Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 「生命」の永遠性とは  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  「出生」の意義
 池田 今回は、「出生」の意義をもう少し深め、いちおう、まとめておきたいと思いますが。
 屋嘉比 人間が生まれ出るとき、「宿命」といいましょうか、さまざまの姿を現じてくることについても、遺伝子による要因とか、医学でも現象面でのあるていどの解明がされるようになってきたと思います。
 池田 仏法と医学は相反しない。よく戸田第二代会長が強調しておられたところです。医学はその研究の積み重ねのなかから、一歩一歩と進歩していくことになるでしょう。
 屋嘉比 いわゆる医学は、人間の「出生」という問題についていえば、精子と卵子の受精現象にまでさかのぼって解明することができました。
 しかし、この受精によって決定される個々の特質、またそれを決定づける遺伝子の組み合わせが、いかにして決められていくかは、いまだにわかりません。
 ところが、最近、「出生」の原因というものは、その前提となる、より大きな背景があるのではないかという見解が、アメリカやヨーロッパの一部の学者によって提起されています。
 ── 生命の神秘性、不可思議さを探るということは、世界的なひとつの潮流になってきているようですね。
 池田 いま話題の、「ニューサイエンス」などでも、「ホロン」(個であると同時に全体としての性格)とか、「ゆらぎ」(生命体の環境への自主的適応)とかいって、「生命」の本質に迫ろうという関心が高まっているようですが……。
 屋嘉比 ええ、つい先日も、筑波大学でその国際シンポジウムをやっていました。私もそのリポートを見ましたが、東洋の「気」とか「霊性」というものを引っぱり出してきて、生命の連動性を説明しようとするフランスの学者もおりました。
 ただ、いまの段階では議論が白熱しているわりには、どうも暗中模索の感がいなめませんが。(笑い)
 池田 どこまで納得できるかは別として、ともかく生命の連動性という考え方を、共通の認識基盤にしていることは、まことに大切と私は思います。
 屋嘉比 私は、医学的に精子と卵子の結合による生命の誕生といっても、どうも、それだけでは説明しきれない何ものかがある気がしますが。
 池田 そのとおりと思います。生命の誕生、発生というまことに創造的な営為。また誕生してからの、遺伝子などのさまざまな情報にもとづく自己創造の活動は、とても化学的、機械論的な反応の説明だけではなしうるものではない。
 屋嘉比 ですから私は、そこにもっと深い次元の、みずからを誕生、発現せしめていく「何か」、また生きつづけようとしていく「何か」があると思います。
 池田 いま、屋嘉比さんが指摘されたように、いわゆる人類史が始まって以来、人々は、その生きつづける「何か」が「有る」と気がついていた、と思われることがありますね。
 いちばんわかりやすい例でお話ししますと、ギリシャ語やラテン語で、「有る」という言葉が、そのまま「生きる」を意味する言葉になっているんですね。
 ギリシャ語では「esti」、ラテン語では「est」という言葉です。
 インド古代のサンスクリット語による哲学用語でも「有る」は、同じく「生きている」という概念になっていますね。
 しかも、古代ギリシャにおいても、魂の「輪廻観」というものが強くあったようです。
 屋嘉比 インドでは、昔から生命の「輪廻観」があった。ギリシャにも、生きつづける「何か」、すなわち生命が、生死を繰りかえすという考え方があったのでしょうか。
 池田 私もその道の研究者でないもので、その点、ご了承願いたいのですが、たしか、紀元前七世紀ごろであったと思いますが、オルペウス派という宗派が「輪廻観」を言っていたようです。
 さらに紀元前五世紀ごろには、ギリシャのピタゴラス派が、「輪廻観」とか「霊魂不滅」というものを、展開していたようです。
 これが後代にわたって、多大な影響をあたえたことは、歴史的に有名なことです。
 屋嘉比 東洋と西洋の不思議な一致ですね。ピタゴラス派は、プラトンをはじめ、その後のギリシャ哲学の大きな源流になっておりますね。
2  母の「胎内」は尊厳なる「宝浄世界」
 池田 仏法には「四有」という言葉があります。簡単に申しあげますと、生命が「生有」「本有」「死有」「中有」という四つの状態になるというわけです。
 「生有」とは、誕生の瞬間をさしていると思います。
 「本有」とは、誕生から死まで。
 「死有」とは、死の瞬間。
 「中有」とは、死から次の誕生まで。
 つまり、生命は四つの状態を三世永遠に繰りかえしていくという意味があると思います。
 もっと深いとらえ方があるかもしれませんが、いちおう、私なりに一言だけ申しあげておきます。
 屋嘉比 仏法は、あくまでも「生命」というものが、永遠性をはらんでいるという大前提となっているわけですね。
 池田 仏教には「希有」という経文の言葉があります。法華経方便品にもみられますが、これは、現代の私たちの立場でいえば、「南無妙法蓮華経」という「一法」に巡り合うということが、いかに「希」であるかということをいっております。
 また、爾前経などに、人間として「生まれる」ということが、めったにないことであり、希にして不思議なることという意義があった気がします。
 ── よく一般的に「希に」ということを「希有」といいますが、仏教からきているわけですね。
 この「出生」がいかに希なことかは、第一章でもお話に出ましたね。
 屋嘉比 第一章でも申しあげましたが、お母さんの胎内の受精卵のうち、出生にまでいたるのは約三分の一しかないともいわれています。
 池田 この希なる「生命」の誕生も、仏教では「苦」ととらえております。たとえば、涅槃経には、「生苦」として、次の二つがとりあげられております。
 まず、初めてこの世に出ること。すなわち受精、受胎することを「生苦」といっております。
 次に、母胎から生まれ出るときにも苦をともなう。これをも「生苦」に含めます。
 この母胎から誕生する「苦」には、仏教の初期の段階の修行道地経という経文によれば、二種があって、一つは狭小な産道を通る場合の苦痛であり、二つは出産後に初めて外物、つまり外気、助産婦の手、産湯、産着などに触れる苦痛である。
 こういう生苦をなめて生まれるため、人は過去における記憶を忘れるというのもあります。
 屋嘉比 なるほど、明快ですね。
 池田 また、日蓮大聖人の「御義口伝」という深い次元では、「宝浄世界とは我等が母の胎内なり」と説かれております。
 また、「宝浄世界の仏とは事相の義をばしばらく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なりしかるに詑胎たくたいの胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」ともおっしゃっている。
 これまた事と理、総別という次元で拝さなければならないのですが、いちおう、簡単に申しあげますと、「十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」、つまり「宝浄世界」とは、特別の世界をさすのでもない。また観念の世界をさすのでもない。
 母の「胎内」が、生命の出生するところであり、生命以上にすぐれた宝はない、ゆえに、最も尊厳なる「宝浄世界」である、とおっしゃっておられるわけです。
 屋嘉比 たいへん、深秘な教えと思います。
 池田 また、むずかしくなってしまい、恐縮ですが(笑い)、仏法では、すべて生まれたものは、必ず滅する。その現象面だけの「有」を「仮有」と説いています。
 さらに仏法では生命それ自体に、たとえば「出生」なら、「出生」をうながす不滅の核、つまり「我」というような常住の存在があることを説いております。
 これを「仮有」に対して、「実有」「真有」「妙有」とも説き明かしております。
 屋嘉比 そうですか。医学や科学では、ちょっと出てこない言葉ですね。(大笑い)
 池田 人間は胎内から生まれる。鳥や魚は卵から生まれる。また星は宇宙空間から生まれる。また冬の枯れ野は、やがて春になると、美しい花や緑に変わる。
 それぞれ、所生はちがっても、ありとあらゆる生命は、誕生のドラマを演じる。
 そしてまた、必ずいつかは滅していく。
 ── 森羅万象ことごとくが時とともに変化しますね。
 池田 私の家は、新宿の信濃町にあります。もう十数年住んでおりますが、よく近くの外苑のイチョウ並木を通ることがあります。
 春になると木々は青い芽を吹き出し、夏は葉が繁茂し、秋になると美しい黄色になります。そして冬の訪れとともに、一枚の葉もなくなる。
 この四季折々の光景を、何回となく見ながら、なにか生命の深秘なドラマを感じてならないのです。
 屋嘉比 たしかに生物というものは、条件がととのえば、また環境からの適切な働きかけがあれば、誕生していくということは、そうしたいくつかの小さな例をとってみても、考えられます。
3  大宇宙の本源の働き
 ── 『「仏法と宇宙」を語る』のなかで、星の誕生が語られていましたね。
 屋嘉比 私も読みましたが、たいへん感動的な話でした。
 つまり広大無辺の宇宙で、目に見えないくらいの小さな物質が集まり、回転をはじめる。そして、誕生のときをつくる。それがあるとき、瞬時にして突然輝きわたるという、ロマンあふれる話でしたね。
 そこで仏教に説かれている「実有」とは、どういうことになるのでしょうか。
 池田 いや、むずかしい質問です。(笑い) たとえば、天空にきらめく無数の星の誕生を、ひとつの例にとってみれば──大宇宙それ自体は、これら星々の母胎のような存在ととれる。
 ですから、大宇宙それ自体に、太陽とか、金星とか水星とか、また銀河星雲とか、また、われわれの住んでいる地球のような無数の星を「出生・誕生」させゆく力用というものがある、と私は考えたいのです。
 つまり、宇宙それ自体が、生命を誕生させゆく慈悲ぶかい存在である、と仏法では説かれている。その「生きている」大宇宙の本源の働きを、ひとつの軸としながら、無数のきらめく星雲が誕生していこうとする力用の、その実在的な当体を「実有」ととらえていきたいと思います。
 まあ、もっと深いとらえ方をなさる方もいらっしゃると思いますが、いちおう、これでご了解願いたい。(笑い)
 屋嘉比 すると人間も母親の胎内という場を借りながら、といいますか、即してといいましょうか、生命それ自体の力用によって、「出生」という厳粛なる事実を示していくととらえるわけですか。
 池田 そうとっていただければ、ありがたいのですが。(笑い)
 ですから、生命というものは、いついかなるときでも、創造性を内在し、さらに能動的であり、まことに積極的な蘇生への力そのものをもっていることがわかります。
 そこで経釈に「一身一念法界に遍し」と。これも深義があるのですが、簡潔に申しあげますと、「生命」には、常に宇宙大の生命に達しゆこうとする壮大にして、限りなき律動がある、ということになります。
 屋嘉比 人間の生命が宇宙大の広がりをもつということは、まことに卓見であり、概観して言えば、フロイトやユングなどに端を発する深層心理学が光をあててきたのも、まさしくその一点にあったといえると思います。

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