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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 出生の不可思議  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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1  はじめに
 碓井――(司会) まえに小社で出版させていただいた『「仏法と宇宙」を語る』(潮出版社刊)は、たいへんな反響をよびました。
 ひきつづき、一日も早く次の企画を、との声が高まっておりました。今回このように、医学の若き研究者であり、東大医学部附属病院研究室(編注・対談当時)で、診療と基礎研究の両面にわたって、精進しておられる屋嘉比博士にも参加していただき、思う存分に、この現代の課題を語り合っていただきたいと思います。
 屋嘉比 こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
 このような重要な企画に参加することについて、いまだ若いので躊躇しましたが、すべて自分の勉強になると思い、参加させていただくことに肚を決めました。
 池田先生、よろしくお願いします。
 池田 こちらこそよろしく──。私は医学にはまったく素人なので、勉強させていただきます。
 ── 本来は、名誉会長と屋嘉比博士との対談形式で進めていくことを考えておりましたが……。
 しかし、今回のようなむずかしい問題の場合は、司会者が入ったほうが、展開がよりスムーズにいくのではないかという意見もあり、はなはだ僣越ですが、私が司会役を務めさせていただきます。
 屋嘉比 そのほうがよいと思います。二人だけの対談だと、議論に終始するおそれがありますから。
 池田 たしかにそうですね。
 ともすれば、互いの目的を忘れ、読者を忘れた議論が多くなりがちですから。
 ── なお、『「仏法と宇宙」を語る』の場合でもそうでしたが、池田先生は、常に若い研究者の方と対話されています。
 これはたいへんすぐれた、未来を先取りした姿勢で、感服にあたいするものである、との識者の感想が寄せられておりました。
 池田 いやどうも。若い人のほうが、私自身、新鮮な勉強ができるからです。
 屋嘉比 浅学で恐縮ですが、ご期待にそえるよう、全力で取り組みます。
 ── それから、これはご報告ですが、おかげさまで、当社刊行の『「仏法と宇宙」を語る』(全三巻)は、昭和五十九年の部門別ベストセラー(ノンフィクション)の第一位になりました。
 池田 そうですか。それはよかったですね。さらに勉強し、いつの日か再び論じなければならないと反省しておりますが。
 屋嘉比 私も読まさせていただきましたが、「人間」と「社会」と「宇宙」とを貫いたあの鼎談は、われわれが二十一世紀へと進む大きなステップを踏んだとみますね。
 ── ありがとうございます。
 たしかに、仏法と、そして宇宙にまで広げた深遠な問題に対し、多くの読者の方々に、哲学と宇宙観を思索していく土壌をつくっていただいたと思っております。
 池田 ちょっとむずかしすぎたとも思っておりますが……。全般的に、もっとわかりやすく、もっと気軽に読めるように論じなければならないのですが、どうしてもむずかしくなってしまう。
 屋嘉比 それは、しかたがないと思います。どうしても専門的な表現しかない場合が多くありますからね。
 池田 今回の「生命と仏法を語る」も、同じような形態になってしまうかもしれませんが、その点どうか、ご了解いただきたい。
2  仏法を志向した人々
 ── 『「仏法と宇宙」を語る』は、海外からも多くの反響がありました。すでに『潮』連載中から、イギリスの有力出版社からも、英語版の版権取得の求めがあったほどです。
 池田 うかがっています……。
 屋嘉比 英語版を出版したいというのは、それだけ海外でも、仏教に対する関心が高まっているということでしょうね。そのほかになにか反響がありましたか。
 ── そのイギリスの出版社は、欧米の各国に、支社をもっています。その関係者からの手紙に、ヨーロッパ社会と仏法の出合いについて書いたものがあります。
 屋嘉比 具体的には、どういうことですか。
 ── 十八世紀中ごろから十九世紀の初めにかけて、ヨーロッパでは、わずかですが、仏典が英語、ラテン語などに訳されはじめますね。それを見てゲーテなどが「驚嘆した」と言っていたそうです。
 池田 そうした事実は聞いています。それらの仏典はサンスクリット語やパーリ語という、いわばラテン語のようなむずかしい言語で書かれていました。
 当時のイギリスやフランスの学者は、仏法を知るために、言葉を学ぶところからはじめたわけです。そのことだけでも、たいへんに真摯な、仏法を求める姿といっていいでしょう。
 屋嘉比 なるほど。ゲーテは、もちろん仏法の全体など知りえていないわけですね。
 池田 そうです。垣間見たていどでしょう。
 ── 以前、長野で、名誉会長は、青年たちに、ゲーテの『ファウスト』についての所感を語られておりました。私はそれを新聞で読み、このように仏法の観点からとらえうるものかと感銘しました。
 池田 ゲーテは、名作『ファウスト』の第二部を書きあぐねていた時期がありますね。
 ── 有名な話です。文豪シラーに宛てたゲーテの手紙などには、息子の死を契機に書きはじめるとありますから、それが精神的な転機とみられていますが。
 池田 それも事実だと思います。だが、そのころ、彼はインド古代の宗教叙事詩『シャクンタラー』を読み、「底の知れないほどの傑作」と語っています。
 ── なるほど。それは、初めて聞く話ですね。
 池田 ゲーテはさっそく、その形式を求道の実践に出発するファウストの「天上の序曲」に使ったようですね。ただ残念なことには、晩年のゲーテは、仏法を求めながら、十分に知りうる条件に恵まれていなかったといえるでしょう。しかし、彼が仏法を志向したという事実とその影響は、その後も残っている。
 屋嘉比 具体的には、どのようなことですか。
 池田 有名な哲学者ショーペンハウアーは、ゲーテの影響のもとに、彼なりにインド哲学や仏法の研究をし、彼の哲学を体系づけています。
 屋嘉比 ほかにもだれかいますか。
 池田 歌劇の王といわれたワーグナーは、ゲーテやショーペンハウアーのそうした影響を、最も強く受けています。
 屋嘉比 どのようにでしょうか。
 池田 彼の場合は、ついには仏法に帰依していますから、はっきりしています。
 屋嘉比 超一流の文学者、哲学者、音楽家たちが、仏法を志向していたといえるわけですか。
 池田 そのとおりです。事実、彼らの影響で、今日、文豪とか、一流の思想家といわれている人々が、多く仏法へ向かっています。
 屋嘉比 私たちの知っているような人物ではだれですか。
 池田 そうですね。ロシアではトルストイ、フランスではビクトル・ユゴー、アメリカではホイットマンなどです。
 屋嘉比 そうした事実の記録はあるのでしょうか。
 池田 あります。詳しくは別の機会に論じたいと思いますが、この勢いが日本にもまわりまわって逆に上陸し、その結果、日本の文学者たちが仏典への関心を深める契機になったという事実は、おもしろいと思っています。
 ── 芥川龍之介などが、仏教説話を読みはじめたというようなことでしょうか。
 池田 そうです。当時のドイツ文学界の影響です。
 さらにヨーロッパについてみれば、だいぶ時代は後になりますが、フランスの有名な哲学者べルクソンや、スイスの心理学者ユングなどが、仏法に肉薄し、生命の問題を思索する重要な糧にしています。
 ただ一言だけ申しあげておきたいことは、そうした努力も、仏法の全体像というか、本質からみると、まだまだ迹門・爾前ともいえないくらいの序分にすぎないということです。
 屋嘉比 そうしますと、科学者も含めて、世界の人々が本格的に仏法と取り組むのは、これからの時代とみてよいですか……。
 池田 そうです。また、そうでなければ、人類は、期待をこめて二十一世紀を語ることはできない。
 ── 小社で池田先生の鼎談『生命を語る』を、だいぶまえに出版させていただきましたが、たいへんな数の投書がありました。
 いかにいまの社会が「生命」というものに対し、深い関心をもっているかがうなずけました。
 池田 『生命を語る』のなかでも、相当ひろく論じたつもりですが。時代も急速に進歩していますし、なんとか新しい視点で思考していくようにしたいと思います。
 ただ当然、以前の『生命を語る』で論じた範疇も含まれてくることを、ご了承願いたい。
 ── それは当然なことです。
 屋嘉比 それはやむをえないと思います。
 私もこの対談にあたって、『生命を語る』を読みかえしてみました。川田(洋一)博士らもよく研究なされ、たいしたものだと思います。私も川田博士の着眼点には、大いに賛同するところが多いのです。
 こんどは私は私なりに、研究者としての観点から、思索してみたいと思いますが。
 ── この「生命」の問題は、時代が進むにつれて、さらに深い関心が呼び起こされてくるテーマであると思います。
 そこで、ご多忙のところ恐縮ですが、この対談で、何回でも論じていただければ、ありがたいのですが……。
 屋嘉比 わかりました。池田先生がよろしければ、私も努力します。
3  出生と潮の干満
 池田 そこで屋嘉比さん、人間の誕生ということですが、その時刻は、引き潮のときよりも、満ち潮のときに多いと、よくいわれるようですが、実際はどうなんでしょうか。
 屋嘉比 たしかに、そういう傾向があるようにも思えます。
 池田 この点については医学的には、まだ本格的に解明されていないのですか。
 屋嘉比 まだ一部の学者の研究にとどまっていますね。
 池田 たしか大正の末か昭和の初めごろでしたか、大阪の医学者が調べた例について聞いたことがありますが。
 屋嘉比 ええ、その調査は『中外医事新報』の古いのにあったと思います。やはり満潮に出産が多く、干潮に亡くなる例が多かったようです。また、アメリカのメナカー博士らの研究によると、出産はやはり月の運行と関係があるらしく、満月の日に多いようです。
 池田 誕生の時刻は、真夜中のほうが昼間より二倍も多いと聞いたことがありますが。
 屋嘉比 私もそういう説を読んだことがあります。
 池田 統計的には何時ごろがいちばん多いのですか。
 屋嘉比 朝の四時前後ともいわれています。
 ── 私もおふくろから朝方に生まれたと聞いています。(笑い)
 屋嘉比 その日が満月なら、たいへんリズム正しい生まれ方ですね。(大笑い)
 池田 受胎のときも、満ち潮のときが多いと聞きますが、なぜですか。
 屋嘉比 科学的な説明は十分ではありませんが、母親の胎内で、卵胞から卵子が排卵される時刻は、満ち潮のときと関係があるという研究があります。
 卵子は数時間しか生きないともいわれていますので、その説によれば、この間に受精する確率が高くなることが考えられます。
 池田 だれの研究ですか。
 屋嘉比 スウェーデンの化学者、アレニウス博士です。博士は一万人以上の女性を調査しています。
 それと、これは潮の干満の研究とは違いますが、太陽の出ない長い夜のつづく冬の間、エスキモーの女性は生理がなく、妊娠しないといわれており、同様のことが南極地方の女性についても記録があります。
 池田 不思議なことですね。
 屋嘉比 また、アメリカでは秋から冬にかけて受精することが多く、もっと寒いドイツでは春から夏にかけて多いとの報告もあります。さらに、ニワトリは、夜間ずーっと電灯をつけていると一年中卵を産むようです。
 このように、生殖活動は陽の光や季節など自然の変化とも関係があるようです。
 ── ウミガメは、満月の夜に浜辺で産卵するとかいわれているようですが。
 屋嘉比 ウミガメは、必ずしも月夜とは限らないようですが、ウニなどある種の海中動物の生殖活動は、月の運行と関係があるという調査はあります。
 池田 それにしても、人間の身体は六〇パーセント以上が水分ですね。
 屋嘉比 そのとおりです。
 池田 そうすると、身体のなかで潮の満ち引きがあっても不思議ではない。
 屋嘉比 ええ。それについては、ユニークな説ですが、バイオタイド(生物学的な潮汐)理論というのが提唱されています。
 これは、生体には、さまざまな天体、とくに月の影響が認められるという考え方で、生体のなかにも、海の潮汐(潮の満ち引き)と同じような現象がありうるのではないか、というものです。
 池田 ともかく昔から、タイミングがいいことを「今が潮時」というが(笑い)、経験上、人々が何ものかを感じていたことは事実といってもいいでしょう。
 ── ところで子供の誕生ということは、どこの国でも、どの民族でも、おめでたいことですし、慶び事にもなっています。
 そういう誕生にまつわる習俗として、いまでも、子供が生まれると、すぐ湯浴みをさせ、地面に一度おいてから抱きあげるという風習が残っているようですが。
 池田 おそらく、生命は大地から誕生したということを象徴しているのでしょうね。「母なる大地」という観念は、東西を通じて、広く行きわたっていますからね。
 ── アンデルセンには「コウノトリ」という童話がありますね。コウノトリは、子を守る愛情の深い鳥といわれています。この鳥に立派な子供を運んできてもらおうという話ですね。
 池田 この童話が、またたくまに世界に広がり、いまなお愛されているのは、健やかな子を願う人々の素朴な願望が心の奥にあるからでしょうね。
 屋嘉比 仏法では、どうでしょうか。
 池田 『法華経』の法師功徳品という経文には、「安楽産福子」と説かれている。それは、生命のきれいな、福運に満ちみちた子供を、祈り願ったとおりに授かるとの経文です。
 また日蓮大聖人の御書(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』=以下、本書では御書、御文という)には、出産の喜びを表現して、「しをの指すが如く春の野に華の開けるが如し」と説かれてもおります。
 屋嘉比 素晴らしい表現ですね。
 ── 生命の「生」という文字には、なにかしら春の野原のイメージがあるのでしょうか。
 池田 そう思います。
 「生」とは、象形文字的に分けると、古来、「土」と「●」とに分けているようです。
 屋嘉比 ああそうですか。その象形文字の「●」は、どういう意味になりましょうか。
 池田 私もよくわかりませんが、なにかの字典に、大地に勢いよく萌え出づる草花であるという説があります。「土」は、万物を産み出す生命力の象徴とされています。
 またこれは、私のまったくの我見ですが、「●」は「千」という意義にもとれるのではないかと思います。
 ですから、草花がたくさん咲き香っているというイメージがある、と思われます。
 ── 生命の若々しき息吹をあらわしていることになりますね。
 池田 大聖人の御文のなかに、「総勘文抄」(「三世諸仏総勘文教相廃立」)という御書があります。そのなかに、「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆ことごとく萠え出生して華敷はなさき栄えて世に値う気色なり」とも説かれています。
 ですから「生」とは、まさしく大地より涌き出づる「生命」の、なんとも生きいきとした状態を表現している。ゆえに、すがすがしい鼓動であり、リズムであり、躍動しゆく「新生」の状態をさすということになるでしょうか。
 屋嘉比 素晴らしい御文ですね。
 池田 また、「御義口伝」という御文のなかでは、一歩深い次元から表現しておられる。それは、「従地涌出の菩薩」ということについて、「従地とは十界の衆生の大種の所生なり、涌出とは十界の衆生の出胎の相なり」と説かれています。少々むずかしいのですが。
 ── 「従地涌出の菩薩」とは「地涌の菩薩」のことですね。
 池田 そうです。ここでは、別して日蓮大聖人のことですが、総じて私たちの立場に約して、わかりやすくいえば、現代において妙法を信受した信仰者に対しての表現ととれます。
 さらに、生命論のうえから拝するならば、「十界の衆生」すなわち、すべての生命は、ことごとく「従地涌出の菩薩」であると、普遍的に説かれています。
 ごく簡単に言いますと、すべての衆生の誕生の本源は、生命の大地、いわば大宇宙の生命より涌出したということです。この大宇宙の生命より、さまざまな縁にふれ、条件が整うと、われわれの生命の種子が生じます。そして母の胎内より誕生して、一個の生命体を現じているということと思います。
 ── 深義はとうていわかりませんが、短い言葉のなかに本質をついた哲理と思います。
 池田 さらに、この御文につづいて、「菩薩とは十界の衆生の本有の慈悲なり」とも説かれています。
 ── それは、どういう意義になりますか。
 池田 端的に言えば、あらゆる生命にそなわっている、本然的な「慈悲」を菩薩と表現しています。言いかえれば、いかなる生命も、そして人間も、本来は、「慈悲」の当体である。しかし、その慈悲も潜在的なもので、残念ながら、「冥伏」していて出てこない。
 いわゆる「生命の尊厳」の本源的な根拠は、生きとし生ける、すべての生命に、この「慈悲」の境涯が実在しているからにほかならない。
 人生の究極目的は、この「慈悲」の生命を、涌現させることにあります。これが妙法の信受、行動となるわけです。ですから、仏法においては、本然の「生」とは、「慈悲」の生命が涌出し、躍動する姿であり、自他ともに「華敷き栄えて」いくところに、根本的な「生」の意義があるのではないでしょうか。そこで大聖人の仏法は、それを可能とする現実的方途を万人に開いたものであるといえると思います。

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