには、身体の調子がおかしくなるのもやむをえない。
 やはり「病」も、人生の本然的な問題でしょう。
 屋嘉比 病気というのは、長い人生にあっては、ひとつのリズムということもいえますからね。
 ―― 屋嘉比さん、一見、健康な人でも、一生のうちに何回か、ガン細胞が発生している可能性があると聞きましたが、本当ですか。
 屋嘉比 そのとおりです。たとえば、胃ガンや前立腺ガン、皮膚ガンなどは、健常者にも、かなりの率で潜伏していることがあるようです。
 ただ多くの場合、免疫の力などによって、増殖が抑えられていて、発病しないのです。
 いわば、健康と病気が渾然一体化しているのが、「生命」という存在といえますね。
 池田 そう思います。また、たとえ病気であっても、偉大な仕事をした人はたくさんいる。逆に健康であっても、無為に人生を過ごしてしまう場合もある。
 ルソーの言葉ではないけれど、生きるうえにおいて「節制と労働とは、人間にとって真実なる二人の医者」ともいえる。
 ―― たいへん含蓄ある言葉と、私も感銘を受けたものです。
 池田 ですから、多少の病気があっても、絶対に負けてはいけない。健康になっていこう、人々のため社会のために働いていこうという、強靭な一念が大事となりますね。
 私の人生は、自然のうちに「健病不二」ということになっていました。
3  人生観の昇華につながる「病」
 ―― 以前、先生はアメリカの著名な生物学者ルネ・デュボス博士と、対談されましたね。
 池田 いたしました。デュボス博士はトインビー博士の友人です。そこでトインビー博士から、ぜひ会うように勧められた一人です。
 NHKの招待で来日されたとき、わざわざ来訪してくださったのです。
 もう早いもので、十数年前になるでしょうか。素晴らしいご夫妻でした。
 屋嘉比 もう亡くなられたのですか。
 池田 博士は亡くなられました。日本でも有名な著書があります。それは『人間であるために』『環境と人間』などでしたか。
 とくに『健康という幻想』(田多井吉之介訳、紀伊國屋書店)では、健康と病気の問題の本質を言いあてておりますね。
 屋嘉比 その本は有名です。私も学生時代に読んだものです。
 博士はその本の結びに、「人間は、どこでも、その安全に対する新しい脅威と新たな試練に出会うものだ。(中略)心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない」とまで書いています。
 池田 素晴らしい哲学です。素晴らしい現実の人生のあり方です。ともかく立派な学者でした。
 ところで、仏法でも「仏は少病少悩」といって、病気のない架空の仏など説いていない。(笑い)
 要するに、自分の健康は自分がいちばんよく知っているだろうし、健康のために、それなりの努力と注意も当然必要である。さらに、色心ともに生きいきと生きゆくために、自分自身の根本的な生命力を、いかに発現しゆくかということが、不可欠となってくる。
 そこに、仏法のひとつの意義があると、私は思っています。
 屋嘉比 同じ人間であるということからいえば、ブッダも、多くの仏も、みな凡夫と私は思います。そうでなければ、現実味はない。
 生身であり、凡夫であれば、病気はつきものでしょう。
 ―― そうでなければ、現代人は信じられない。
 池田 その「少病少悩」を転換しながら、多くの人の悩みを知りながら、いかに人類を済度の方向にもっていくかが、カギとなるわけでしょう。
 ―― デュボス博士も、先生との対談で、広い意味で、偉大なる未来宗教の出現こそ、人類の危機を救う唯一のカギであると、明快に述べておりましたね。
 屋嘉比 それで、私は一医学者として、多くの患者さんを診てきて、たいへん興味ぶかく思うことがあります。
 それは、長い闘病生活を耐えぬいた人は、人間が変わったように人生を大切にします。また、人への思いやりも強い。物事の見方も、深くなっていくように感じられることです。
 池田 いい話です。スイスのヒルティ(哲学者)でしたか、「河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべて人の心を掘って耕してくれる。病気を正しく理解してこれに耐える人は、より深く、より強く、より大きくなる」と言っておりますね。私はたいへんに深い示唆のある言葉と思ってきました。
 屋嘉比 私も好きな、素晴らしい言葉です。
 ―― 仏法ではなにか説かれておりますか。
 池田 あります。その一つに、「病によりて道心はをこり候なり」とあります。
 簡単に言えば、「病」も、より信仰を深める因とすることができるということです。
 戸田第二代会長も、よく、「大病を患った人は深い人生の味をもっている」と言っておられた。
 私も、まったくそのとおりと思っております。戸田第二代会長も、大病を患ってきた人です。大病と闘いながら、法のため、社会のために、行動しぬいてこられた人です。
 ま、要するに、「病」が、その人の人生観、目的観の昇華へと延長されていくことが大切でしょう。
 生きることの“質”が問われる時代
 池田 そこで、屋嘉比さん。医学では、人間の寿命をどうとらえますか。
 屋嘉比 いや、その点は、むしろ池田先生にうかがいたいところです。医学では、まだ結論は出ておりません。
 ただ解明の手がかりとして、前にも申しあげたように遺伝子のなかのDNAの障害が集積していくとか、細胞の分裂回数があらかじめ定まっていて、年をとるごとに残り少なくなっていくという考え方などがあります。
 池田 脳の神経や心筋なんかは、細胞分裂しませんが。
 屋嘉比 ええ、そうなんです。その場合も、大ざっぱにいうと、あらかじめある耐用年数が定まっているのではないかという考え方になります。
 池田 免疫の問題も関係があるようだと聞きましたが。
 屋嘉比 それは、「自己免疫説」といいます。
 年齢とともに、免疫をコントロールする力は低下します。したがって、外からの侵入物に対してだけでなく、自分自身の身体のタンパク質などにも、間違って免疫反応を生じ、身体に害をあたえてしまう傾向が増加し、これが、身体組織の衰えにつながっていくというのです。
 ほかにもいろいろな学説がありますが、定説は残念ながらありません。
 池田 この寿命の問題は、“老化”の解明とあいまって、今後、研究がさらに進んでいく分野になりますか。
 屋嘉比 現段階の医学は、老化の原因について模索していますが、寿命自体の解明はまだまだです。
 ただ、いくら寿命を延ばしても、幸福という問題とは、別次元の場合もあるわけです。
 アメリカの老年研究の専門医学誌『老年学ジャーナル』は、冒頭に、こんなモットーを掲げていました。すなわち、「ただ寿命を数年延ばすだけでなく、老年期を生きいきと過ごすために」と。
 池田 大事な観点だね。
 これからは、いよいよ生きることの“質”が問われる時代となるでしょう。
 ―― 今年(一九八五年)の五月、新潟県で、県内最長寿であった百四歳の老婦人が入水自殺したという、痛ましいニュースがありました。
 この老婦人は、昨年秋ごろから寝たきりで、「家族に迷惑をかけたくない」と、もらしていたようです。ところが、その息子も、すでに八十一歳になっていたというんです。
 この話を聞いたとき、私はなんともいえない気持ちでした。

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