Nichiren・Ikeda
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第五章 「脳と心」の神秘を探る
「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)
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1 「春」の表現にも濃やかな感受性が
屋嘉比 どうやら春めいてきましたね。
私は、沖縄出身なもんで助かります。(笑い)──昔の人は科学者ですね。「暑さ寒さも彼岸まで」とは、よくいった。(笑い)
池田 四季のリズムは、本当に不思議を感ずる。万物がこのリズムにのっとっている……。
── そこで、気分転換にもなりますし、今回は四季について、少し語っていただければと思います。
池田 そうですね。
四季には、初春とか、初夏とか、仲秋とかいうように、それぞれ「初」「仲」「晩」という言葉がついております。
屋嘉比 そうですね。
池田 ところで「春」には、それ以外にも「浅春」「早春」「陽春」などと、さまざまな呼び方がある。
屋嘉比 まだありますか。
池田 「仲春」「芳春」、また「惜春」などとも、昔の人は語り、詠み、また書いたりしましたね。
── すると「立春」という言葉は、どういう意味になりますか。
池田 間違っているかもしれませんが、「春立ちける」の意味と思っておりますが。
ですから、森羅万象がいっせいに春の模様を綾なす、という意味でしょうか。
屋嘉比 「春眠暁をおぼえず」などというのは、人間だけですね。(笑い)
池田 日、一日一日と明るさを増しゆく陽光は、生命を、じっとはさせておかない。
冬を耐え、すべての生命が、厚いカラをたたき割り、萌え出づるさまは、壮大なリズムを感じさせる。
ですから、春の姿に、種々な表現があるのは、やっと寒い冬が遠のき春を迎えた、その喜びというか、ほっとした、素朴な感情のあらわれともとれる。
屋嘉比 そうでしょうね。日本人は、濃やかな感受性が、とくにあるように思われますが。
池田 そう思います。
── 日本人は、草木の緑ひとつとってみても、とらえ方は微妙です。
池田 「もえぎ」「うぐいす」「あさみどり」等々、なかなか味わい深い言いあらわしがある。心の余裕を感じさせるとともに、言葉の生命から、その微妙な色合いが浮かんでくるようだ。
── 俳句が生まれた理由も、このへんにあるのでしょうか。
池田 古来、日本人には、繊細な美意識が、自然なかたちで溶け込んでいると思います。
── 外国には、俳句に見合った言葉がなく、よく翻訳者が苦労しています。
2 一草一木といえども生命の当体
屋嘉比 ところで、この地球上には、何種類ぐらいの植物が、あるのでしょうか。
池田 たしか、陸生植物だけでも、約三十万種と読んだことがあります。
屋嘉比 すると、生物のなかでは、植物がいちばん多いのですか。
池田 どうでしょうか。確かとはいえませんが、この地球上で、全生物の種類は、百三十六万種ともいわれておりますからね。
屋嘉比 そうしますと、種類としては、やはり鳥などの動物や、虫や魚などのほうが多いわけですね。
池田 そう思います。ただ、同じ「科」のものが多いのは、植物のほうが圧倒的のようです。
ですから、仏典にも、たくさんの植物の名前は、数多く見られます。
屋嘉比 どのくらい……。調べた人はおりますか。
池田 おります。たいへん、その方は苦労されたようです。仏典の原本であるサンスクリット語、パーリ語と、漢訳した名称とを、一つひとつこと細かに比較しながら、その植物の種類は何かを、調べていったようです。
その研究で明らかになった数は、四百九十八種です。
屋嘉比 たいへんなものですね。
池田 このなかには、仏典の原本に記された植物の呼び方が、似たように漢訳され、現在にいたっているものも多いのです。
── どんなものがありますか。
池田 たとえば、有名な「菩提樹」は、サンスクリット語でも「bodhi‐vr∴ks∴a」(ボーディ・ブリクシャ)です。
また、「曼殊沙華」は、「man¨ju^s∴aka」(マンジューシャカ)などとなっています。
屋嘉比 それにしても、二千数百年も昔に、仏典のなかに植物が数多く登場してくるのも、不思議ですね。
池田 仏法は、この宇宙のあらゆる実在、現象というものすべてを、生命的存在ととらえ、それを「諸法」とも、「森羅三千」とも、「森羅万法」とも説いている。
この「森羅」という意義は、あらゆる実在であり、現象である「法」というものを樹木に譬え、樹木が無数に繁茂しゆく姿、また無限に並び連なるさま、をいっているわけです。
また、「三千」とは多数という意義です。
屋嘉比 すると、仏法には、一言一句にも、深い次元からの生命への洞察がある……。
池田 そう思います。たとえ、一草、一木といえども、生命の当体である。
そのうえに立って、草木には草木としての姿があり、働きがある。鋭くその性分や特質をとらえているといってよいでしょう。
また別次元からみれば、仏法では、甚深なる法門を、広く、正しくわからせるため、譬喩というものが多く使われている。そして多くの植物が、その譬えに使われている。
その意味から、仏法に、この草木などの植物をはじめとし、万般にわたる深い洞察の眼があったことは、十分うかがえるわけです。
屋嘉比 すべての物事を、正しくとらえようとした、仏法の科学的な姿勢を感じます。
池田 そこで、ひとつの例として、「法華経」のなかに、「薬草喩品」という経文があります。
── 「薬草喩品」とは、どういう経文でしょうか。
池田 詳しくは、さまざまな文献がありますので、勉強していただきたいのですが、簡潔に申しあげれば、仏の慈悲の雨は、種々雑多な草木の上にも平等に降りそそぐ。
すなわち、妙法という最高の薬は、国境、民族、また時代や社会制度を超え、一切の人々の煩悩、苦しみを、平等に解決しゆく「法」である、ということと思います。
屋嘉比 譬えというのも大切ですね。それによって、深い真理を知ることもできる。
池田 仏の尊称のひとつに「世間解」というものがあります。簡単に申しあげますと、因果の理法を悟り、世間、出世間を問わず、ものごとの道理をよく理解する、という意義と思います。
ですから、仏教では大事な仏典を残すため、何を使ったらよいかという、こと細かなことにも気をくばり、丈夫で保存性のある多羅樹というヤシ科の樹を選び、その皮や葉に刻みつけたというのも、そのひとつのあらわれといってよいでしょう。
屋嘉比 まだ、紙がなかった時代ですね。
池田 そうです。
屋嘉比 そうした努力があったからこそ、仏典が長く残り、中国で、紙が発明される時代にまで、受け継がれることができた……。
池田 そうです。「法華経」には「令法久住」とある。すなわち、仏法が未来永劫にわたって伝えられていくことを祈り、願ったわけでしょう。
屋嘉比 日蓮大聖人の仏法では、植物を譬えに引かれた御文はございますか。
池田 時に応じ、人に応じ、数多く説かれております。
そのひとつの例として、身延の沢から、鎌倉に住む乙御前という女性に与えられたお手紙には、「木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず」と、栴檀の木に譬えて、妙法の力用を説かれている。
また、妙密上人という人には、「麻の中の蓬・墨うてる木の自体は正直ならざれども・自然に直ぐなるが如し」とのお手紙がある。
これは、よもぎも、麻のなかでは真っ直ぐに伸び、曲がったりしない。と同じように、妙法にのっとった人生は、清らかな正しい生き方となることを、譬えておられるわけです。
屋嘉比 はあ、仏法の難解な法門を、少しでもわかりやすくしてあげたい、との思いやりからでしょうか。
3 泥沼のなかでも清浄無垢に
── 「蓮華」という言葉が多いですね。
池田 そのとおりです。
「妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候」とも説かれている。これは深遠にして、重々の義があるんです。
いわゆる「蓮華」とは、花が咲くのと実がなるのが同時である、という性質をもっている。
屋嘉比 これは、数ある植物のなかでも、蓮華だけにみられる特徴ですね。
── そういえば、二千年も前の蓮の種子が、遺跡から発見されたことで、たいへん話題になったことがありました。
池田 そうそう、いまからもう三十数年前でしたか、亡くなった東大の大賀一郎博士が発見し、世界的に有名になりましたね。
── 千葉県の検見川遺跡から三個発掘し、「大賀ハス」と名づけられました。
池田 まさかと思ったのでしょうが、その翌年でしたか、その種子から立派な蓮華の花が咲き、いや、驚いた。当時、新聞にも大きく報道されましたね。
屋嘉比 強靭な生命力としか、いいようがないですね。
私はまだ、そのころは、小学校にもあがっていませんでしたが。(笑い)
池田 いまでは、全国に株分けしていると聞いています。
── 東京近郊では、町田の薬師池公園の池に植えられています。
池田 そうそう。先日、町田に行ったのですが、時間がなくて。惜しいことをしました。(笑い)──今年の開花は、七月ごろだそうです。
池田 そうですか。見事な花を、咲かせることでしょう。
屋嘉比 図鑑で見たことがありますが、蓮華の種子は、真っ黒い皮で包まれていますね。
池田 ところが、中身は真っ白です。
きょうも、じつは東大阪市の友人の方々が、地域の公園に貴重な蓮があるのでということで、「ハス」の資料をわざわざ届けてくれたのです。
屋嘉比 その「ハス」も天然記念物ですか。
池田 そのようです。府の教育委員会の指定書の写真も、添付してくださってましたから。(笑い)
ここの「ハス」も、大賀博士が昭和十五年に発見したそうです。これも、千五百年ぐらい前の原始的な「ハス」のようです。
写真を拝見しましたが、ともかく見事な花でした。
── 蓮の歴史も、相当なもののようです。種類によっては、一億三千五百万年前もの化石が発見されているようです。
池田 そうですか。また古来、蓮華とは、最も高貴な花として尊ばれてきました。
たとえば、五千年前のエジプトでも、王家の紋章となっていた。それが印された遺品が発掘され、カイロ博物館に展示されているそうです。
古代インドでも、理想の花であると同時に、薬草としても珍重されていた。
屋嘉比 おもしろいもんですね。
池田 当時は「蓮根療法」というものもあったようです。釈尊の弟子舎利弗の難病が、これで快癒したと、説かれています。
また、この花は腎臓、胃腸病の漢方薬とされていたり、さらに葉は、止血薬としても使われていたようです。ご存じのように蓮根は、滋養強壮剤ともされてきた。
屋嘉比 なるほど。そうですか。
池田 また、仏の座法に「結跏趺坐」がありますが、これはもともとは「蓮華座」といわれ、蓮華の咲く姿に模したといわれております。
── これは有名ですね。妙法は、なぜ蓮華以外の花を用いなかったのでしょうか。
池田 鋭い質問です。それについて、第二十六世日寛上人は、「蓮華は、多奇なるゆえである。余花は妙法をあらわすに堪えられない」と、その理由について、余花の七種をあげ、明快に説かれているのです。
── 具体的には……。
池田 その七つを、
「いちじくのように、無花有菓」
「山吹のように、有花無菓」
「胡麻や芥子のように、一花多菓」
「桃や李のように、多花一菓」
「柿のように、一花一菓」
「瓜や稲のように、前菓後花」
「一切の草木のほとんどは、前花後菓」
だからである、とおおせです。
屋嘉比 本当に、実証性を感じますね。
池田 さらに大切な意義は、蓮華という花は、泥沼のなかにあって、そこで生長する。それであって、泥に少しも染まることなく、清浄にして無垢なる花を咲かせる。
この姿を、『法華経』の「従地涌出品」では、「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」と説かれております。
屋嘉比 蓮華のような、清らかな人生でありたいものです。しかし、いまは社会が悪すぎる。むずかしいですね。
池田 そこが大事なんです。ですから、現実社会に生きるうえでのさまざまな問題、悩み、さらにまた、鎖につながれたような自己の煩悩の淤泥、その中にあって、いかに生きぬこうか、いかに道を開いていこうとするか、またさらに、人間として、より高い境涯にいたろうとするか、それが人生というものでしょう。
よく仏法は「蓮華の法」といわれるが、厳しき人生と社会にあって、この宇宙の確かなるリズムというか、法則にのっとり、みずからの生命を、生きいきと発現し、社会に貢献しゆくために、説かれたのが仏法である、というわけなんです。
気休めや自己満足だったら、だれも信じない。(笑い)