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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 生命尊極の境涯「仏界」  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

前後
1  「一念」のもつ無限の可能性
 ── ひきつづき「脳と心」の関係について、お願いしたいと思いますが。
 池田 なかなかむずかしいですが(笑い)、しかし、どうしても通らねばならない問題でしょう。
 屋嘉比 貴重なチャンスです。自分もいろいろと読み、勉強してきましたが、話すことは、また一歩、自分のものとすることができますので、たいへんありがたいことと思います。
 池田 屋嘉比さん。前の章で、世界の各国も、「脳」の研究と「ガン」の解決は、最先端の学問である、と言っていましたね。
 屋嘉比 そうです。世界的な重要課題です。
 ── たしかに、最近、書店のコーナーに「脳」や「心」を扱ったものが多く見られます。
 池田 そうですか。ほとんど本屋に行く機会もないもので……。心の広がりというものが、「脳」の働きという次元からみても、宇宙大におよぶという事実を、医学的にもアプローチできる時代に入ってきましたね。
 脳医学の進歩も、じつにめざましいスピードで進んでいる。
 屋嘉比 医学者たちも、「人間」とは何か、人間とはこれほど無限の可能性に満ちた存在であるかと、びっくりしているようです。
 池田 そうした素晴らしい成果が、人類の将来へ向かっての、新たなる自信になっていくことも間違いない。人間というものが、本当によりよき方向へ、より高き方向へと進んでいくことを、私は祈りたい。
 ── 前の章で、人間の奥ぶかい生命というか、一念というか、「心」という問題について、仏法では、「一念三千」とも、「総在一念」ともいう法理があるとうかがいました。
 その点を、少しお願いしたいと思いますが。
 池田 そうですね。あるイギリスの著名な哲学者が、人間のすべての尊敬の念の基盤となるのは、「現在というものが、存在全体を、過去も未来も、時間の広がりのすべて、つまり永遠をも、みずからの内に保持していることを知覚することにある」と語っていた。
 仏法者として私は、なかなか深い思索の一節と、記憶している。
 昔から、多くの哲人たちが願望し、究めようとしてきたのは、この一点である。
 この大宇宙のなかに実在する自分自身の存在というものが、いったい「なぜ」あるのか。また、「何で」あるのか。その人間のもつ一念の広がりがどのようになるのか。
 また、この一念が、ご存じのように、どこまで無限の可能性をはらんでいるのか、ということでしょう。
 ── かのビクトル・ユゴーが「空よりも大きな眺めがある。それは魂の内部である」と叫んだのはあまりにも有名です。
 池田 私も大好きで、よく使った言葉です。
 そこで、仏法で説く、この「一念」という問題ですが、じつに深く、さまざまな角度からとらえられている。多次元から究明し、説かれている。
 ともかく、大宇宙とともに、この小宇宙である人間の一念の微妙さという問題もむずかしい、ということを前提とさせていただきたいのです。
 屋嘉比 当然、そうでしょう。ただ、その理解のなかから、なにか深いものをつかみ、参考にさせていただきたいと思います。
 池田 「一念三千」の、また「総在一念」の、「一念」の「一」とは、生命究極の「根本」ということです。
 その法理を、ある場合は「肝要」ともいう。また「一実相」とも説かれている。
 さらに「中道実相」という意味を含めてもとらえられている。
 さらにまた、一瞬刹那の「一」という意義もあるわけです。
 屋嘉比 「一」とか「二」とかいう数字の概念とは違うわけですね。
 池田 また、ある学者の研究では、「念」という語源について、「心」+「今」と論じている。この「今」は「含」と同じ意義で、心に一瞬のすべてを包み込むことをあらわしている、ともいえる。
 さらに「念」ということ自体にも、「思い出す」「記憶する」という心の作用をもっている。また「一」と同じくきわめて短い時間、つまり一瞬刹那の意味もあるといわれています。
 そこでこの一念は、「刹那相続」というがごとく、遠き過去から瞬間的な現在へと、そしてさらに現在から未来への瞬間、瞬間の果てしなき連続であるわけです。
 ── たとえて言えば、テレビの一コマ一コマの映像のようなものでしょうか。
 池田 わかりやすく言えば、そういってもいいと思います。テレビの画面は、一秒間に三十コマもある。その瞬間のごとき一コマ一コマが、次々とドラマを映し出し、一貫した連続の映像となる。
 屋嘉比 たいへんな速さで映像が動くため、一コマ一コマはわからない。
 池田 仏法が説く「刹那」とは、それ以上にはるかに極小の時間の単位のことをさしている。『大毘婆沙論』という経釈には、「一弾指ノ間ニ六十五刹那アリ」という解釈もあるくらいです。
 これは、指をまるめてはじく動作のなかに、六十五の刹那があるという意味です。
 屋嘉比 いまの時間の単位では、何秒ぐらいでしょうか。
 池田 どうでしょうか。一秒の七十五分の一と計算した仏教学者もいますが、「刹那」の元意は、量ることのできない極小の時間と思います。
 ── すると、私どもの一生は、また同じく、瞬間、瞬間の連続となるわけですね。
 池田 そのとおりです。結論して言えば、宇宙の森羅万象、万法ことごとくが「一念」に包含される。
 さらにこの瞬間、瞬間の人間の「一念」は、大宇宙へと遍満しゆくことを、明快に説き明かしたのが、この「一念三千」の法門なんです。
 屋嘉比 どこに……。
 池田 法華経です。この法華経二十八品には、「迹門」と「本門」とがあります。そして序品第一から安楽行品第十四までを「迹門」といい、従地涌出品第十五から普賢菩薩勧発品第二十八までを「本門」といいます。
 そのなかで大事なのは、迹門の方便品第二に「十如是」という法理が説かれている。
 さらにこの方便品から、人記品第九の間に「十界互具論」が説かれています。
 そして、本門の要法たる寿量品第十六にいたって「三世間」が説かれるという、多次元の論議があり、この「一念三千」の法門があらわされています。
 これをみずからの悟りのうえから、理論化し体系化したのが中国の天台大師です。
2  「一念三千」の事実の現象
 ── 「三千」とは具体的に……。
 池田 そうですね。有名な『摩訶止観』第五に、「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す」とある。
 十法界とは、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」ということです。
 つまり、「一心」「一念」はこの「十界」という十種の境界をそなえている。その「十界」のそれぞれは、瞬間、瞬間変化し、「十界」を相互に具し、十種に変化をしていく。
 さらにその十界が互具した「百界」は、のちほど申しあげますが、十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)という十種の生命の普遍的側面を常にもっている。
 そして五陰・衆生・国土という「三世間」があり、それぞれ厳然たる区別をもちながら、すべてわれらのこの一念に具していくというのです。
 したがってこの一念は、三千種の世間をはらみ、具しているというのです。
 屋嘉比 “乗ずる”わけですね。
 池田 いや、仏法で“乗ずる”という意義は、たんなる数量的計算ではないのです。生命のもつ立体性というか、奥ぶかさというか、それを三千の法数として表現しているのです。
 ── 「一念三千」の法門は、仏法のなかの最高峰といわれますが。
 池田 そのとおりです。そこで多くの宗派が、この「一念三千」の法門を盗みとっていったといわれていますからね。(笑い)
 この「一念」というものを、どのようにとらえるか……。
 これは科学でも、医学でも、最重要な本質問題ではないかと思いますが。
 屋嘉比 永遠に志向されるものです。
 しかし現実問題、そこまでいくかどうか……。むずかしいでしょう。
 ── 個と全体、全体と個の関係ともいえますね。
 池田 ま、簡単に言えば、この地球上、そして大宇宙の一切の現象というものは、全部この五尺の身の「一心」に収まる。六尺の人もいますが(笑い)、この一心に、完璧に関係、連動していくものである、ということです。
 屋嘉比 なかなかむずかしい論理ですが、わかるような気がします。鋭い仏法の眼ですね。
 池田 さらに、この微妙にして、変転きわまりなき瞬間、瞬間に、どのような自己の一念をもつか。この厳しき実相が、現実の人生の幸、不幸を決定していくととらえたのが、じつに仏法なのです。
 屋嘉比 すると、「一念」の波動の連続がすべてを決定、方向づけていく……。
 池田 そのとおりです。そこで、この「一念三千」の法門については、「理」と「事」という問題があるんです。
 わかりやすく言えば、「理」は、人間の一瞬の生命に三千を具すという原理を明かしたことをさします。その原理を、事実のうえで、生命に顕現することが「事」なんです。
 ── 一般的に法華経二十八品で、迹門十四品は「理」、本門十四品は「事」といいますね。
 池田 そうです。ところが、大聖人の仏法からみると、法華経の本迹ともに「理」となるんです。
 屋嘉比 すると「事」の法門は……。
 池田 いくら「一念三千」の法理がある、と言われても、それだけのことであり、観念の域を出ない。
 ゆえに、結論して言えば、日蓮大聖人の「文底独一本門事の一念三千たる南無妙法蓮華経」が、唯一末法における「事の一念三千」の当体となるわけです。
 ここが最も大事であり、肝心要のところなんです。
 ── よく天台の理の一念三千は、ビルの絶妙な設計図みたいなもので実体がない、といいますね。
 池田 しかも「南無妙法蓮華経」は即御本仏日蓮大聖人の御生命そのものであられる。
 そこで日蓮大聖人は、この大宇宙本源の法則と一体であられる御自身の生命を、一幅の「曼荼羅」として、根本法の当体とされたわけです。
 曼荼羅とは、「功徳聚」とも、「輪円具足」ともいい、「本尊」と名づける。この「本尊」とは根本尊敬すべき当体ということです。
 要するに、私どもの、この一念は変化、変化の連続である。
 この「御本尊」に「南無妙法蓮華経」を唱える一念となったとき、初めて仏界という尊極の生命がわが一念に始動する。
 そこにのみ、全生命、全英知を凝結した、人間の最大価値の行動がある。
 真実に、一念三千が自己の生命に完結できるという意味で、事実の現象がある。これを「事」というわけです。
 ── たとえば、テレビの理論は知らなくとも、スイッチを入れれば、見ることができるというのと同じになりますか。
 池田 わかりやすく言えば、そういってもよいと思います。
 そのスイッチを入れ、正しくチャンネルを合わせるのが、いわゆる信心です。
 信心がなければ、いくら御本尊を持っていても、仏界への活性化がなされない。
 ですから、要するに過去の八万法蔵の経典も、天台の『摩訶止観』も、すべてこの御本尊の論理的説明、証明書として収まっているのです。
 屋嘉比 万般の道理も、同じ方程式になりますね。
 池田 なお、本尊論については、「人法一箇」という、まことに深い法理がありますが、ここでは略させていただきます。
3  六道輪廻する生命にも「尊厳性」が
 ── そこでまず、「十界」ということですが……。
 池田 瞬間、瞬間に流れゆく生命のもつ「幸福感」、またその「姿」には、大きくみると十種の範疇がある。これを仏法は「十界」と、とらえたわけです。
 屋嘉比 「十」という数字にも、おもしろい意味がありますね。
 池田 「十」という数量は、古来から「まとまった数」「完全なこと」といった意義があるといわれてきた。また、「無限の数を寓する」という義もあります。
 屋嘉比 「十全」とか、「もう十分だ」とかいいますね。(笑い)
 池田 私どもの、この「十界」は、そのまま大宇宙の実相である。ゆえにこの宇宙もまた十法界である。
 具体的に言えば、われわれの生命はよく知られている「六道輪廻」、つまり「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」「天界」という境界がある。
 そして「四聖」という「声聞」「縁覚」、さらには「菩薩」「仏」という、より高次元の境界が厳然としてある。
 この妙なる範疇を、厳としてもっているのが生命の実相である、というわけなのです。
 ── 苦しんだり、悩んだり、自分を見失ったり、また有頂天になったり(笑い)、仏法は現実というものを鋭くとらえていますね。
 池田 まず、有名な「観心本尊抄」には、人界所具の九界の姿について、まことに簡潔、明瞭に述べられています。
 ── 「観心本尊抄」は、法本尊を開顕された大事な御書ですね。
 池田 そのとおりです。「本尊抄」には、「しばしば他面を見るに或時は喜び或時はいかり或時はたいらかに或時はむさぼりり現じ或時はおろか現じ或時は諂曲てんごくなり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲てんごくなるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」と……。
 屋嘉比 いや、たしかにそうです。(笑い)
 池田 しかもこの「地獄界」は百三十六種。「餓鬼界」は三十六種、また三種九種という説もあります。さらに「畜生界」は一万三千三百種あるというのです。
 屋嘉比 はあ、たしかに、苦しみとか欲望とかには、さまざまな姿がありますね。
 池田 また「修羅界」は、自分の身長が八万四千由旬。四大海の水も膝までしかない。これほどおごり、たかぶったときの人間の生命は、自分が大きく見えるというのです。
 他人は、そうは見ていない。(大笑い)
 屋嘉比 ときどきいますね(笑い)。「六道」より上はどうなりますか。
 池田 これは、反省的自我ともいいます。
 いわゆる学者のような「声聞」、また芸術家などの「独覚」すなわち「縁覚」、さらに人々のために働く「菩薩」があるとされています。
 つまり、日常性を突き破って向上しようとする生命の状態です。
 屋嘉比 なにかの縁で、勉強するようになったり、人のために働く……。だれでも経験します。
 ── 最近は、自己中心主義で、人のために働き行動することが少なくなってしまった。
 池田 それはそれとして、この「九界」の行動とか、姿が、それぞれ顕現したり、冥伏したりする。これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できるものです。
 ここで重要なことは、仏法の仏法たるゆえんの追究、探究の眼は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命の実在を、いかにして顕現しゆくか、というところにあったのです。ですから、本来仏道修行というものは、この「仏界」を涌現するために、なくてはならない。
 日蓮大聖人の大仏法は、この一点に凝結され、さらに正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示しているわけです。ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのです。
 ── その「仏界」という境地について、なにか説かれていますか。
 池田 この仏界の姿を、釈尊は「自在人」「自在王」と説いている。経釈では「世雄」とも「能忍」とも、また「仏の十号」としても示されている。
 ── 「十号」とは……。
 池田 「如来」「応供」「正遍知」「明行足」「善逝」「世間解」「無上士」「調御丈夫」「天人師」「仏世尊」です。むずかしいので、一つ一つの意義は、またいつか勉強してください。(笑い)
 ともかく、三世を通観し、万法に通達する、完成された円満の境地のことと、私は思っています。
 屋嘉比 われわれの社会をみても、高度な科学技術の追究は、声聞、縁覚というのでしょうか、その進歩の果てが、人間の自由を束縛し、人間を機械化する管理化社会であった。
 どちらかといえば、六道輪廻のほうへ追い込まれてきてしまっている。
 ── 高度な社会にみえるが、心身症や躁鬱病の文明病が蔓延している。まさしく六道輪廻ともとらえられますね。
 地獄とはよくいったもので、だんだんと人間自身が、なにか巨大なものから圧迫をうけながら、下へ下へとさがっていく感じがしてならない。
 池田 ともあれ、これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。
 「地獄」の「地」とは、最低のものに縛られるという意味です。
 ですから、いかなる時代になろうと、この「縛」を切り、人間自身が上昇していくことを最も基本に考えねば、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。
 屋嘉比 重大問題です。最近、「人間学」などが話題になるように、専門化、細分化した学問をもう一回統合し、病める現代社会における人間自身を見つめなおそうという、動きが注目されています。
 池田 故トインビー博士との対談のさいに、博士が言われたことを、私は忘れることができない。
 それは、「われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いている。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことだ。(中略)尊厳性──それがなければ、われわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福になりえない、その尊厳性──を確立するよう、一層努力しなければならない」と、まことに厳しい表情であった。
 屋嘉比 トインビー博士の見解は、たしかに正しいと思います。博士が、東洋の高等宗教である仏教に、その解決法を求めていったことは有名ですね。
 池田 そうなんです。仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ仏界という人間生命の最極なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
 そこにこの「十界論」という法理の重大な価値があると、私は思っております。

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